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『赤』

 今日は4回目の結婚記念日だった。


 彼は覚えてないかもしれないけれど、私だけは数日前からカレンダーと睨めっこして、楽しみにしている。


 この日だけは、彼がいつもより優しいかもしれない。


 そんな、淡い期待で。


 玄関の花瓶に挿した、色艶やかな赤色の花。いつかの花屋で見かけた『感謝』の花言葉を、来る日に向けてずっとずっと記憶に残していた。



 多分、仕事を終えた彼は、記念日のことなんてすっかり忘れたまま帰路について。


 空腹に耐えかねてちょっとコンビニに寄って。


 疲れたからビール飲もう、って銀色の500ml缶を買って。


 おつまみの定番のカルパスも手に持って。


 そして、ようやく帰ってきた玄関で、見覚えのない花を目にして私に聞くんだ。


「これどうしたの」って。

 そうしたら私は、こう答える。


「貴方に毎日感謝してるよ、ありがとうの気持ちだよ」って。


 彼は私の返答に、可笑しそうにふふっと笑って。バカだなぁなんて愛おしそうに小声で呟いて、珍しく私の髪を撫でるんだ。それで、買ってきた缶ビールを見せて、一緒に飲もうか、って提案してくる。私は、ビールなんて苦くて飲めないのに。


 でも、その優しさが飛び上がるほど嬉しくて頷く。コップにちょっとだけ分けてもらって、彼がゴクゴクと飲み進める間に、私は僅か数ミリだけを飲み込む。



 うん、完璧だ。きっと、恐らく、いや、間違いなく。こんな幸せな時間になるに違いない。だって私は彼を愛してるし、彼も私を……愛してくれている、はずだから。



 昔は、そうだったから。





 私は、彼の帰りを玄関で待った。帰ってくる時間は、連絡がなくても大体分かってる。それに合わせてご飯の用意をして、浴槽にお湯も溜めて、玄関の近くに座って待った。


 待つ。

 待った。

 待ってた。

 待っている。

 待ち続けている。

 待ち続けているのに。

 来ない。

 来ない。

 来ない。


 彼が一向に帰ってこない。



 お尻が痛くなるのと比例してネットサーフィンが捗るだけで、いつになっても彼は帰ってこない。連絡も、返ってこない。


 事故にでも遭ってしまっていたらどうしよう。

 実はとんでもなく残業させられていたらどうしよう。


 何かあったなら、何かあったと連絡してほしい。連絡が返せないなら既読だけでもつけてほしい。何も分からず、家でひとり待たされる不安が。ただひとり。募っていく。



 何度も電話をかけた。

 何度もメッセージを送った。

 でも、出なくて。


 ああ、忘れてたけれどそういえば一度、前にもこんなことがあったな、なんて。


 思い出した時、今更になってドアが開いた。結婚記念日が終わった、朝だった。



「なに、してんの」



 コンビニの袋を持った彼が、玄関でスマホを握りしめていた私を見下ろして言う。無事に帰ってきてくれた安堵が、頭と胸をいっぱいに満たす。



「よかった、ずっと待ってたんだよ。連絡がつかないから何かあったのか、心配で」


「ああ……ごめん、電源切れてたかも。つか、こんなとこで待ってなくてよかったのに」


「だって! ……だって昨日は、結婚記念日、だったから。あのね、ほら、この花を見てほしかったの。この花ね……」



 私と目を合わせず、靴を脱いで部屋に入っていく彼。私の必死の説明が、届いてるのか否か。花瓶の花を、汚いものでも見るような目で一瞥して、


たった


「きも」


と、それだけ。

一言、だけ。







 待つのをやめた。


 もう、あんなものを待つのをやめた。


 私の横を通ったとき、知らない匂いがした。


 清潔なシャンプーの匂い。


 それと、


 女物の香水の匂い。


 積み上げてきた物が、あの場で全部散った。私の心も、思い出も、縋っていた優しい過去も。


 広いベッドのど真ん中に、手を広げて眠った彼を置いて、私は家を出た。


 机の上には勿論、離婚届を残して。


 私は、待つのをやめた。


「いつもありがとう」と言って微笑んでくれた、あの頃の彼のことを。

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