第10話 聖女
早朝のトリアスの街は、前日と同じように薄い霧に覆われていた。街を眺めても空を見上げても、その白い靄であらゆるものを色褪せさせる。霧が出ているためか、僅かに肌寒さを感じさせた。
アスターは街の外れにある、奇しくもリリィが自らの意思でラナンの元へ帰った場所へ向かっていた。やがて、その場所に到着すると、いつもと同じ濃紺を基調としたフロックコートを身に纏ったオレガノの姿が見えてきた。
「来たか」
オレガノの傍らには、美しく整った栗毛色の二頭の馬がいる。
「準備はいいか?」
「うん」
「覚悟は?」
「できてる」
オレガノの確認に、アスターは引き締まった表情で短く答えた。
「ここから一番近い街とは言っても隣国だ。距離もそれなりにあるから、馬に乗って行くぞ」
オレガノは先に馬に跨がると、アスターにも乗るように促した。以前に、オレガノに頼んで馬に乗せてもらったことのあるアスターは、鐙に足を乗せ勢いを付けて馬の上に飛び乗った。数年ぶりに乗る馬の背に、アスターは僅かに緊張した面持ちを浮かべる。
「よし、行くぞ」
手綱を握りオレガノが馬を進ませると、アスターもその後に続いた。二人を乗せた二頭の馬は徐々にその速度を上げ、軽やかに駆け出し始めた。
アスターは遠ざかるトリアスの街を背中に感じながら、先行するオレガノとその先を真っ直ぐに見つめていた。
しばらくのあいだ、二人は無言のまま馬を走らせた。開けた土地には人の姿はなく、蹄が大地を蹴る低い音と身体を駆け抜けていく風の音だけが聞こえてくる。
街を出てからおよそ一時間が過ぎたころ、目の前に緑が生い茂る広大なジュラの森が見えてきた。
ジュラの森はシルル、オルドビス、デボン、その三国の国境をまたぐように広がっている。人が立ち入ることはほとんどなく、ジュラの森は様々な獣たちの棲み家となっていた。
森のすぐそばまで来ると二人は馬の歩みを緩め、やがて馬を立ち止まらせた。オレガノは馬が通れそうな場所を見つけると、ゆっくりと森の中へと進ませた。
森の中は薄暗く、幹の大きな大木が幾本も立ち並んでいる。足下は丈の短い草が無造作に生い茂り、頭上には屹立する木があらゆる方向に枝を伸ばし、少しでも陽の光を受けようと鮮やかな緑の葉を生やしている。微かにできたその隙間からは陽光が差し込み、光の粒を降らすような木漏れ日は、いつもみる太陽の輝きとは少し違って見えた。
街を出てから口を閉ざしていたアスターだったが、ずっと気になっていることを口にした。
「ねぇ、オレガノ」
「何だ?」
「オレガノはリリィのこと、どれくらい知ってるの?」
「…………」
アスターの疑問はごく自然だった。リリィはどうやら、今向かっているラドロウから来たらしい。そして、そのリリィを追って白衣の男たちが、わざわざ辺境にあるトリアスまでやってきたのだ。リリィは白衣の男たちに怯えていたが、結果的には自分の意思で戻ることにした。アスターが知っているのは、それくらいだった。
しかしオレガノは違ったように感じられた。それは、オレガノの話す言葉の端々に、アスターの知らない事情が見え隠れしていたからだった。
少し考えるかのように沈黙していたオレガノは、静かにその口を開く。
「そうだな、ここまできたんだ。少しリリィについて話しておこう」
オレガノはどこか遠くを見るような目をしたまま続ける。
「とは言っても、俺もリリィ自身から聞いたわけではない。あくまで俺の憶測だ。それでもいいか?」
「うん、聞かせて欲しい」
馬の背に揺られながら、二人は道無き道を進み続ける。
「アスターは白い髪の意味を知っているか?」
「白い髪の意味? ううん、知らない」
アスターは小さく首を振った。
「今から約二百年以上も前の話だ。北の大国、デボン皇国のある街に、リリィと同じ白い髪を持った女性がいた」
まるで昔を思い出すかのように、オレガノは記憶をたぐり寄せながら良く通る声で語り始める。
「彼女の名はフリージア。生まれながら白い髪と、様々な奇跡の業を持っていた」
「フリージアって、聖女フリージアのこと? おとぎ話に出てくるあの……」
アスターは幼い頃、街の人々から聞かされたことがあった。遠い異国で、様々な奇跡を起こした女性の話を。その話は有名で、広く語り継がれていた伝承の1つだ。
「そうだ。フリージアは特異な力で様々な奇跡を起こし、人々を救った。いつしか彼女のことを聖女と呼ぶようになった。その一方で、彼女の力を手に入れようとする輩も少なくなかった。だが、彼女の力の前には、どうすることもできなかった」
アスターはオレガノの話に、ただじっと耳を傾ける。
「だが、ある日……彼女の身体から晶石が現れ、少しずつ彼女の体表を覆っていった。それが身体の半分を覆ったころ、彼女は若くしてこの世を去った」
「身体から晶石……そんなことが?」
「当時の人々はそれを結晶化障害と呼んだ。原因は分からない」
オレガノの瞳が、哀しみが宿ったように揺らぐ。
「人々は彼女の死を嘆き悲しんだ。そして、彼女のような奇跡の業を持った第二の聖女が現れることを願ったが、それは叶わなかった。やがてフリージアは、今では伝承という形で語り継がれるようになった……」
「それじゃあリリィは……」
「そうだ。二百年以上過ぎた今、白い髪を持ったリリィが現れた。聖女の再来というわけだ」
「リリィが、聖女……」
「厄介なのは、リリィを追ってきた者たちが、奇石を調べているということだ」
「奇石? 奇石って……リリィと何か関係があるの?」
オレガノは「あぁ」と頷き、
「フリージアの死後、彼女の力を手に入れようとした輩が墓所からその遺体を暴いたのだ。フリージアの身体からは、その奇石がいくつも発見された」
「身体の中から石が?」
「それが奇石。彼女の持つ特異な力の源だ。その当時は、奇石を巡っての紛争も起きた。だがその混乱で奇石は散り散りになり、今ではその所在は分からないがな」
「リリィの身体にも、その奇石があるって言うこと?」
「それは分からん。だが、やつらがわざわざ自らリリィを捜しにトリアスまで来たことを考えると、その可能性は高い。奇石は持つ者に大きな力を与える。やつらがリリィに危害を加えないとは言い切れん」
オレガノの話は、アスターにとって予想外のことばかりだった。まさか、今ではおとぎ話や伝承という形で語り継がれている、聖女フリージアの話に繋がるとは思いもしなかった。
確かに、初めてリリィと出会ったときは彼女の白い髪は印象的で、今まで白い髪を持つ人には出会ったことはなかった。だが、そのときは単に珍しいと思うだけで、それ以上の意味はアスターにはなかった。
なぜリリィは自分のことを話したがらないのか、アスターは何となく理解できた。やはり、自分の行動は間違っていなかった。リリィの居るべき場所はラドロウではない。そのことを強く再確認した。
アスターは腰に下げた小さな袋を強く握りしめた。リリィに守ると約束したこと、アイリスにリリィを連れて戻ると約束したこと。その二つの約束が、アスターの決意をより強固なものにした。握られた袋の中で、アスターの決意に答えるかのように赤い石が微かな輝きを放っていた。