水天一碧の君
あの頃、家のチャイムが鳴らして、ドンドンとドアを乱暴にノックさせて、「しーうんくーん」と呼ぶ人間は一人しかいなかった。
隣に住む幼馴染のミナモだ。
この日もミナモはちょっとした騒音のような感じで家にいる僕を呼んだ。この訪問に我が家で飼っている雑種のポポも全力でお迎えするため、僕と一緒に玄関へと直行していた。
「どうしたの? ミナモ」
僕がドアを開けるとミナモは麦わら帽子をかぶり、リュックを背負っていた。後ろには自転車が置いてあった。明らかにこれから冒険に行くような感じだ。
ポポが外に出ないように抱っこしながら僕は「これから、どこかに行くの?」と聞いた。
「うん。海が見える所」
ミナモの言葉に僕は「はあ?」と言った。
と言うのも僕の家から海まで車で一時間以上もかかるのだ。小学四年のミナモだったら自転車で向かったら三時間以上はかかるだろう。
僕は呆れて「遠くない?」と聞いた。
「ううん。海までじゃないの。【水天一碧】みたいな光景が見たいんだ」
「すいてんいっぺき? 何それ?」
ミナモは意味を話して場所を話していたと思うが、僕は聞いていなかった。
いつだってミナモは女の子なのに、こういった冒険じみたことが大好きなのだ。男なのに冷めている僕とは対照的なのだ。
「紫雲君は行かない?」
「行かない。留守番を頼まれているから」
「……私は留守番しなくても別にいいって言われるけどなー。ねー、ポポ」
ミナモの家は共働きだから、家には誰もいない時間の方が長い。夏休みでもミナモは一人だ。だから冒険など外に出ることが多かったんだろうと今は思う。
僕が抱っこしているポポをミナモはモフモフしながら、「じゃあ、私一人で行ってくるね」と言った。
「じゃ、ポポ、紫雲君。行ってきまーす!」
ミナモは元気いっぱいに「バイバイ」と手を振って、自転車に乗って海が見える場所へ向かった。帰ってきたら、海が見えた話でも聞かされるんだろうなと自転車で走るミナモの背中を見ながら当時は思っていた。
だけどミナモは帰ってこなかった。
*
一学期の終業式が終わって帰宅部の僕は、とある事情ですぐに自転車で家へと帰る。僕の高校は自転車で三十分くらいの距離だ。
徒歩で登下校する小学生の頃は「自転車で学校に通えるなんていいなあ」と羨ましがっていたけど、今ではただの移動手段としか思えなくなってしまった。憧れていたものも日常になると何とも思えなくなる。
とにかく急いで僕は家まで自転車を走らせる。ようやく自分の家の屋根が見えた時、隣の屋根も一緒に見えてきた。ミナモの家、だった場所だ。
今は誰も住んでいない空き家になっているミナモの家。彼女が行方不明になって一年も経たないうちに両親は引っ越してしまった。噂では離婚したとか。小学生の時は分からなかったけど、元々夫婦仲は冷めていたんだろうなと思った。
ミナモの事は思い出したくない。そう思って、すぐに自分の家に帰って行った。小学生の時は専業主婦だった母だったが、僕が中学生になるとパートの仕事を始めた。
まだ母は帰っていないので、「ただいま」と言っても「お帰り」と言う声は聞こえない。でもパタパタと尻尾を振る音と小さな犬の鳴き声が聞こえてきた。
「ただいま、ポポ」
僕がポポのところに行くと尻尾を振って迎えに来てくれた。僕が生まれる前からいたポポはもう長老と呼ばれるくらいの年齢になってしまった。立ち上がるのも億劫な感じで、ほとんど毎日寝て、散歩もほとんど行かなくなってしまった。こんな感じなのですぐに帰って、ポポと一緒にいたいって思うのだ。それに、考えたくないけどポポが死んでいるのに自分が家に居なかったら悲しすぎるから。
僕が帰ってきたのを尻尾振って出迎えてくれるポポ。いつも元気いっぱいな奴で、僕が帰ってくれば飛びかかって喜んでいたのに、こんな風になるなんて……と思う。
ポポを撫でた後、手洗いをして、制服から私服に着替える。そして台所に行って、冷凍チャーハンを温めて食べる。
でも静かすぎるので、テレビを付ける。
『さあ、今日から夏休み! だけど海や川、山などの事故が多くなる季節! どういった事が危ないのか、一緒に学びましょう』
夏休みで起こりやすい事故についてワイドショーが特集をしていた。川遊びをしていた子供が流されて行方不明になる話題になると、途端にミナモの事を思い出す。
あの日、夕方になってもミナモが帰ってこず隣の家に明かりがついていないため、うちの親が心配していた。時々冒険と言って遠出するミナモを知っていた僕は、この時は心配していなかった。
だが夜になってミナモの両親が帰って来ていない。どこに行ったか知らないか? と聞かれた時、さすがに僕も不安になって来た。
