第16話 動き出した計画
夜の静寂を打ち破られたラドロウの街は、一瞬にして混乱の渦に投じられた。
民家には次々と明かりが灯り、人々のざわめきが水面の波紋のように広がっていく。
混乱の中心にある奇石研究所も同様だった。建物からは次々と白衣を来た男たちが飛び出し、状況を確認しに来た。そして、誰もが目の前にある二頭の巨狼の姿に驚愕した。
「なんだ……こいつら!」
「お、狼? いや、それにしては大きすぎる……」
「先程の咆吼はこいつらが?」
「いったいどこから……それよりも、なぜここに!?」
慌てふためく白衣の男たちを見下ろして、巨狼たちは愉快そうに口元を大きく歪ませた。口の端から鋭い牙が見える。
コリウスとジニアは、恐怖に身体を震わせる白衣の男たちに襲いかかった。
戦う術も力もない研究員たちは、たやすく吹き飛ばされる。巨狼が前足を振り下ろせば踏みつけられ、尾を振ればいとも簡単に数メートルも宙を舞った。
「大人たちが、あんなにも簡単に突き飛ばされるなんて……」
近くの物陰に身を潜めていたアスターは、巨狼たちの力に圧倒されていた。
周辺を見渡したオレガノは、窓ガラスが割れた一室に目を向けた。
近くに研究員がいないことを確認すると、
「よし、あの窓から中に入るぞ」
静かに立ち上がると、オレガノは懐に持っていたナイフを取り出してアスターに渡した。
「アスター、四階にある部屋に男が立っていたのを覚えているか?」
「うん……階段を上がって左の部屋でしょ?」
「リリィはおそらくそこにいる、お前が行け」
「オレガノは?」
「俺はやつらが奇石を持っていないか確認する。一つでも持っていると、それだけで驚異だからな」
「分かった」
二人は力強く頷くと、それを合図に窓ガラスが割れた一室を目指して走り出す。すばやく中へ侵入すると、部屋の扉から廊下の様子を伺った。
外だけでなく中も混乱状態で、そこらじゅうに怒号や罵声が飛び交っている。誰もが外へ向かって駆け出していた。人波が途切れるのを見計らって、二人は廊下へと出た。
「リリィを連れ出したら、俺のことは気にせずラドロウを離れろ。いいな?」
「うん!」
「よし、行けっ!」
アスターは階段を目指して駆け出し、オレガノは建物のさらに奥へと進んだ。
「何……何が、起きたの?」
強大な咆吼に、眠りにつきかけていたリリィは一瞬にしてその眠気が消し飛んだ。
建物の内外からは、人々の悲鳴や怒号が聞こえている。震える肩を抱きながら、リリィはそっと窓の外を見た。そこには眼を疑うような巨大な二頭の狼が、群がる羽虫を追い払うかのように白衣の男たちを蹴散らしていた。
リリィは、驚きと恐怖で声を失った。おぼつかない足取りで後ずさりすると、部屋の外へ出ようと扉へ向かう。
「ねぇ、ここから出して! 一体何が起きてるの!?」
力強く扉を叩きながら、外にいるであろう見張りの男に呼びかけた。しかし、外から鍵が掛けられている扉はびくともせず、扉の向こう側からは何の反応もなかった。
ドアノブに手を掛けても内側からは施錠を解除できない仕組みになっている。リリィが部屋から出るには、外から鍵を開けてもらうほかはなかった。
だが、いくらリリィが扉を叩き大声で呼びかけても、外からは何の反応も返ってこない。それも当然だった。扉の外にいるはずの男も例に漏れずに、突然起きた騒ぎに混乱し、持ち場を離れていたのだった。
反応が返ってこない扉から下がると、リリィは力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「お母さん、助けて……誰か……」
今にも泣き崩れそうな顔で、震える声を漏らした。弱々しく、今にも消えてなくなりそうな声を。
「誰か……アスター……」
胸元の小さな晶石を握りしめて、リリィは祈るようにきつく目を閉じた。
その直後、突然扉が激しい音を立てた。何かが激しく扉にぶつかるような音だ。何度も何度も音は続き、扉を打ち続けた。リリィは怯える眼を扉に向けたまま、身体を震わせ続ける。ついに扉は大きな音を立てて打ち破られ、その向こう側にはリリィより少し背の高い少年が、息を切らして立っていた。
「アスター……?」
「リリィ!」
アスターはリリィのもとに駆け寄ると、リリィの震える身体を力強く抱きしめた。
「よかった。無事だったんだね」
「アスター……どうしてここに?」
「君を助けに来た。君は、ここにいるべきじゃない。ここにいても幸せにはなれない。だから、一緒に行こう」
アスターは手を引くと、座り込んでいたリリィを立ち上がらせた。アスターに手を引かれたまま、リリィはともに部屋を出た。
自分の願いが届いたかのような出来事に、目の前にアスターがいることが信じられなかった。本当は、いろいろなことを話したかった。言うべきことがあった。トリアスでの楽しかったこと、街の人々に迷惑を掛けたこと、黙って街を出たこと。今こうして、手を引いてくれていること。たくさんのありがとうと、ごめんなさいを言いたかった。だが、それは言葉にならずに、リリィの青い瞳に小さく光るものに変わった。
