第15話 強襲
陽は西の空に沈みかけ、辺りは徐々に夜の景色に変わろうとしていた。
ジュラの森を出たアスターは、一人で馬を走らせていた。オレガノはレグネリーたちとの話があるといい、そのまま森に残っている。今夜、もう一度ラドロウへ向かうことになったアスターたちは、それぞれがリリィを連れ戻すための準備を始めることになった。
「アスター、お前は一度家へ戻ってバジルが残した石を持ってこい。必ずお前の助けになるはずだ」
オレガノはそう言った。父の形見である石に何があるのか分からないが、オレガノの言葉にアスターは素直に従った。形見の石に何の力が無くても、今のアスターにはそれが必要に思えた。これから自分たちがやろうとしていることに、勇気を与えてくれそうな、そんな気がしていた。
単身で馬を走らせていたアスターは、思っていたよりも早くトリアスに辿り着いた。
自宅のそばで馬を止め、アスターは家へ帰る。自室に入ると、棚に陳列された様々な石の中から、その一つを手にした。透き通るような青い空を思わせる石。その形はどこかいびつで、割れたような断面がある。その石が、当時幼い息子に残されたものの一つだった。
「父さん、僕はリリィを助けたいんだ。だから、力を貸して欲しい」
アスターは石に革製の紐を繫げて、それを首に掛けた。
胸元では、ガウラからもらった晶石と、父の形見である青い鉱石が並ぶ。
「それじゃ、行ってくるよ」
誰もいない部屋に向かって言うと、再び家の外へと出た。
辺りは暗く、空では少し陰りのある月が神秘的な輝きを放っている。
ジュラの森をラドロウ側へ出た、開けた平地の上に四つの影があった。二組の人馬と金と銀の輝きを放つ獣。事情を知らぬ者が見れば、奇怪に思える組み合わせだ。
「今日帰った俺たちが、まさか今夜来るとは思っていないだろう」
静寂に包まれた中で、オレガノのよく通る声が響く。
「俺たちの目的は、あくまでリリィを連れ出すこと。くれぐれもラドロウの民を傷つけることは避けてくれよ」
ともに同行することになった二頭の巨狼に忠告した。
『それは人間次第だな』
金狼は、鼻を鳴らしながら吐き捨てるように言った。
「とにかく、お前たちには陽動を頼む。その混乱に乗じて、俺とアスターが研究所に侵入しリリィを探し、見つけ次第すぐに退く。いいな?」
オレガノの言葉にアスターだけが頷き、巨狼たちはすました顔で聞き流した。
「アスター、ことの前に確認しておく」
「何?」
「おそらく奴らは、総督府や師団とのつながりがある。研究所を襲えば、兵たちが駆けつけてくるだろう。それでもお前はリリィを探し出せるか? 兵と戦えるか?」
オレガノはアスターの覚悟を見極めんと、真っ直ぐにアスターを見据える。
「正直言うと少し怖いけど……でも、だからといってリリィをこのままにはしておけない」
アスターの顔には緊張と危惧が織り混ざった色が現れているが、その決意が揺らぐことはなかった。
オレガノは何かを思い出すかのように、遠い目をした。それから、再びアスターに目を向け、
「人は人から生まれたから、人がいる場所へ帰ろうとする。いずれはお前も誰かのもとへ帰るし、誰かの帰る場所になる。帰るべき場所とは居るべき場所……これは生前、聖女フリージアが残した言葉だ。アスター、お前はリリィの帰る場所になれ」
「帰るべき場所……」
アスターは、フリージアが残したというオレガノの言葉を繰り返した。何となくではあるが、オレガノの言おうとしていることがアスターには理解できた。
「では、行くぞ」
合図とともにオレガノは先行して馬を走らせた。そのあとにアスターと二頭の巨狼が続く。
静寂に包まれた暗闇の中を掛ける一行は、大地を踏み鳴らしてラドロウへ向かった。