僕は「すいてんいっぺきが見える所」「ミナモは海が見える所に行った」と伝えたが肝心の場所が分からないため、うちとミナモの両親も首を捻るだけだった。
そうして帰ってこないミナモを探すため、学校の担任や警察がやってきて大騒ぎになった。と言っても僕の証言はあてにならないし、探しに行けない。僕はポポと心細く待っていた。あと大騒ぎになった事をミナモにどう文句を言うか考えていた。
でも結局、ミナモは見つからなかった。
事故か誘拐か……。そんな話しを大人たちはしていた。二学期になると友達も心配して、僕に話しかけてきた。こんなに心配されることなんて一生無いだろうってくらい、ミナモはたくさんの人に心配されていた。だけどもう五年も現れていない。
さてミナモが言っていた水天一碧とは【空と海が同じ色になって境目が分から無くなる】と言う意味だ。
水天一碧を見に行こうとしたのに、ミナモは自分が生きているのか死んでいるのか、曖昧になっているじゃないか!
遺体が無いので死んではいないと思う事も出来るけど、ずっと生きていると思って待っているともどかしい気持ちになる。
だからミナモを考えるとモヤモヤした気持ちになって、辛くなるのだ。
*
夕方になって母さんが帰ってきた。
「ただいま、ポポ、紫雲」
テレビに飽きて、リビングで漫画を読んでいた俺は顔を上げずに「おかえりー」と言う。ポポも尻尾と小さな鳴き声でお迎えしている。
仕事が終わって夕飯の買い物をしてきた母はエコバックを台所に置きながら喋る。
「そう言えばさー。隣の家、誰かが住むかも」
「……え? 引っ越してくる人が来るの?」
「そうなのよね。しかもリフォームするかもしれないって」
そう言って母さんは「騒音とか大丈夫かしら」と不安そうな顔で言った。
一方、僕はずっと見慣れてきた隣の空き家がリフォームして形が変わると思い、嬉しかった。あの家を見ると心がズーンっと重くなってしまうのだ。
母さんは買ってきた野菜やお肉を冷蔵庫に入れながら、思い出し笑いをして話し出す。
「リフォームするって事は、うちとお隣さんの垣根の隙間も埋められちゃうわね。ミナモちゃんとあんたが通っていた近道」
「そうだね。でも道じゃなくて穴っぽいし、通っていたのはミナモだけだし」
「よくあそこの通って来ていたわね、ミナモちゃん」
遠い目をしながらリビングにある庭へと出られる大きな窓を見た。お隣との垣根はネズミモチの木があるのだがポポがちょっと大きな穴を掘ってしまい、ちょっとした隙間があるのだ。その隙間をミナモは【近道】と称して、うちのやって来ていたのだ。
とはいえ、ミナモが大きくなると近道は通れなくなってしまったけど。
「思い出すわねー。『紫雲くーん』って言って、そこの窓をバンバンと叩いていたよね」
「うん。迷惑行為だったな」
俺の言葉を無視して母さんは「仲良かったわね。あんた達」と言い、ミナモとの思い出を思い出す。
あそこのリビングの窓をどんどん叩いて「紫雲くーん、トカゲのしっぽ!」と言って見せてきた時は恐怖しか無かった。何でそんなものを持ってくるんだと、今でも思う。
トカゲのしっぽだけじゃない。セミとかカナブンとか、そう言ったのを取って来ては僕に見せていた。ミナモは女の子なのに、こういった虫とかも好きなのだ。他にもミナモの家の中にカマキリの卵を放置して助けを求めてきたり(小さなカマキリの赤ちゃんがいっぱいで地獄絵図だった)、小さな蜂の巣を持って来たり(すでにハチや幼虫のいない状態の小さな巣だったが見た瞬間、血の気が引いた)、と様々な思い出が蘇る。
僕が絶叫した虫たちを思い浮かべていると、母は「仲良かったわよね、あんた達」と言う。
仲が良かったというよりも、遊ぶ相手がミナモしか居なかったんだよなー。同年代の友人がミナモくらいしか居ないのと、近くに住んでいる男の子はみんな年上で小さな僕には怖かったからだ。それに僕があまり喋らないし、部屋でジッとしているタイプだったから保育園に行っても友達が少ないし。
うちの両親もこんな感じだからミナモの事を結構、歓迎していたな。
そんなことを考えていると、ラインに大量の画像が送信されていた。誰だ? と思っていると父からだった。父はラインとかのスマホアプリをアタフタしながらやっていたので、こんなに大量に画像が送信されるなんて意外過ぎる。
何の画像だ? と思っていると俺の小さい頃の写真だった。しばらく送られてきた後、父からメッセージが届いた。
【仕事の部下にデジカメのメモリーの写真をスマホに入れてもらったから、ラインで送信した】
いや、別にいらないんだけど……。と思いながら見るとミナモも一緒に写っている写真もあった。しかも僕より目立っている!
