第17話 ホテルニューグランド
しばらく留守にしていた所為か、中華街の部屋はすっかり冷え切っていた。
晃は久々のスーツに袖を通し、待たせたタクシーでホテルまで向かう。日曜昼時の開港道は、クリスマス前最後の休日ということもあり混雑を極めていた。手を繋ぐカップルや団体の旅行客を避けながら、車は浮かれた中華街をのらりくらりと進む。
松濤会の襲撃があるとすれば、部屋からホテルまでの道のりだろうと考えていた。
あえて人通りの多いルートを選んだことが功を奏したかどうかはわからなかったが、車は何事もなく朝陽門を抜け、ホテルの玄関口へとたどり着く。
ホテルニューグランドは横浜においてもいっとう歴史のあるホテルだ。関東大震災で出たがれきによって山下公園が埋め立てられたばかりの昭和初期に、その向かいに建てられた横浜では唯一のクラシックホテル。歴史的建造物としても認められる街のシンボル的な存在で、戦後にはアメリカ陸軍元帥のダグラス・マッカーサーが宿泊したことでもよく知られている。
ロータリーから海の方を見ると、山下公園と氷川丸、それにカメラを片手にはしゃぐ観光の姿が目に入った。
(あいつらは気楽でいい……)
晃はコートのポケットにある拳銃に手を添えた。マイクロ・コンパクトと呼ばれる超小型の銃だが、装弾数は十五と少なくない。
猛虎のいる檻で丸腰になることだけはなんとしてでも避けたかった。
「すごいね、晃さん! 思っていたよりもずっと高級そうなホテルだ」
荷物を運ぶポーターを物珍しそうに眺めながら、ひばりは春の陽気を思わせる声で言う。
こいつも十分お気楽でいい。
「先に言っておくが、中で待ってるのは成也だけじゃないかもしれないからな。失礼のないよう、大人しくしてろよ」
「わかった!」
俺に任せて、とでも言いたげに肩で風を切って歩くひばりに、ドアマンがにこやかに挨拶をする。
ロビーには華やかなクリスマスツリーが飾られ、キャンドルを灯したようなシャンデリアが優雅にそれを照らしていた。大理石のフロアを進むと、目当てのラウンジが見えてくる。
「晃さん」
後ろから名前を呼ばれ、振り向いた。
ロビーの喧噪にかき消されそうなほど、弱々しい声だった。
「お前……成也か?」
一瞬、誰だかわからなかった。
いつもの派手なシャツはなりを潜め、シンプルなチャコールグレーのスーツに身を包んでいる。
生気がなく、頬と目許がひどく腫れていた。切れた口の端が痛々しい。
殴られた跡だろう、と思った。……まぁ、誰に殴られたのかはなんとなく想像がつくが。
「席、こっちっす……」
叱られた犬のように歩く成也に続き、ラウンジに足を踏み入れる。アフタヌーンティーを楽しむ女性客のあいだを縫うようにして歩いた。
奥にある六人用のボックス席に案内される。金色に縁どられた西洋絵画を背景に、白髪交じりの眼光鋭い男が足を組んで座っていた。
晃はこの男を知っていた。
直接会うのは初めてだが、暇つぶしに買った実話系の雑誌で見たことがある。その筋では有名な人物で、眉間に刻まれた皺とその貫禄から歳は五十にも見えるが実際はもうすこし若い。
五代目極漣会の若頭で松濤組組長――我孫子柾吉。
男は晃を上から下まで値踏みするように眺めてから、低くはっきりした声で言った。
「橿淵晃、だな」
殺気こそなかったが、射貫くような視線に背筋が寒くなってくる。
歴代最年少で出世したと記事にはあった。よほどの切れ者だということだろう。
「そうだ。あんたは?」
「我孫子だ。うちの成也が世話になっていると聞いてな」
鋭い眼光がふい、と横に逸れる。いつの間にか成也が隣に立っていて、酒にでも酔っているかのようにゆらゆらと左右に揺れていた。視線に気がついて姿勢を正すが、その揺れがやむことはない。
晃は成也の肩に手を置き、あえて軽い口調で言った。
「なるほど、我孫子さんね。……俺は、今日はこっちに話があるんだ」
