あだ名
居酒屋のざわめきの中、向かいの先輩はいつもより頬を赤くしていた。
グラスがぶつかる音や笑い声が絶え間なく響くその空間で、普段は口数が少なくクールな人が、今日は少しゆるんで見える。声もどこか甘い。
「ねえ……私の会社での呼び方、ちょっと気になるんだ」
その言葉に、思わず先輩の顔を見つめた。
私は少しでも先輩との距離を縮めたくて、みんなが呼んでいたあだ名を当たり前のように使ってきた。
それが親しさの証になると思い込んでいたのだ。
だから、嫌がられているのかと思うと胸が冷たくなる。
けれど先輩は、店内の喧噪にかき消されそうな声で続けた。
グラスの縁をそっと指でなぞり、小さく笑う。
「嫌いじゃないよ。ただ……ほんとは下の名前で呼んでほしかったな」
その一言に、心臓が大きく跳ねた。
思いがけない照れくさそうな表情に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
やっぱり、そんな先輩がかわいくてたまらない。
勇気を振り絞り、小さく先輩の名前を呼んでみる。
ざわめきに紛れるようなささやきだったのに、先輩は確かに反応して、頬をさらに赤くした。
「……もう一回、呼んで?」
その甘えるような一言に、胸の奥が熱く溶けていく。
――もう二度と、あだ名では呼べないと思った。