しばらく見ていると小学三年の時、一緒に海へ行った写真もあった。しかも帰りの車内で寝ている様子も隠し撮りされたのだろう。もう! プライバシーが無いぞ!
その写真を見ると僕と仲良くミナモは口を開けて爆睡していた。肩にはクマのキャラクターが付いたオレンジの水筒があった。そう言えば、『ママに買ってもらったの!』と言ってミナモはこの水筒を自慢してきたことがあったな。よくよく考えれば、ミナモはよく母親から買った物をよく見せていた。こういった思い出を振り返ってみると、ミナモは両親が恋しかったんじゃ無いだろうか。僕の両親よりも、自分の家族と一緒に過ごしたかったんだろうな。
僕の小さい頃の写真は母にも送られてきて、「ふふふ、紫雲とミナモちゃん、可愛いわね」と言っていた。僕の泣き顔写真なんて黒歴史に過ぎないよ!
他の写真を見ていくとポポの写真もあった。
とても元気に走り回って、小さかった僕を子分か弟と思っていたポポ。散歩中、元気に走ってリードを持った僕が転んで泣いた後の写真もあった。これも黒歴史。
今はもうポポは動けなくなってしまったから、元気いっぱいだった頃の写真を見ると懐かしさと切なさがこみ上げてきた。
「時間経つのは早いわね……」
母はそうポツリと呟いた。
*
僕は二階に行って、ベッドで寝ながらスマホを弄っていた。すでに深夜二時。もう眠る時間ではあるけど、夏休み初日だから許容範囲だろう。
だけどスマホにも飽きて、ぼんやりとしていると夕飯の時の母と父の話しを思い出した。
「この写真、ミナモちゃんの家族に送りたいね」
「えー、でも前に送っただろう」
「それは紙だったでしょう。無くなっちゃったかもしれないから、データとして送ってあげたら……」
「もしかしたら辛い記憶を思い出させると言って、いらないって言われるかもしれない。前に写真を渡した時だって要らなそうな顔をされていたじゃないか」
「でも……」
そんな会話を聞いて、何となく心が重くなる。
別に自分が恵まれている訳では思っているが、行方不明になったミナモが自分や他の子よりも不憫に思えた。
ミナモの両親はあまり子供に関心が無い事は子供の僕でも薄々感じていた。両親と旅行に行くことや遊びや買い物に行くという事も無かった。
それでもミナモが居なくなったら、ミナモの両親は慌てるだろうと思った。でも特にそういう事は無く、淡々としていた。むしろうちの両親が慌てていたくらいだ。
時々、行方不明になった子を探す親がポスターとかネットで呼びかけるという事をしているがミナモの両親はしないし、一年後に引っ越しをしている。風の噂で離婚したというのも聞いた。もしかしたらミナモが帰ってくるかもしれないのに、この地を去るなんて……と当時は思った。
今はミナモの両親も色々思う事があったのかもしれない……と思うけど、やっぱりミナモに対して興味なかったのかな? と感じた。
そんな時だった。
ピンポーン! ピンポンピンポーン! ピンポンピンポンピンポーン!
