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第16話 もし記憶が戻ったら

 5階にあるキッチンやトイレ、シャワー室……どこを探しても見当たらない。

 外に出ると、さっきまで凪いでいたはずの風が強く吹いていた。

 小銭しか持たせていないのだから、行きそうなところと言えばコンビニくらいのものだ。晃はコンビニを二軒回り、自動販売機があるところをしらみつぶしに探したが、その姿はどこにも見当たらなかった。

 ちょうど寿公園の前を通りがかったときに、少年の姿を見つけた。

正確には少年と犬だ。リードを持ったひばりが、犬に引っ張られるようにしてやってくる。

「あ、見つかっちゃった……」

「見つかっちゃった、じゃねぇよ。部屋にいろって言ったろ」

 一発殴ってやろうかとも思ったが、「悪気はないんです」とでも言いたげな顔に毒気を抜かれる。

「ジュースが飲みたいと思って外に出たら、外にモモちゃんがいてね」

「モモちゃんって、あの喫茶店のか?」

「そう。ちょうど飼い主さんがコンビニの前でモモちゃんのことを繋いでたから……。話しかけたら、コンビニで買い物するあいだ、近所を散歩させててもいいよって」

「ずいぶん自由な飼い主だな……」

 昨日会ったばかりの人間に飼い犬を任せるなんて、何かあったらどうするつもりなのか。

 にわかには信じ難い話だが、白い息を吐きながらご機嫌そうにリードを引くひばりを見ていると、まぁ、犬をどうこうするようなキャラには見えない。その表情が、隣で尻尾を振る犬にあまりによく似ていたので妙に納得してしまった。

「あんまり長くなると、飼い主が困るんじゃないのか」

「うん。だから、ちょうどコンビニに向かおうと思ってたところ」

「どっちだ」

「あっちー」

 ひばりはそう言って石川町の駅の方を指でさす。

 はしゃぎながら駆け出すひばりと柴犬の姿を眺めながら、いつからこんな風になったんだろうと晃は自分自身に問いかけた。

 どうでもよかったはずだった。

 ……いついなくなっても、いつ消えても。

 喫茶店で王朱亜が銃撃を受けたとき、真っ先にひばりの身を案じた自分の行動について考える。

 理由なんてなかった。身体が勝手に動いていた。

「ねぇ、晃さん」

 前を行くひばりが楽しげに笑って振り向いた。

「俺ね、犬が好きなんだ。晃さんも知ってるでしょ? でもね、どうして好きなんだろうって最近よく考えるんだよ」

「……どうしてって」

「もしかしたら、記憶を失くす前の俺は犬を飼ってたのかもしれないなぁって思ってさ」

 信号が赤になる。ひばりは横断歩道の手前で立ち止まり、足にじゃれつくモモの頭や背を撫でながら口を開いた。

「最近ね、よく考えるんだよ。俺には家族がいたのかなって。晃さんみたいな兄とか、モモちゃんの飼い主さんみたいな姉がいたのかな。両親はどんな人だったんだろうって。……記憶がないっていうのは、何だか宙ぶらりんな感じがするんだ。川を流されていく一枚の葉っぱみたいに、どこにたどり着くかもわからないし、掴めるものも何もない。そんな感じがする」

「……気になるのか? 自分のこと」

「もちろんだよっ。記憶が戻ったら、自分がどんな人間だったのかが全部わかるでしょ? 何が好きで、何が嫌いなのか。どんな趣味があって、どんな経験をしてきたのかって……」

 信号はいつの間にか青になり、駆け出したモモにつられてひばりも走り出した。

 記憶が戻るということは、あの身体の傷についても思い出すということだろう。それがどれほどの痛みだったのかを考えると、素直に前向きな言葉を掛けることもできなかった。

「……知らないほうが幸せなことだってあるんじゃないか」

 言ってからどの口が、と思った。

 弟の死の真相をずっと追いかけている自分が言えたセリフでもない。

「真実を知っても傷つくだけかな?」

「そうかもしれない」

「うーん……」

 モモのリードを引いて立ち止まったひばりが、しばらく考える素振りをしてから顔を上げた。

「それでも……俺はやっぱり、自分のことが知りたいよ。もちろん傷のことを思い出すのは怖いし、後悔するかもしれない。許せないって気持ちや復讐心しか感じないかもしれない。……だとしても、すべて思い出さないと前には進めないと思うんだ。晃さんだってそうでしょ? 弟さんをひどい目に遭わせた犯人を見つけることで、前に進みたいって思ってる」