背中からじっとりと嫌な汗が滲んできたが、口の端を吊り上げて笑みを浮かべる。
我孫子はひと目でそれとわかる高級な時計に視線を落とし、眉尻ひとつ動かさず顎でソファを指した。
「あいにくだが、俺はお前に用がある」
座れ、ということなんだろう。
先に動くのは負けたような気がして嫌だったが、後ろにいたひばりが真っ先に男の向かい側のソファに腰を下ろした。言いつけを守っているのか、こっちを見上げて大人しくじっとしている。
晃はため息をひとつ吐き、仕方なくひばりの隣に腰掛けた。すぐに取り出せるよう、拳銃の入ったコートを手の届くところにそっと置く。
制服を着たスタッフがやって来て、水の入ったグラスとメニューを置いて去っていった。
「晃さん。そいつ」
「預かってる親戚の子どもだ。べつに気にしなくていい。……前にも会ったことがあるだろう?」
想定内の質問だ。成也は訝し気だったが、我孫子は興味がないらしい。
ふたたびやって来たスタッフに成也がコーヒーを注文し、メニューを眺めるひばりを睨みつけた。
「……ミックスサンドイッチのセット。飲み物はオレンジジュースで」
ひばりはメニューを手渡しながら澄ました顔をしている。
今度は晃がひばりを睨みつける番だった。サンドイッチのセットはアフタヌーンティーをのぞけば店で一番高価なメニューだ。サンドイッチと飲み物だけで三千円はする。
抗議の視線を感じ取ったのか、ひばりはおどけるように舌をぺろっと出して見せた。
「俺は大人しく食事してるね」
腹は立ったが、肩の力は抜けた気がする。
我孫子柾吉は日本で五つの指に入るほど巨大な組織の幹部だ。たとえ本人が派手な護衛を嫌っていたとしても、抗争が見えるいまの状況ならラウンジ内にも何人かは隠れているはずだ。
滲んだ汗が背中を伝っていく。
この状況で何事もなく、生きて帰ることができれば御の字だった。
「先にそっちの話を聞こうか」
晃は膝のあいだで手を組んで言った。
我孫子の指示で、成也が空いている席に腰を下ろす。
「純粋にどんな男か気になっていたんだ。直接、話しをしてみたかった」
そう言ってすっと目を細める。
男の口調は思っていたよりもずっと穏やかなものだった。
「昔、成也が他所の若いやつに命取られそうになってたところを助けたっていう『晃さん』だろう」
成也が何かに弾かれるようにして顔を上げた。
……たしかに、懐かしい思い出だった。
もう七年も経っているにも関わらず、記憶は未だに鮮明だ。
成也との出会いは、晃がまだ中華街に店を開いたばかりの頃まで遡る。
永遠に続くんじゃないかと思うほど長い夏のあいだの出来事だった。
強烈な陽射しにうんざりしながら、晃が中華街の関帝廟通りを歩いていたときのことだ。
白昼堂々、銃声が響いた。
蛮声と荒々しい足音。ヤクザ同士の揉め事だということにすぐに気がついた。
悲鳴をあげ逃げていく観光客のあいだをすり抜けるようにして、頭から血を流した成也が飛び出してきた。
「……っ、クソがあっ!」
叫びながら人を蹴散らし、焦ったように辺りを見回している。
背伸びして大人の世界に足を突っ込んだ、世間知らずで生意気そうなクソガキ。
第一印象はそんな感じだった。
逃げ道はすでに塞がれ、関帝廟通りはもちろん、市場通りからもその筋の男たちが流れてきている。幸い、中華街の地理にだけは詳しかったので、晃はすれ違った成也に耳打ちをした。
「門を抜けて三十メートル走ったら、左にある小路だ。右手に隠れるところがある」
成也は目を丸くして振り向いたが、男たちの怒号を合図にふたたび脱兎のごとく走り出した。
夏の長い日が傾き始めた頃。晃は台南小路の入り組んだ道の奥に成也の姿を見つけた。膝を抱えたまま民家の隙間に身を寄せた成也は、世界の終わりにでも遭遇したかのようにうな垂れていた。
「おー、よく生きてたな」
こめかみの辺りに赤黒い血がべっとりとこびりついている。ペットボトルの水を差し出してやると、勢いよく手を振り払われた。