突然、チャイムが鳴り響いたと思ったら、次はドンドンっとドアを叩く音がして心臓が破裂するかと思うくらい驚いた。
訪ねてくること自体、迷惑な時間帯なのにチャイムやドアを叩く音をガンガンにやっているなんて……。異常者が来たんじゃないかと思った。
こういう時って無視が一番だよな……と思っていると、今度は廊下を走る音が聞こえてきた。音は小さくカチャカチャと爪を立てている。
「え? ポポ?」
明らかに廊下を走る音はポポだ。でも、もう走るくらいの元気なんてあるはずないのに……。
ヤバい訪問者より走るポポが心配になり、僕は部屋を出て玄関へと向かった。
玄関ではポポが後ろ脚で立って、ドアの前で飛んでいた。その間にもドアがドンドンと叩いていた。
「ポポ。どうした?」
ポポを抱っこしようとしたら、ドアから大きな声で「しーうんくーん!」と聞こえてきた。
え? そんな、まさか……。
急いでドアを開ける。ポポが早くと急かすように後ろ脚で立って、僕の背中に飛びかかって来る。それを宥めつつ、ドアを開けた。
「ヤッホー、紫雲君」
ニコッと笑ったミナモが立っていた。
良かった、生きていたんだ! と思ったが、それは違う事に気が付いた。
ミナモは小学四年生の姿で、しかも体が空けているように見えた。
え? じゃあ死んで、目の前のミナモは幽霊なの? と呆然としているとポポがミナモに飛びかかった。
「わあ、ポポ。お散歩に行く?」
「え? ちょっと、待った。僕も行く」
急いで靴を履こうとした時、ミナモは「ううん、私だけで行くよ」と言ってポポを抱っこした。
「いや、ポポは僕の家の犬……」
「そう言えばさー、紫雲君!」
僕の抗議の声を被せるように、ミナモは思い出したように言う。
「海が見えたんだよー」
「……いつの話し?」
「私が海に行くって言った時、場所を言ったでしょ。水天一碧じゃ無かったけど、紫雲君も見てほしいな」
ああ、ミナモが最後に会った時の事か……。あまりにも数日くらいしか経っていないような言い方でいうものだから一瞬、分からなかった。
呆然としている僕にミナモは「仕方ないな」と言った。
「今度、一緒に行こう! 夏休み中には」
「え?」
「それじゃ、ポポのお散歩に行ってくるから」
「ちょっと、待って! ポポは僕の家の犬だって!」
その時、後ろから「紫雲、何しているの?」と声をかけられた。振り向くと、母が目をこすりながらやってきた。
「何、玄関から出ようとしているのよ。今何時だと思ってんの?」
「え? だってチャイムが鳴って、ドアも叩いて、ポポが廊下を走って……」
「チャイムもドアを叩く音も聞こえなかったわよ。それにポポだって」
そう言って母はポポの方を見に行く。僕も一緒について行くとポポは伏せの形で目をつぶっていた。ジッと動かないで眠っているようだったが、何だか違和感があって近づいて、触れてみた。
生き物の暖かさが消えていて、息もしていなかった。
*
「きっとポポは最後に紫雲とお散歩に行きたかったんだね」
ポポの火葬が終わってペット霊園に埋葬した後、母はそう僕に言った。
ポポが虹の橋を渡って行った日。僕はチャイムとドアの叩く音が聞こえ、ポポが走る音も聞こえてきたが、同じ家にいた母と父には聞こえなかった。もちろん、ミナモの声と姿も。
だからミナモにも会って、ポポを散歩に連れ出したんだ……とは親に言うタイミングを逃してしまい、僕の心の中に留めておこうと思った。
そうして思い出の一つになろうとしていた頃。
再び、僕はミナモとポポに再会した。
「ヤッホー、紫雲君!」
夏休み後半、両親が仕事に行った後、嵐のようなチャイムとドアを叩く音が聞こえてきた。まさかと思いつつ、玄関を開けるとミナモとポポがいた。
ミナモもポポも幽霊よろしく半透明だった。
幽霊なのに僕が驚かないのは一度現れたからなのもそうだが、朝の九時だったからだ。随分と健康的な幽霊である。
「じゃあ、海が見える場所に行こう! 紫雲君!」
そう言って僕の自転車の荷台に座るミナモ。それを見て僕は悩んでいた。海が見える場所に行ったミナモがいた形跡があるんじゃないのか……と。
そう思っているとポポが「クンクーン」と飛びついてきた。半透明なのに、感触があるのに驚いた。実は僕も亡くなっていたりして。
