懐かしい匂いの正体
7月中旬、まぶしいほどに輝く太陽は容赦なく地表を照らしつける
夏の象徴でもあるセミは、辺り構わず大合唱をしている
近年は地球温暖化の影響もあり、控えめに言っても早朝からとても暑い
(はぁ…暑い。 …今日も、仕事か…。大人も夏休みがあればいいのに…)
ゆう子は身も蓋もないことを思いながら、最寄り駅まで自転車を走らせていく
酷暑の渦中、自転車を漕ぐのは辛く、自慢の白い肌はじわじわと汗ばんで、シャツには既に湿った濃い生地が浮き上がっていた
ゆう子の住まいは地方だが、勤務先は都心にある
自転車で最寄り駅へ行き、都心の駅まで電車で通勤する
さらに、そこから地下鉄に乗り換えていかなければならない
通勤時間は、およそ1 時間弱といったところだ
地下鉄は数駅をまたぐだけだが、電車内はいつも押し蔵まんじゅうになるので、気分は憂鬱になる
通勤ラッシュは、仕事よりもある意味で疲れる
肉体的にも、精神的にも
もはや罰ゲームでさえ感じてしまうほどだ
(ちょっとヤバいかも…。 少し寝過ごしちゃった…急がなきゃ…)
都心の駅に着いた電車を軽やかに下車して、急ぎ足で地下鉄乗り場へと向かっていく
早々に到着した地下鉄の中へと、乗客を押し込むようにして半ば強引に乗車する
なんとか乗車できても息つく暇はなく、今度は前後左右と人に圧迫されて息苦しいタイムが始まるのだ
いっそのこと、さっき食べた朝食をリバースすれば私の周りにスペースを作ってくれるんじゃないか、などというどうでもいい妄想をし始める
満員電車で朝からテンションはだだ下がりなので、そんなくだらないことを考えていないと、正直やってられない
日々の生活のために、たいしてやりがいもないつまらない仕事をするべく、毎日の満員電車の苦しみに耐えて身体を揺らされている…
私は何のために生きているのだろうか…
私は人生で何をしたいんだろう…
先の見えない未来に、思わずため息がこぼれる
(はぁ…。 ん? 何か、妙な匂いがする…)
なんと、目の前に腋毛が!
突然のことに驚いて思わず後ずさりすると、後頭部が後ろの人にぶつかった
ゴツン!という鈍い音が頭の内部で響き渡る
後ろで舌打ちが聞こえたので、ごめんなさい、と小声で謝る
気を取り直して、あらためて前を見る
半袖のワイシャツを着ている中年サラリーマンが吊革を掴んでおり、ちょうど目の前に男性の開いている袖口から脇が見えていたのだ
(脇、くっさっ!)
中年サラリーマン男性の露出された脇から、異様な匂いがゆう子の鼻を突く
(なんで私が朝っぱらから他人のワキガを嗅がなきゃいけないのよ! ふざけんな!)
理不尽な出来事に怒りを隠せないゆう子
ワキガの匂いを避けるために体の向きを変えようとしたが、人に挟まれている圧力が強すぎてうまく向きを変えることができない
突如訪れたワキガの拷問にイライラするゆう子
(朝から最悪…。 何なのコイツは! なんで私が…。 もう、いい加減にしてほしい!)
理不尽な仕打ちにどうしようもない怒りと絶望を感じる最中、あることに気が付いた
(…ちょっと、待って。…この匂い、何かの匂いに似ている… どこかで嗅いだことがあるような… 何の匂いだっけ?)
何かの匂いに似ている、何だろう…
思い出そうとするが、思い出せない
どこか、懐かしい匂い… これは一体…
もやもやする思いを晴らそうと、必死に思い出そうとする
白黒ハッキリさせるゆう子の性格が、事をあやふやに終わらせることを許さなかった
懐かしい匂いの正体を知りたい
好奇心に突き動かされたゆう子は、さらに匂いを嗅ごうと男性に密着する程に近づく
ゆう子の異質な行動に、男性は気が付いた
(…? え? この子、なに? 俺に密着しようとしている? なんで?)
男性はゆう子の行動の理由がわからず戸惑うばかり
(…もしかして、俺に興味があるとか?)
男性の都合の良い妄想は、あらぬ方向へとむくむく広がってゆく
そうこうしている内に会社の最寄り駅に到着したので、ゆう子は仕方なく下車した
ゆう子は、ワキガの匂いが何に似ているのかわからなかった
男性は、ゆう子が身体を寄せてきた理由がわからない
お互いにもやもやを残したまま、二人は別れてしまう…
ゆう子は、地下鉄での出来事が気になって仕事に手がつかない
(なんだっけ、あの匂い…どこか懐かしい感じがしたんだけど…)
オフィスの窓に広がる都心の景色を、上の空で眺めていた
「何ボケーっとしとるんだ! 資料はもうできたんだろうな?」
次の日…
ゆう子はいつものように地下鉄の電車に乗り込むと、昨日出会ったワキガの男性を見つけた
昨日と同じく、半袖のワイシャツ姿で吊革を掴んでいる
(やった!)