「誰だよ、てめぇ」
「骨董屋だよ。近所の」
「……見下してんじゃねぇぞ、クソ野郎が! 情けかけて、助けてやったつもりかよ。人のことをコケにしやがって! 舐めてっとぶっ殺すぞ‼」
ああ、面白いやつだなと思った。
まず運がいい。あれだけの人数に追い立てられて、見つからなかったのは奇跡にも近い。それに、いまにも死にそうなくせによく吠える。それが良かった。
成也のことを気に入ったのと同時に、自分もまだ若かったのだろう。暴力的な衝動に襲われた。
「つけ上がんなよ、クソガキ」
ペットボトルの蓋を開け、逆さにして持った。
頭のてっぺんから水をかけると、傷んだ金髪が顔に張りついて濡れた犬みたいになる。
負けじと睨みつけてくる強い瞳。
すでに腫れて膨れあがった顔を、真正面から思いきり蹴りつけた。
胸に腹にみぞおちに、余すところなく全力で蹴りを入れる。
……殺してやろうと思った。
口の中で血が泡立つ。何か言っているのかもしれないが、無視して続けた。
外壁がインクでもぶちまけたみたいに赤く染まり、内臓からぐしゃりと嫌な音がしたところで我に返った。
「今度は、本当に助けてやってもいい」
血で汚れた靴を成也のズボンで拭う。
成也は奇妙に身体を震わせていた。返事はない。熱されたアスファルトからアンモニアの臭いが立ち上ってきた。
「西門通りにある橿淵堂って店だ。見つけたら、壺のひとつでも買っていけよ」
最後の一発で鼻が曲がる。
気絶しかけた成也のそばに空のペットボトルを投げ捨て、晃はその場を立ち去った。
数日後、成也は言われた通り店に顔を出した。
金属バットでも持って仲間とお礼参りに来るかと思いきや、絆創膏だらけになった顔と態度はことのほか殊勝だった。傷が癒えるうちに、頭にのぼった血も引いたのだろう。
「あのまま捕まっていたら、本当に殺されるところだった」
そう素直に礼を言い、頭を下げた。そしてその足で安い壺をふたつ買い、また顔を出すと言って帰っていった。
それが成也との出会いのすべてだった。
懐かしい記憶が張り詰めた緊張を軽くしてくれた気がする。
真意は測りかねたが、晃は向かいに座った高級スーツの男に自嘲気味に言った。
「……大したことはしてない。道案内をしただけだ」
「その後も、つき合いがあったんだろう?」
「たまに店に来て、買い物をしてくれるようになった」
「買い物、ねぇ……」
足音に顔を上げると、注文したものが運ばれて来たようだった。ひばりが目を輝かせている。
サンドイッチのセットはたしかに豪華で、プレートにはサンドイッチのほかにピクルスやポテトチップスが添えられていた。
コーヒーが目の前に置かれていたが、晃は手をつける気にもならずに尋ねる。
「それで? そっちの話ってのは」
カップを置いた我孫子の眼光が急に鋭くなった。
「……その買い物のことだよ。わかっているだろうが、誰に許可を取ってやっている?」
頭から氷水を浴びせられたみたいだった。身体から熱が消えて震えがくる。
「……何の話だ」
「とぼけるんじゃねぇよ。成也に売っただろう。道具一式」
ドスの利いた声は初めてだった。
成也を見ると、うつむいて拳を震わせている。
おそらくは成也が珍しく店に顔を出した、あの朝のことなんだろう。最初から我孫子の差し金だったのか、成也から話が漏れたのかはわからない。
だが馬鹿正直で隠し事の苦手な成也のことだ。後者のような気がしたし、何よりそう思いたかった。
「買いたいって話だったから、売ったんだよ。なにも中華街は全部あんたらのシマってわけでもないだろう?」
「そうだな。……だが中華街にも、うちがケツを持っているところがないわけでもない」
我孫子はふたたびカップを手に取り、コーヒーに口をつけた。
たっぷりと間を開けてから、鷹揚に足を組み直す。……どこか演技がかった仕草だと思った。