「ねえ、早く行こうよ! 紫雲君! 一人で行けないんだから」
「行けるさ」
「じゃあ、場所は分かっている?」
いたずらっ子のような笑みを浮かべてミナモは聞き、僕は黙った。そして「わかったよ」と言った。
「出かける用意をするから、ちょっと待っていて」
ミナモは嬉しそうに「分かった」と言った。
こうして僕は荷台にミナモ、前のカゴにポポを乗せて自転車を漕ぐ。カゴに動物を入れるのは良くないし、二人乗りをしていると交番の人に怒られてしまう。だが幽霊だからなのか、カゴにポポを入れてもみんな注目しないし、二人乗りをして交番の前を通っても咎められることもなかった。
「紫雲君! 重たい?」
「幽霊だから、全然重たくないな」
と言う事は、ミナモは死んでいるんだな……。当たり前と言われそうだが、認めたくない事実だな。
僕が感傷的になっていると、ミナモは「良かった」と言った。
「昔、二人乗りして転んで怒られたよね」
「……あー、小学一年生の時かな」
僕は見ていないけどアニメの主人公が二人乗りをしていたから、真似をしようとしてミナモが提案して乗ったのだ。当時乗っていた僕の自転車には荷台は無かったけど、大丈夫だろうとミナモは判断した。
だが漕ぐ前からグラグラと不安定で、動き出した瞬間二人とも転んでしまった。腕や膝はすり切れてめちゃくちゃ痛くて泣いた。そしてミナモも珍しく大泣きしていた。
「痛かったねー。あれ」
「あのさ、二人乗りをしていたアニメって何チャンネルの番組だったの?」
「実を言うとね、アニメ見ていなかったんだ」
衝撃の事実に僕は「はあ?」と声を出してミナモを見た。この行動に周りの人は驚いて、僕を見ていた。ちょっと恥ずかしくなってすぐにこの場から去るように自転車を漕いだ。スピードが速くなって、どうしたの? と言わんばかりに前のカゴに入っているポポは不思議そうに見ていた。
「あのね、ママが好きだった歌に二人乗りをしていたって言う歌詞があって、やってみたいって思ったの」
「ああ、なるほどね。でも何でそれを言わなかったんだ?」
「アニメって言った方が紫雲君を誘いやすいかなって思ったの」
そうだった。ミナモは両親の話していたことをやろうとする節があったなあ。でも嘘ついて自転車を二人乗りしていたなんて知らなかったな。
「嘘ついて怪我させてごめんね」
「……他にも色々とあったから、別にいいけど」
「そう?」
「うん。それよりもカマキリの卵を放置して部屋がカマキリの子供だらけになった時が気持ち悪くてドン引きした。あれ以来、カマキリを見るのも嫌だね」
「あー、あれもヤバかったねー。私も鳥肌が立ったよー。ごめんね」
きゃはははって笑ってミナモに僕は「本当に冗談じゃないよ」と言った。
そして、もしミナモが幽霊じゃ無かったら思い出話をしていたのかなって思った。高校は同じか別々になるか分からないけど、こうして二人で小さかった頃の話しをするのだろうかと。そう思うと切ないような気持ちがこみ上げてきた。
ミナモの案内で僕は自転車を走らせる。国道をずっと走って行くと見覚えのある景色が続いていた。そうだ、両親とミナモと一緒に海へ行った時の道だ。
父が送ってくれた、あの日の車に乗って寝ていたミナモと僕の画像を思い出した。一人っ子だったけど、兄妹のように思えた時もあったな。
「ねえ、紫雲君。【水天一碧】って知ってる?」
「知っている。空と海が同じ色になって境目が分から無くなるって奴。調べたんだ」
「すごい! あのね、紫雲君と一緒に海へ行った時は水平線があって綺麗と思ったけど、空と海の境目が無い状態も見てみたいって思ってあの日、行ったんだ」
ああ、行方不明になった日の事を話しているんだ……。心が重くなって来たが、僕は「【水天一碧】ってどこで知ったの?」と聞いた。
するとミナモは恥ずかしそうに「お父さんのアルバムから」と言った。
「パパの高校卒業の時のアルバム。パパの実家で見て、好きな言葉で【水天一碧】って言う言葉があったの。それでおじいちゃんに言葉と意味を教えてもらったの」
「何でミナモのお父さんは、そこの言葉が好きだったのかな?」
