第六章:離れた夜
脱出したその夜、待っていたのは甘くない現実。
車夫の裏切り、山賊の待ち伏せ、そして初めての敗北──。
第六章:離れた夜
馬車は秣陵城の大通りを疾走していた。車輪が石畳を擦り、鈍く低い音を立てながら、深い夜の闇に溶け込んでいく。
街路の両側に吊るされた提灯は、風に揺られ、淡い光が地面に揺らめいている。
人影はまばらで、たまに夜道を急ぐ商人が荷車を押して通り過ぎ、蹄の音と車輪の響きが交錯しては、遠い路地へと消えていった。
馬車の中、徐三宝は柔らかな座布団にもたれながら、そっと帷をめくり、流れ去る街並みを見つめていた。
胸の内には、言葉にできない複雑な思いが渦巻いている。
ついに家を離れたのだ。
この荘園、この街——
ここには、彼女がこの世界で生きた十八年の記憶が詰まっている。
それらすべてを、今、後ろへと置き去りにした。
肩の荷が下りると思っていた。
それなのに、心の奥に沈むこの想いは、どうしても消えてはくれなかった。
夜の闇に浮かび上がる城門が、ぼんやりと視界に入ってきた。
松明の炎が高く掲げられ、衛兵たちが長槍を手に門の前に立っている。
この時間に出入りする馬車は少なく、彼らの表情には倦怠の色が見えた。
馬車が門前にさしかかると、検査役の兵士が近づき、帷を捲った。
そして、わずかに目を見開いた。
そこに座っていたのは、三人の若い娘たち。
しかも、その中の一人は明らかに高貴な身なりをしていた。
兵士は三宝に素早く目を走らせると、御者にも一瞥をくれ、形式ばった口調で尋ねた。
「こんな夜更けに、どちらへ?」
三宝が答えるより早く、御者が恭しく応えた。
「お嬢様方は、前方の町まで夜道を急がれるご予定でございます。ご家老のご命令により、なるべく早く発たねばならぬとのこと。」
兵士は馬車をちらりと見た。
家紋もなく、普通の商隊用の馬車だ。
王侯貴族の正式な行列ではないと見て取ると、深く追及することもなく手を振った。
「よし、通れ。」
馬車はゆっくりと城門を抜け、郊外へと延びる官道へと乗り出した。
三宝は帷を下ろし、遠ざかる城門をじっと見つめた。
胸の奥が、じんわりと重く沈んでいく。
家に残された父母は、どんな顔をしているだろう。
父は激怒し、あらゆる手を尽くして捜索するだろうか。
母は涙ながらに帰還を願うだろうか。
それとも——
ただため息をついて、諦めるだけだろうか。
彼女はそっと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、前世の父母の姿だった。
父は酒と煙草に溺れ、家のことなど無関心だった。
かつては意気盛んだった時代もあったのだろう。
だが三宝の記憶にある父は、いつもソファに沈み、濁った目で煙をくゆらせ、しわがれた声で罵るばかりの中年男だった。
急性心筋梗塞で倒れても、何一つ変わらなかった。
ただ、過去を繰り返すように、生き続けるだけだった。
そして母は——
常にカメラを持ち、旅に明け暮れていた。
家のことにはまるで興味がなかった。
彼女のカメラロールには、世界各地の風景写真が溢れていたが、家族写真は一枚もなかった。
父が命の危機に瀕したときでさえ、彼女は旅行を優先し、病院の呼び出しにも応じなかった。
そのとき、父に寄り添ったのは、遠方から駆けつけた三宝ただ一人だった。
父が退院するその日まで、母は帰らなかった。
まるで、何も起きなかったかのように。
思い出すだけで、三宝は自嘲気味に笑った。
きっと——
自分の死でさえ、彼らには大した意味を持たないだろう。
ふと、視線を馬車の中へと戻した。
隣に座る二人の侍女を見つめる。
この世界での両親は、前世とはまったく違っていた。
彼らは三宝を愛し、慈しみ、豪奢な暮らしを与え、尊敬される日々を与えてくれた。
だが、家の利益のためとなれば——
やはり、迷わず彼女を政略結婚へと追いやったのだった。
——自分だけは違うと、思っていたのに。
「お嬢様、何を考えていらっしゃるのですか?」
小藍の声に、三宝は現実へと引き戻された。
彼女は首を振り、無理に笑顔を作った。
「……何でもないよ。」
小藍はためらいがちに言った。
「やっぱり……戻りませんか?
王公子も、そんなに悪い方ではありませんし。
王家は海城の名家で、あの方は嫡長孫ですし……」
その言葉に、三宝はふっと微笑んだ。
「そんなに褒めるなら、小藍、あなたが嫁いだらどう?」
「そうよそうよ!小藍は最初から王公子に目をつけてたんだもの!」
玉玉がちゃかすように加勢した。
その目は悪戯っぽくきらきらと光っていた。
「二人していじめるなんて、ひどいです!」
小藍は顔を真っ赤にして、怒りながら玉玉に飛びかかった。
「あっ、やったな〜!こっちだって負けないぞ!」
玉玉は身をひらりとかわし、反撃に転じた。
小藍の腰をくすぐろうと手を伸ばす。
「いやーっ、お嬢様助けて!」
三宝は、そんな二人のじゃれ合いを見て、思わず笑い声を漏らした。
馬車の中は一気に賑やかになり、胸の中にあった沈んだ想いも、いつしか和らいでいった。
ひとしきり遊んだ後、小藍は肩で息をしながら壁にもたれた。
「お嬢様は……ずるいです。見てるだけで助けてくれないなんて!」
三宝は肩をすくめて笑った。
「だって、本当に馬車がひっくり返っちゃうかと思ったから。」
「お嬢様は怖がりです〜!」
玉玉がぺろっと舌を出した。
馬車は夜を駆ける。
車輪の音と、途切れ途切れに聞こえる笑い声が、静かな夜をほんのりと温めていた。
——だが、その馬車の外で、気づかぬうちに、じっと彼女たちを見つめる視線があった。
御者はそっと振り向き、車窓の隙間から彼女たちを覗き見していた。
若く美しい三人の娘たちの姿に、目を細める。
ごくりと喉を鳴らし、口元には卑しい笑みが浮かんでいた。
夜は深く、
闇は静かに、音もなく——
危険は、確実に忍び寄っていた。
この章では三宝たちの旅が本格的に動き始めます。
中国から物語を発信できること、本当に嬉しく思います。感謝!