第18話 銃口の先
「……あの、俺に話しって」
成也が引き留めるように声を上げる。
「耳に入れておきたいことがあったんだが、今日は帰るよ。もう襲われる心配がないなら、久々に自宅でゆっくりできそうだしな」
抗争のきっかけを作ったのは北稲会じゃなく中華マフィアの新興勢力だった、なんて……成也はともかく、成也に自分の店を襲わせた我孫子に素直に教えてやるつもりもなかった。
「家、帰るの……? 晃さん」
「そう考えてるところだ。もう帰っていいんだろう?」
「ああ、若いやつに家まで送らせよう」
「必要ねぇよ」
我孫子の不遜な笑みが気になり、思わず足を止めてしまった。喉の奥でくつくつと嗤っている。
気味が悪かった。何かを企んでいるようにも見えるが、我孫子の態度からは推し量れない。
「君は……彼の親戚の子だったね」
「えっ」
話しかけられるとは思っていなかったのか、ひばりが裏返った声で訊き返す。
嫌な感じがした。
我孫子は人の良さそうな顔で微笑み、まるで子どもをたしなめるような口調で話し始めた。
「君がどう思ってるかは知らないが、この面倒見が良くて優しい晃さんは、じつは人殺しの手先なんだよ」
晃は早々に踵を返したが、ひばりは足がすくんでしまったらしい。
「いいから、聞くな。ひばり」
とっさにそう言ったが、彼は引き攣った顔でこっちを見つめている。
「普段は市井の人間を装っているのだろうが、真の悪人ほどそうするものなんだよ。猟奇殺人犯の知り合いか何かが、ニュースで話しているのを見たことがあるだろう。『大人しい人だった』『そんなことをするようには見えなかった』……悪い人間は自分がそうであると自覚すればするほど、自分を取り繕うものなんだ。それは素直な悪人よりも、よほど悪辣で卑怯なことなんだよ」
晃は強引にひばりの手を取って引いた。ひばりは絨毯に足を取られながらも、歩いて後ろをついてくる。それでも、我孫子の悪意の塊のような演説は、まるで地獄から響いてくるかのように鮮明にふたりの背中へと届いていた。
「彼は骨董屋を隠れ蓑にして、ずっと裏で銃を売っていたんだ。拳銃だけじゃない。ライフルや手榴弾、人を殺すためのありとあらゆる武器をね。……私は君のことが心配なんだ。君も高校生くらいなら、血の繋がりじゃなく、ついていく人間についてはよく考えた方がいい。そういう人間とひとりでもつき合うことがいずれ自分の身を亡ぼすことになり兼ねないからね……」
逃げるようにしてラウンジを出た晃は追いかけてきた若衆たちには目もくれず、ひばりとともにホテルの前からタクシーへと乗り込んだ。そのまま寿町の港会館へと向かい、部屋ですべての荷物をまとめる。
宿泊代は管理人にすでに払ってあったが、いったん中華街の部屋に戻りたかった。龍源会の動きはわからなかったが、少なくとも今夜一晩くらいは松濤組の奴らに襲われることもないだろう。
「ねぇ、晃さん……」
「どうした? ひばり」
中華街へと向かうタクシーの車内で、珍しく沈黙していたひばりが気まずそうに口を開いた。
「……さっきの話って、本当……?」
無垢な瞳に混じる疑いの色。
晃は外の景色を眺めながら事実だけを告げた。
「……ああ。嘘じゃない」
「……。そっか……」
そう言ったきり押し黙り、自分の足許を見つめている。
晃は、返答がひばりの期待を裏切ったのかどうか考えてみた。
もし『あれは我孫子のついた嘘だ』と否定していたら?