騒ぎの原因が奇石研究所にあることを突き止めたラドロウの師団兵たちが、徐々に集結しつつあった。兵たちもまた研究員と同様に、金色と銀色に輝く二頭の巨狼を前に、驚きを隠せなかった。
「こいつらが、騒ぎの元凶か?」
「なんなんだ、いつら……」
誰もがその異様な姿に驚愕した。ざわめき動揺する兵たちを叱責するかのように、凛とした女性の声が響き渡る。
「落ち着け! 相手が何であろうと取り乱すな。我らは誉れ高きラドロウの師団であるぞ!」
「ロベリア様!」
兵の群れから姿を現したロベリアは、二頭の巨狼を前にしても臆することなく、しっかりとした足取りで前へ出た。
「状況は?」
「多くの研究員や兵があの巨狼に襲われておりますが、幸い死者は出ていないようです」
「死者が出ていない?」
ロベリアは兵の報告に怪訝な表情を浮かべた。人の倍以上はある体躯の獣に襲われて、死者が出ていないことが以外だった。
あの鋭い牙や爪を受ければ、日頃鍛えられた兵はともかく、建物に籠もりっきりの研究員はひとたまりもないはず。単に弄ばれているだけなのか、それとも手加減しているのか。ロベリアは頭を振って、自身の考えをかき消した。
「分かった。悪いがお前たちは巨狼の相手と、負傷者の保護を頼む。私は研究所内の様子を見に行く」
そう言い残すと、ロベリアは目の前に立ちはだかる巨狼たちに臆することなく駆け寄った。
単身迫ってくるロベリアの姿に気づいたコリウスは、前足を大きく振り上げ、そしてロベリアを狙って一気に振り下ろした。その一撃はロベリアの身体を捉え、地面に叩きつけられるはずだった。しかし、コリウスの一撃はそのまま地面を叩きつけただけに終わった。軽やかに身を捻って巨狼の一撃をかわしたロベリアは、迷うことなくそのまま研究所内へと走り抜けた。
混乱の中、オレガノは研究所内の部屋を一つ一つ確認していた。だが、オレガノの思惑とは裏腹に、奇石はどこにも見当たらなかった。
「俺の思い過ごしだったか?」
独りごちたオレガノは、それでもまだ確認していない部屋へと進んだ。
時折、遭遇する白衣の男たちを巧みな体術で打ち倒し、できる限り剣を抜くことなくやり過ごしていた。
突き当たりにある部屋の扉を勢いよく打ち破り中に入ると、明かりが灯されていないその部屋の奥に人影が見えた。この混乱の最中にまったく動じる様子を見せない人影は、静かにオレガノを振り返った。
「お前は……」
「また、あなたですか」
不敵な笑みを浮かべるラナン=キュラスの姿があった。窓の外から漏れ入る明かりが、ラナンの眼鏡を怪しく輝かせる。
「この騒ぎ、あなた方の仕業というわけですか」
「ここで何をしてい――!」
ラナンの手に何か光る物が見えた。薄暗い部屋に溶け込むような小さな漆黒の石だ。
「まさか……奇石か」
「よくご存じで。これは黒火の石という名で呼ばれる奇石です」
「黒火の石……?」
にやりと口角をつり上げたラナンは、興奮したように声を上げた。
「そうです。かつて北の大国デボン皇国の聖都マルムを、たった一日で灰にしたと言われている黒い火です。どうですか、この黒く艶めかしく輝く石……実に美しいとは思いませんか?」
ラナンは恍惚とした表情を浮かべ、石を讃えるように持ち上げた。
黒い火がもたらした惨劇は、人づてで聞いたことがあるオレガノは、その元凶を目にしたのは初めてだった。
「残念ながらまだ使用したことはなくてね。奇石の力は強大です、うかつに手を出すわけにもいきません。ですが、この状況ではそうも言ってられないようです」
手にした石をオレガノへと向け、ラナンはゆっくりと前へ進み出る。
「ちょうど良い、あなたが黒火の石の被験者第一号となりますか?」
くくっ、と喉を鳴らしながら、ラナンは一歩一歩ゆっくりとオレガノに近づいていく。
「くっ……!」
奇石は持つ者の意思に反応してその力が行使される。ラナンの手のあるかぎり、ラナンはいつでもその力を解き放つことが可能な状態にあった。
黒い火の持つ力を知っていても、具体的にどのようにして力が発現するのかはオレガノには分からなかった。オレガノが考えあぐねていると、背後から迫り来る足音が響いてきた。
美しい金髪を持つ女師団長の眼に、暗がりの部屋で対峙するラナンとトリアスの自警団長の姿が飛び込んできた。
「貴殿はトリアスの……」
男が身に纏った濃紺のフロックコートを見て、ロベリアはすぐに何者かを悟った。
「なぜ貴殿がここにいる?」
ロベリアの問いに、一瞬どう答えるか戸惑ったオレガノは苦い顔をした。
「ちょうどよかった。ロベリア殿、彼がこの混乱を引き起こした張本人です」
「この者が?」
「私は研究員たちが気がかりですので……ここは貴殿にお願いしてもよろしいですか?」
この状況下でトリアスの自警団長がこの場にいることは不自然で、ラナンの言うことはもっともらしく聞こえた。しかしロベリアは、この混乱の中にあってもまったく動じた様子を見せないラナンに対しても、違和感を覚えた。
ラナンは何事もないかの如く、二人の横を悠然と歩いて部屋を出た。
「これは逆に良い機会かもしれんな。これに乗じて……」
手のひらで黒光りする石を見つめながら、ラナンは呟いた。指先で押し上げる眼鏡の奥で、鋭い眼光を放っていた。奇石を握りしめ、ラナンはゆっくりと歩を進めた。