「そういや、その骨董店とやらは数日前に誰かに襲撃されたそうじゃないか。……誰がやったかは知らないが、うちが面倒を見るなら、今後はそういうトラブルも少なくなるんじゃないか?」
口の端を歪めた、人を不快にさせる嫌な笑い方だった。そしてそれは、事件の全容を理解させるための十分な説明でもあった。
ソファに埋もれている成也の顔色は蝋よりも白くなっている。
「お前、もしかして……」
口が勝手に動いた。廃墟じみた店の光景が甦る。店内はひどく荒らされ、多数の銃弾が撃ち込まれていた。
違和感を覚えたのは店で憂炎と見つけたあの空薬莢だ。拳銃で使用される弾としてはいちばん流通の多い、9ミリパラベラム弾よりも大きかった。あとで長さを測ったところ、あれは45ACP弾の薬莢だということがわかった。……成也に売った銃に付属していたのと同じ種類のものだ。確証はない。だが疑惑ならあった。
晃は気づけば立ち上がり、成也の胸倉を掴んでいた。後ろからスーツの裾を引かれるような感覚がある。ひばりが止めようとしているのかもしれなかった。
成也は死人みたいな顔をして口を半開きにさせている。思いきり殴ってやろうかとも思ったが、ラウンジ中の視線が集まっていることに気がつき晃はスーツに掛けた手をそっと放した。
「晃さん……ごめん……」
成也は力なくソファの上に崩れ落ち、譫言のようにそう繰り返している。
反論がないということは、認めるということなんだろう。
晃は低い声で訊いた。
「許すと思うか」
「……親には……逆らえないから……」
前髪の奥にきつく噛みしめられた唇が見えた。膝の上に乗せられた拳が透明な雫で濡れている。
その言葉がすべてを物語っているように思えて、晃は我孫子に向き直って訊いた。
「何が狙いなんだ」
「……狙いなんてないさ。ただ、あの店でガラクタ以外のものを勝手に売られるのは困るってだけの話だ。場が荒れるし、こっちに入るはずの利益も流れることになる」
「みかじめが欲しいって話じゃなかったのか」
「てめぇからはした金取って何になる? こっちの邪魔さえしなきゃ、それで十分だ」
「……本当にそれだけなのか?」
「ほかに何がある」
苛立ったように片眉を上げる男は態度こそ厭味だったが、裏があるようにも見えなかった。
我孫子に晃を殺すつもりはまだないらしかった。組事務所の襲撃に使われた銃が晃のものであことにもまだ気づいていないらしい。
不幸中の幸いだった。
時間があれば、松濤組がこちらを的にかけてきたときの準備と対策ができる。
晃は深く息を吐き、冷めかけたコーヒーに手をつけた。
「……わかった。今後、あの店で道具の取引は一切しない。これでいいだろ」
「ずいぶん素直なんだな」
「何か問題でも?」
「いや。成也から聞いている性格とずいぶん違っていると思ってな」
「ひねくれてるって言いたいわけか」
成也の分析もあながち間違ってはいないだろう。晃は腹を抱えてひとしきり笑ってから言った。
「商品だけじゃなく、俺にまで風穴を開けられるのはごめんだって話だ。……俺はこの街でもうすこしだけ長生きがしたい」
「何のために?」
「生きるのに理由がいるかよ」
我孫子は器用に顔を歪めたまま、嘲笑うように「ふん」と鼻を鳴らした。
「まぁいい……忠告はしたさ。次に何かあれば、俺は容赦なくお前を殺す」
リスのようにサンドイッチを頬張っていたひばりが小動物のように身体を震わせた。これまでどんなことを話していたか、たったいま理解したかのようだった。
「そうならないよう祈ってるよ。俺もあんたを殺したくないし、できれば殺されたくもない」
動けば爆発でも起きそうな、妙な緊張感があった。我孫子の殺気に満ちた視線。グラスから鳴った軽やかな氷の音が沈黙を破った。
……潮時だった。
晃はひばりに目配せをしてから、拳銃の入りのコートを持って立ち上がる。財布から五千円札を一枚抜き、無造作にテーブルの上に置いた。