清廉潔白なことを喜び安堵しただろうか。それとも、我孫子の言動との矛盾に気づいて疑念を残すことになっただろうか。
「ねぇ、晃さんはどうして銃を売ったりしたの」
ひばりは食い下がらず、質問を続けることを選んだようだった。
単なる好奇心からなのか、『いい人のとしての晃さん』を諦めきれないからなのか。
こうなるのは火を見るよりも明らかだった。だから話したくなかったんだ。
「……金が必要だったんだよ」
「どうして? 何のために」
「なぁ、それを聞いて何になるんだ? お前には関係のないことだろう」
晃の言葉に、ひばりはふくれっ面をして口を尖らせる。
「関係、なくはないよ……」
その語気は弱々しかった。
「関係ないだろ。これからもずっと一緒にいるわけじゃないし、何か知ったところで事実が変わるわけでもない。……それとも、何か? お前が警察にでもなって俺を止めるか」
まくし立てるように言うと、ひばりは顔をくしゃっと歪めたままうつむいてしまった。
……こいつが悪いわけじゃない。むしろ自分が悪いくせに散々な言いぐさだった。これじゃ、ただの八つ当たりだ。
ひばりに裏の仕事のことを知られたくなかったのは、単純に巻き込みたくなかったのもある。だが同じ時間を過ごすにつれ、この少年にとってせめて信用に足るくらいの人間でありたかったんだと思う。端っから清い人間じゃなかったにもかかわらず。
復讐のためなら手段すら択ばず生きてきたくせに、他人の期待に応えられると思っていた自分が馬鹿らしくて笑えてくる。
気まずい沈黙が流れるなか、ひばりがぼそりと呟くように言った。
「俺は、晃さんのこと……」
言いかけた言葉が、先細って消える。
先は訊かなかった。訊いても仕方がないような気がした。
タクシーは車内の雰囲気とは裏腹に山下町のほうへとスムーズに進み、首都高の下をくぐって大桟橋通りを右へと折れた。
店に着く頃には雲はいっそう重く垂れ込め、日暮れ前にもかかわらず宵闇が迫っているようだった。遠くで雷鳴が轟く。すぐにでもひと雨来そうな灰色の空を見上げながら、晃は足取りの重いひばりとともにマンションの急な階段を上った。
冷えた部屋の電気を点け、カーテンを閉める。晃はコートを脱いでハンガーに掛けた後、銃を元の隠し場所へと仕舞った。古いエアコンはちょうど不機嫌なタイミングに当たったのか、冷風ばかりを浴びせてきたので電源を切る。
代わりに押し入れから電気ヒーターを取り出してコンセントに繋いだ。古いが壊れてはいないらしく、埃の焼ける独特な臭いのあとで仄かに暖かい空気が流れてくる。
ひばりは妙に大人しかった。
晃の後ろを、まるで雛鳥のようにただ静かについてまわる。
「部屋、暖まるまでここにいろよ」
ヒーターの前を指すと、「うん」と聞こえるか聞こえないかくらいの声が返ってきた。
換気扇から笛のような音が鳴っている。横殴りの雨が窓を打ちはじめた。
しばらくそうして膝を抱えて座り込んでいたひばりは、ふと何を思い出したのか、立ち上がってふらふらと寝室の方へ向かって行った。
「おい、何しに行く?」
そう訊いたとたん引き戸が開き、無理やり押し込んでいたものが床に落ちる音がする。
「わっ!」という声に部屋を覗くと、ひばりは雑多なものに埋もれるようにして尻もちをついていた。
「ご、ごめんなさい」
「なんで開けたんだよ……」
「さっき押し入れを開けたとき、カッコいいヘルメットが目に入ったから……つい」
そう気まずそうに苦笑いしている。
落ちてきたものを元に戻そうとするものの、押し入れの許容量はすでに限界に近く、ふたたび落ちてこないようにするにはコツがいる。晃はひばりを押しのけるようにして前に進むと、服や書類を片っ端から上の段に突っ込んでいった。
「バイク、乗るの……? 晃さん」
「昔、乗ってたんだよ。いまはもう乗ってない」