「パパが高校の夏休みの時に海へ遊びに行ったの。パパの住んでいる場所、海が無い県なんだって。だから一人で海に行った時に、空と海の境目が無くって【水天一碧】だったんだって」
僕は「へえ」と相打ちをしながら、どこかでミナモは両親と共通する思い出を作ろうとしていたんだという事に気が付いた。一緒にいる思い出が無いから、追体験するようにしていたんだろうな。
ミナモは声を低くして「私ね、紫雲君が羨ましかった」と呟いて、振り向いた。ミナモは俯いて泣いているように見えた。
声をかけようとした瞬間、ポポが吼えてハッと前を向いた。
「うわ! 危ない!」
すぐにトラックが曲がり角から出てきたので、慌てて急ブレーキをかけた。悲鳴のようなブレーキ音と振動にミナモのポポも驚いた表情をする。
良かった。ポポが吼えていなかったら、ぶつかっていた。
ひとまず誰もいない駐輪場へと自転車を停めて、ミナモの話しを聞いた。
「紫雲君のパパもママは紫雲君の事を一番に思っているから。紫雲君が風邪をひいて学校を早退した時、心配するでしょ? 私は早退すると何で熱出すのって怒られるんだ」
「……」
「私のパパもママは『ミナモが生まれなかったら結婚していなかった』って言っていた。本当は二人とも結婚したくなかったんだよ。ずっと好きな事をしたかったんだなって思ったんだ。そう思うと悲しくなっちゃった。私、居なかった方がよかったかな?」
生まれなきゃ良かったって遠回しに言っているようで悲しくなってきた。でもそんな悲しい思いを行方不明になる前のミナモは一切見せなかった。しかも羨ましいと思って僕を意地悪することもなかった。
僕は「ミナモが一緒にいてくれて、良かったと思うよ」と言った。
「僕の家の近くって同年代の男の子がいなかったし、保育園でも引っ込み思案だったから友達も居なかった。だからミナモと一緒に遊べて良かった。少なくても寂しい気持ちにはならなかったよ」
俺が話していると前カゴにいたポポが飛び降りて、ミナモの膝を舐める。そうだった。ポポは誰かが悲しんでいるとすぐに寄り添ってくれるのだ。いつだって。
ミナモはポポを抱きしめる。半透明の一人と一匹の幽霊だけど寂しさを寄り添っていて、怖さは無かった。
しばらく泣いていたミナモだったが、涙を拭いて僕の方を向いた。
「もうそろそろ行こうか。海が見える場所へ」
*
ミナモが言っていた海が見える場所は小さな丘だった。
「……ここって、もしかして私有地じゃない?」
「シユウチって?」
「人様の土地だから勝手に入っちゃ行けない場所」
僕が説明するとミナモは「大丈夫だって」と言って歩き出した。そしてついて行くポポ。いや、君たちは幽霊だから大丈夫かもしれないけど、現実を生きる僕には死活問題なんだけど。
と言うか、もしかしたらミナモが死に場所に案内しているって事になるんだよな。そう考えると遅すぎると思うが寒気がした。
でもここで引き返してもな……って悩んでいると、ミナモが「しーうんくーん!」と呼んだ。
「早く行こう!」
「ちょっと待って! 自転車、置くから!」
そう言って自転車を隅の方に置いた。
自転車を置いて僕はミナモの案内で海の見える場所へと向かう。
ミナモは元気いっぱいに「あっちだよ」と言って案内するが、僕の心は苦しくなってきてしまった。行方不明になる前のように僕を引き連れて冒険を楽しんでいる彼女の姿を見ていると、後悔が押し寄せてくる。
ポポはそっと僕に寄り添う。幽霊だけど、ほんの少しだけ毛の感触があった。本当にポポは優しい犬だ。
「ねえ、紫雲君。元気ないよ」
ミナモは振り返って言い、僕は「ごめんな、ミナモ」と謝った。
「僕も一緒に行けば良かった。行けなくても、ちゃんと行く場所を覚えていれば、ミナモを見つけることが出来たのに……」
ミナモを思い出すといつだって後悔の波が押し寄せる。
僕も一緒について行けば居なくならなかった。留守番をする約束を破ったら怒られるけど、ミナモが行方不明にならずに済んだかもしれない。
もし行けなくても行く場所をちゃんと聞いて覚えていれば、ミナモを見つけることが出来た。それを考えると心が辛くなって、いつもミナモの事を考えないようにしていた。でも節々にミナモの思い出を見つけて懐かしく感じてしまう。