夜の闇にあっても城塞都市ラドロウからは、ほんのりと明かりが見えていた。だが、街中には人の気配は少なく、誰もが暖かなベッドで身を休ませようとする時間だった。
ラドロウの堅牢な外壁は、昼間のそれとは違い異様な圧迫感を覚えた。それは、これから行おうとすることがそう思わせるのか、アスターには分からなかった。だが、それでも自身のやるべき事に、迷いは微塵もない。
アスターたちはラドロウの西門のそばで馬を止め、少し離れた場所から様子をうかがっている。
「夜のラドロウは、唯一西門だけが開け放たれている。俺とアスターはそこから入ろう」
「うん、分かった」
「お前たちは……門からだとさすがに目立つな……」
後ろに控える巨狼を見て、オレガノはやや困り顔でこぼした。
『この程度の壁なら飛び越えられんこともない』
コリウスは高さ二十メートルはあるであろう外壁を見上げて言った。
『俺たちが先に入り、中で暴れれば良いんだろう?』
ジニアは逸る気持ちを抑えきれないかのように息を荒くする。
「研究所は街の南西にある大きな建物……すぐに分かるはずだ。暴れるのは研究所の前だけだぞ、くれぐれも街中へは行かないでくれよ」
『我らが中で合図をする。それを機に貴様たちは研究所へ入れ』
「合図って……?」
『お前たちは耳を塞いでいればいい』
巨狼たちは、詳しく説明することなくラドロウの外壁へ向かって駆け出してしまった。
アスターはよく分からないまま、オレガノとともに西門へと向かった。
二頭の巨狼は、速度を落とすことなく駆け、勢いをそのままに外壁に衝突する寸前で高く飛び上がった。二十メートルはある外壁を、二頭は難なく飛び越えてしまった。人にとっては強固な外壁であっても、彼らの前ではその外壁は何の意味もなさなかった。
「すごい……」
巨狼の跳躍力に、アスターは目を見開いた。
「アスター、行くぞ!」
月を背に夜の空に飛び上がる巨狼に見とれたアスターは、オレガノに促されて我に返った。西門に人がいないことを確認した二人は、すばやく門をくぐり、夜のラドロウへ侵入する。
外壁を飛び越えた巨狼は、静かに外壁の内側へ飛び降りる。しなやかなその動きは、まさに獣そのものだ。ほどなくして、オレガノが言っていた一際大きな建物が見えてきた。
『あれか……』
金狼は確認するように言うと、静かに奇石研究所の前に進み出た。二頭の金と銀の毛並みは、月明かりを受けて、妖艶な輝きを放っている。
『面倒くさいが、人間どもと遊んでやるか』
二頭は鼻を膨らませるように大きく息を吸い込んだ。限界まで吸い込んだ息は、今度はその大きな口から同時に吐き出された。
次の瞬間、巨狼たちの口からすさまじい咆吼が発せられた。
一頭のそれでも大きな咆吼は、互いの声が共鳴し増幅するかのように、さらに強大なものにさせた。二頭を中心に、音だけでなく衝撃波を伴って周囲のあらゆるものに襲いかかる。
まるで吹き荒れる嵐が突然発生したかのように、ラドロウの街全体が衝撃に揺れた。
奇石研究所の外壁はその振動に外壁の一部が崩れ、いくつもの窓ガラスが甲高い音を立てて四散する。整備させた石畳の道には、僅かに亀裂が走った。
「なん……だ、これ……」
アスターは必死に両耳を押さえながら、苦悶の表情を浮かべた。
「くっ……あいつらが言っていた合図とは、これか……」
アスターの隣では、オレガノも同じように耳を塞いでいる。
長く続いた咆吼が鳴り止むと、ラドロウの街は一斉に騒ぎ出した。誰もが何事が起きたのか理解できず、思わず家から飛び出してきた者もいた。それは、奇石研究所にいる者も同じで、白衣を着た男たちが、何人も建物から姿を現した。
二頭の巨狼は禍々しく口元をゆがめ、大きな眼は狂気を宿したかのような鋭い眼光を放った。
『さて、これまでの憂さ晴らし……存分にさせてもらうとしようか』