押し入れの奥をじっと見つめるひばりにそう言った。
あれも過去の遺物だ。フルフェイスの黒いヘルメット。
バイクに乗ったのは五年前の春に茨城へツーリングに行った後、秋に遼が行方不明になったときが最後だった。愛車は長いこと知り合いのバイク屋に預けたままだ。
「週末、彼女と温泉旅行に行く約束してんだよね。秩父にある三峯神社にも行こうって話しててさ」
久々に電話で話した夜、遼は楽しげにそう言っていた。
普段なら、そういう旅行の後には写真だけでも送ってくるものだが、そのときに限ってはメッセージのひとつもなかった。不審に思ってこちらから連絡したが、返事がなかった。
遼が音信不通になった。
警察に捜索願を出したあと、三峯神社まで行くルートをしらみつぶしに探した。周辺のすべての温泉旅館に足を運び、そこまで行く山中で事故に遭っていないか、遼とツーリングをしたバイクを走らせ探し続けた。
遼がどこで殺されたのか、いまでもわかっていない。
遺体は秩父の山の奥で見つかった。たまたまバイクを停めた休憩所の近く、ヘッドライトが照らした木々の先に遺体はあった。埋めようとも隠そうともした様子はなく、遼はただ寒空の下で、冷たく動かなくなっていた。
晃はフルフェイスのヘルメットを奥へと押し込み、手前に夏用のタオルケットを置いた。
遼を見つけたときの記憶が鮮明なのに比べ、遼が部屋に遊びに来たときや茨城へのツーリングのことは不自然に記憶が途絶え、おぼろげだった。強烈すぎる出来事が過去のすべてを書き換えてしまったかのようで、元に戻そうにも戻し方がわからない。
「乗らないの、勿体ないね……。晃さん、すごく似合いそうだし、行きたいところがあればどこへだって行けるのに」
「バイクがか? 似合うとか似合わないとかあるのか」
「あるよ。……俺に似合うと思う?」
ひばりは苦笑いを浮かべながら訊いた。
たしかに線は細いし、倒れたバイクを起こせそうなほど力があるようにも思えない。そもそもバイクに乗っているイメージそのものが湧かなかった。
「まぁ、後ろなら乗れるんじゃないか?」
ひばりは床に落ちた工具箱を拾い上げながら「うーん」と唸り、「そういうことじゃないんだけどな……」と、納得がいかない顔をしながら手を動かしていた。
散らかった荷物がようやく片づいてきた頃。
ファイルに挟まっていた一枚のメモがはらりと落ちた。
端が黄ばみかけた紙に見知った男の名前がいくつか並んでいる。
取引先の名前だった。少々特殊な案件で、武器を売ったり偽造のパスポートを工面したりした。
食い入るように文字を見つめていたひばりからメモを取り上げ、元のファイルに戻す。
「あんまりじろじろ見るなよ」
「あっ……ごめん、なさ……」
顔をこわばらせ、額に手を当ててうつむいてしまう。
……どこか様子がおかしかった。
声を掛けようかと思った瞬間、カーテンの隙間から閃光が走るのが見えた。バリバリと何か引き裂くような音のあとで、地面を揺らすかのような轟音。雷だ。近くに落ちたかもしれなかった。
「おい、大丈夫か⁉」
「……あ、うん……はい」
「あっちですこし休んでろよ」
どこか歯切れの悪い返事。
顎でリビングの方を指すと、ひばりは弱々しく頷き、壁に身体を預けるようにして部屋を出た。
残っていたファイルをまとめて隙間に差し込んでから、押し入れの戸を閉める。
スムーズとはいかないまでも、手で押し込みながらであれば開閉することができそうだった。
ここに引っ越して来てから一度も大掃除をしたことがなく、不用品くらいはそろそろ処分しないとまずそうだった。何度か戸の開け閉めを繰り返し、問題がないことを確認して部屋を出る。
リビングに戻ると、ひばりが玄関の上がり框で靴を履こうとしているのが見えて、ぎょっとした。
外はひどい雨だ。それに具合が悪かったんじゃないのだろうか?