もう高校生だってのに、僕はハラハラと涙がこぼれてしまった。
ポポは心配そうに体をくっつけている。
「紫雲君」
ミナモの呼びかけに僕は涙を拭いた。
いつの間にかミナモは僕の目の前にいた。
「ずっと、そんな風に考えていたんだね」
「……」
「もうそんな事を考えなくてもいいよ」
「……」
「だから、謝らなくていいよ」
そう言って僕の手を握った。半透明の幽霊なのに手は暖かいと思った。
「さあ、行こう! もうすぐだからね」
ミナモはそう言って僕の手を引く。昔から冒険の途中で僕が弱気になっていた時にミナモがそう言っていたのを思い出した。
ミナモが「到着!」とまだ山頂にもついていないのに、そう言った。
「まだ山頂じゃないよ」
「でもあそこに海が見えるよ!」
そう言ってミナモは指さす方向を見ると、茂みの間から確かに小さく海が見えた。
「うわ、本当に見えた」
「えへへ。ここの山ね、紫雲君と一緒に海に行った時に見えたんだ。だからこの山を登ったら海が見えるかもって思ったんだ。水天一碧じゃ無いけど、すごく綺麗だよね」
僕が思わず「すごいな」というと、ミナモは「でしょ」と得意げに言った。小学生とは思えない行動力である。
そして僕はまた茂みの向こうの海を見た。本当に小さくて空もこの山の木々に覆われて、茂みが額のように思えた。
もっと近くで見たいな……と思って、前に出ようとした時だった。
「あ! ダメ! 紫雲君!」
ミナモの声とポポの吠える音が聞こえて立ち止まろうとしたが、ズルっとしりもちを着いた。一瞬パニックになったが、どうにか心を落ち着かせて立ち上がり、茂みの下を見た。
崖だった。
茂みで隠れていて見えなかったんだ。もし落ちていたら、ケガをしていたかもと血の気が引いた。
そしてよく見ると崖の下の方を見ると水筒のような物があった。胸騒ぎがしてそれを回収するため、ゆっくりと崖の下に行ってみると、やっぱり色褪せているが見覚えのあるオレンジのクマの水筒だった。
『ママに買ってもらったんだ』
そう言って笑顔でミナモがクマの水筒を見せてくれた事を思い出した。
再び泣きたくなって鼻の奥がツンとした痛みを感じた時、僕は気が付いた。
「ミナモ? ポポ?」
今までずっといたミナモとポポが消えていた。
*
僕はミナモと一緒に向かった海の見える場所の崖を降りて、ミナモの水筒を回収して帰った。
そして両親と相談してミナモの水筒について話した。
どうしてここに来たのか? と警察や両親に何度も聞かれた。その度にミナモとポポが案内したと言わずに、ミナモを探すために昔の事を思い出して向かったと伝えた。本当の事じゃないけど、一番現実味のある回答じゃないかと思う。
警察の捜索でミナモは遺体で見つかった。もう行方不明では無いと思うと安心よりも悲しさが募ってきた。行方不明だと、まだどこかで生きているという可能性があったからだ。だけど遺体を見つけたって事は死んでいるって確定したって事になる。
何年も見つかっていないし、死んだポポと一緒に半透明で居たのに、自分はまだミナモが生きているような気がしていたのだ。あの水筒を見つけるまでは。
しばらくして両親と一緒にミナモが居なくなった場所に線香をあげに行った。ミナモの両親は来なかったが、ミナモの遺体と水筒は引き取ってくれたらしい。
多分、ミナモは海をもっと見たくて茂みの方を歩いて崖に落ちたのだろう。そして僕も同じようになっていたかもしれないので、注意したミナモと吠えてくれたポポには感謝しかない。
「……水天一碧か」
両親が運転する車に乗って僕はそう呟いた。
ミナモが言っていた言葉だ。空と海の境目があいまいになって一色になる。
海と空は永遠に交わらない。それは生者も死者も同じ事。でも水天一碧のように曖昧になってミナモとポポに会えたんだと思う事にした。
僕の夏休みが終わる頃、隣の家のリフォームが始まった。ポポが開けてミナモが通っていた【近道】の穴はさっさと埋められてしまった。
そうして昔からあったミナモの家は面影を無くして、全く違う真新しい家に変わった。
もうミナモやポポがいた頃とは違う風景でちょっと切なくなったけど、これでいいんだって思えた。