思わぬチャンスの到来で、心の中でガッツポーズをとる
早く男性のワキガを嗅ぎたい!
理由を知らない人にとっては、変態と思われても仕方のない願望だろう
ゆう子は、百貨店のバーゲンセール時の人混みの中をかき分けるかように、なりふり構わず押し進み、待ち焦がれた男性の隣を死守した
周りからは非常に迷惑そうに私を見ている冷たい視線を感じる
しかし、そんなことは私にとってはどうでもいいのだ!
今、重要なのはワキガなのだ!
だが、昨日のようにベストポジションではなかった
袖口から開いた脇は斜め向こうへと向いている
(これじゃあ、匂いをしっかり嗅ぐことができないじゃん…)
下車まで数駅、残された時間もあとわずか
ゆう子は多少強引に動いて、男性に合わせて身体の向きを整えて密着する
(あ、この子! 昨日の子だ。)
男性は超接近して顔を近づけてくるゆう子に気が付いた
ゆう子は男性の脇に顔を寄せて、ワキガを嗅ぎ始める
(くんくん、くんくん…)
ゆう子の行動に男性は驚きを隠せなかった
(え?! 何、この子? 僕の脇の匂いを必死に嗅いでいる?)
ゆう子は匂いを連想させる正体を明かすのに必死だった
(この匂い… これは… えっと…何だっけ…)
男性は、もしかして自分に気があるのではないかと、一瞬ながら夢を見る
だがしかし、冷静に考えて若い女性が中年の自分に興味があるなんてありえないと悟り、痴漢と間違われないようにと体の向きを少しひねった
(?! ちょっと! 何、体の向きを変えているのよ?)
ゆう子は追いかけるように男性の向きに合わせて自分の身体を動かす
(え?! もしかして、本当に俺に興味があるのか? これは、…そうだ! モテ期に違いない! 40年間モテなかった俺にも、ついにチャンスが訪れたのだ!)
男性は人生で初めて女性にモテるという期待と緊張で、大量の汗をかき始めた
脇からしたたり落ちる大量の汗から発せられる匂いはより強烈なものへとなっていく
(! 匂いが強くなってきた? あ、でももう少しで思い出せそう… ああ、あと少しなのに!)
早く思い出したいゆう子は、顔をさらに脇に近づけて匂いを貪るように嗅いでいく
(くんくん、くんくん、くんくん)
男性は、女性が自分を好いてくれることに恋する喜びを感じていた
(ああ、なんて積極的な女性なんだ! やっぱり、僕のことが好きなんだね…。僕の体臭が女性にとって魅力的なフェロモンだったなんて知らなかった…。 よし、男としての自信を取り戻したぞ!)
男性の疑惑は確信へと変わり、自分に自信を取り戻していく
汗臭いと思っていた男の体臭は、実は異性を魅了させるフェロモンだったのだ!
モテるためには、もっと汗をかいて体臭を放たなければならない!
そう、もっと汗をかかなくては!!!
男性が大いなる勘違いをしていたその頃、ゆう子はついに思い出した
(思い出した! 鉛筆削りの匂いだわ! そうよ、この匂い。そっくりだわ。鉛筆を削った時の懐かしい木の香り…)
ゆう子はもやもやが解けた喜びで、清々しい笑みを浮かべていた
ゆう子のまんべんな笑顔を見て、男性も喜んだ
(おぉ、俺のことをこんなに喜んでくれるなんて! やっぱり俺はモテるんだ、よし!)
会社の最寄り駅に着いたゆう子は、ドアが開くと軽やかなステップで下車した
✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱ ✱
「…なんか汗臭くない?」
「課長よ、汗だくで出勤してきたのよ」
「え?! 課長のワイシャツ、汗でビショビショじゃん。 …なんで着替えしないのかしら?」
「…わかんない。…くっさ。…なんとかなんないの、あの匂い。」
オフィス内は鉛筆削りの匂いという課長のフェロモンで充満していた
課長は汗をかいても拭かない
汗だくでも着替えない
40年を経てモテ期が到来した男に、恐れるものなど何もないのだ!
自分を魅力的に見せるのも仕事のうちだ、と部下にどや顔で叱咤激励する
(まったく…。自分を魅力的に魅せないとモテないよ?)
汗だくの課長は自信に満ち溢れていた
翌日、課長は風邪を引いて仕事を休んだ(了)