「どこへ行くんだ」
丸まった背中に声を掛ける。
返ってきたのは、驚くほど抑揚のない声だった。
「……喉、乾いちゃって。外でジュースでも買ってくるね」
傘くらい持って行けと言う間もなく、ひばりは荒々しくドアを閉めて出て行った。
明らかに様子がおかしい。
それに、違和感ならほかにもあった。
晃は部屋の中を丹念に調べ、自分の直感が正しいのかどうかを確かめた。それが終わると、ヒーターの前にどっかりと腰を下ろし、さっき吸い損ねた煙草の箱を引き寄せる。
火をつけ思いきり肺へと吸いこんだ。今日最後に吸ったのは朝だった。ニコチンが血管を通って身体の隅々にまで行き渡るのを感じる。軽い酩酊を感じながら、細く長く紫煙を外に吐き出した。
激しい雨と遠雷の音色を聞きながら、時間を潰してただひたすらに待った。
ずぶ濡れになったひばりが帰ってきたのは、五本目の煙草に火をつけた頃だった。
「……ただいま」
後ろ手にドアを閉めて靴を脱ぐ。
「おかえり。……飲み物は買えたのか」
晃の声掛けに、普段の彼なら陽気に何か返してくるはずだった。
『欲しいのが全然なくってさ! 急いだけどやっぱり濡れちゃったよ。晃さん、タオルタオル!』
表情や声音まで想像できるのが不思議だったが、そんな甲高い声が聞こえることもなかった。
少年は一言も発しないまま、つかつかとこちらへ歩み寄ってくる。
歩き方がひばりじゃなかった。
人は培われてきたものや自身の記憶によって、こうも劇的に変わるものなのか。
顔を上げた彼を見て、晃は確信した。
その瞳にいつもの温もりやあどけなさはなく、それは怜のような感情のない目とも違っていた。
むしろその逆だ。強い憎悪に満ちた瞳。
一番身近によく知っている、復讐を誓った人間の目だと晃は思った。
彼は晃のそばまで来ると、右手をすっと前に出した。
店の金庫に入れてあったスターム・ルガーのコンパクトリボルバー。鈍色の銃口が静かにこちらを捉えていた。
「動くな」
いままでに聞いたことのないほど低い声だった。本物の殺気だ。冗談には聞こえない。
「……誰だ、お前」
沈黙は鉛のように重苦しかった。
ひばりは口を固く閉ざしたまま何も言わない。その代わりと言わんばかりに、晃の額に冷えた銃口をぴたりと張りつけている。
晃は煙草のフィルターを噛み、口の端で笑った。
「……部屋から金庫の鍵がなくなったことには、すぐ気づいたよ。まぁ、その辺に置いておいた俺が悪いんだけどな」
あえて鍵を隠すことはしなかった。
こんな少年がまさか銃を扱えるなんて思ってもみなかったし、隠し場所に気づいて盗み出すとも思ってはいなかった。完全に信頼していたわけじゃないが、油断した結果がこれだ。
晃は軽い後悔を覚えながらも、彼の握っている銃に目を向けた。
アメリカのスターム・ルガー社が開発した軽量のコンパクトモデル。護身用としても人気があり、回転式拳銃としての造りもシンプルだ。トリガーは暴発を防ぐために重く、撃鉄はフレームに内蔵されている。殺傷力こそ高くないが、弾さえ込めることができれば誰でも簡単に撃つことができる、そういう種類の銃だった。
指はしっかりとトリガーに掛かっていて、シリンダーには38スペシャル弾が余すところなく装填されている。金庫にあったもののなかでは一番いい選択だった。
笑い出したいくらい、完璧だ。
「どうして」
ひばりがとつぜん、呻くように言った。嚙みしめた唇が変色して白さを帯びている。
「……どうして、あんたなんだよ」
「どういうことだ。説明してくれないとわからない」
一瞬のことだった。トリガーから指が外れ、銃の横っ腹で殴られた。こめかみに痛みが走り、反射的に手を当てる。額にもう一度、冷たいものが押し当てられた。
ひばりは自分が殴ったにも関わらず、痛みに耐えるように歯を食いしばっていた。
「忘れていたことを、全部思い出したんだ。僕は香嶋佑……東京の白金台にあった香嶋医院の院長の息子だよ」
告白の意味は、だがすぐにはわからなかった。
考えて記憶を辿り、ようやく理解する。
「そういうことか……」
口に咥えていた煙草が床に落ちた。フローリングが焦げて黒ずむ。
運命の悪戯がこんなにも意地悪なものだとは思わなかった。
それとも、ただ自分が呑気すぎただけだったのか。
彼の言葉は、自分が作り出した負の遺産を思い出すには十分なものだった。
復讐を急ぐあまり手段を択ばず、周りを顧みなかった。その代償だ。
「お前、あのとき死んだ院長家族の次男か……」