 言っていることは正しかった。正しいと思った。

 それ以上何も言えなくなり、さっきと同じ言葉を繰り返す。

「……そうかもしれない」

 大きな通りに出ると、モモが吠えた。道の向こうで飼い主の女性がにこやかに手を振っている。

 モモに引きずられるようにして走り出したひばりはまだ言いたいことがあるのか、「ねぇ、晃さん!」と、振り返りざまに叫んだ。

「……もし記憶が戻ったらさ、俺、真っ先に晃さんに教えるからね! 俺が本当はどんな人間なのかって。何が好きで、どんな家族がいて、どんな素敵な思い出があったのかって」

 自分から走り出したくせに、途中で飽きたモモがひばりに抱っこをせがんでいる。

 女性の笑い声が響いた。ひばりがモモを抱えて歩き出す。

 その様子に何となく、こいつは止めても勝手に進んで行くんだろうな、とそんな気がした。

「楽しみにしてるよ」

 そう背中に声を掛ける。

「うんっ! ありがと、晃さん」

 コンビニのネオンに照らされていたせいだろうか。笑顔はいっそう眩しく見えた。


 激しい風の音に、低く唸るエンジン。

 オイルの臭いに混じって、新緑の爽やかな香りが鼻孔をくすぐっていた。

 バイクに跨って海岸線を走る。隣にはホンダのCB1300スーパーフォアがあった。見覚えのあるライダースジャケットが風を受けてはためいている。

「晃、鵜の岬までってあとどのくらい?」

 ヘルメット下につけたインカムから聞こえるノイズ混じりの声。ずっと会いたかった男がそこにいた。

 死んだはずの弟。遼だった。

(……ああ、夢か)

 気がつくまでに、そう時間はかからなかった。

 ひばりを簡易宿泊所に連れて帰り、コンビニ弁当で夕飯を済ませ、シャワーを浴びたら眠くなって、それで……。

 たとえ夢だとしても、会えたことは心底嬉しかった。

 耳に心地のいい柔らかなテノール。遼の声を久しぶりに聞いたと思った。

「三十分かからないくらいかな」

「そっか。了解」

 遼のバイクがスピードを落としたのを合図に前へ出る。

 これは夢でもあり、昔の記憶でもあった。最後に遼に会ったときの記憶……。

 まだ東京のはずれで工場での仕事に勤しんでいた頃、遼と一緒に茨城までツーリングに行ったときのことだった。

 二台の連なったバイクは国道6号線を北へと走り、岬近くにある温泉の駐車場で停まる。フルフェイスのヘルメットを外し、ふたりでのんびりと坂道を下った。

 暖かくなってきたといっても海開きにはまだ早く、季節外れの伊師浜海水浴場に人はまばらだった。温泉の宿泊客だろう夫婦と、同じようなバイカーたちが数人。穏やかに降り注ぐ春の光に、海はただまばゆく輝いていた。

 すぐそこには突き出した岸壁。鵜の岬だ。

 ふたりで白い砂浜に腰を下ろし、目に映るそれらを何気なく眺めていた。

「天気良くてサイコーだよなぁ。ツーリング日和って感じ」

「まぁな。お前が晴れ男でよかったよ」

「感謝してくれよな! で、これからは俺のこと修造って呼んで」

「呼ぶかバーカ」

 コンビニで買ったスナック菓子を放り投げて渡すと、遼は「おっ、サンキュー」と言いながらへらへらと笑った。

「それで、これからのプランは?」

「まず燃料を入れる。それから神社と滝に寄って、あとは飯」

「飯ってどこで」

「道の駅みたいな物産センターがあるんだよ。そこかな」

「飯は何があんの?」

「何だっけなぁ……そばにうどん、天丼」

「いいねぇ。じゃあ、俺は天丼にしよ」

 遼はさっそくメニューを決め、ニッと歯を見せて笑う。

 自分は何を食べようかと考えていると、ライダースのポケットから何かを取り出した遼がそれを晃に放って言った。

「なぁ。見ろよ、これ」

 濃い藍色をしたデニム地の巾着。拳より一回り小さく、口はお守りに使われるような赤い紐で結われている。

「何だ? これ」

「女から貰ったんだよ。お守りだって! 可愛くない?」

「巾着に可愛いとかあるのか」

「その子が可愛いって言ってんの! ……俺がバイクに乗るの知ってて、作ってくれたんだよ」

「手作り?」

「そ、手作り。最近はこうやってずっと持ち歩いてんだー」

 遼は照れくさそうに言って笑う。

(その女のことが好きなんだな……)

 そう、ひと目でわかるような笑みだった。

 お守りの入った巾着は生地の厚さで誤魔化されてはいるが、不自然に膨らんでやけにごつごつしている。

「これ、妙にでかいけど……中には何が入ってるんだ?」

「さぁ? わかんないな、まだ開けてないから」

「じゃあ、開けてみろよ」

 巾着を放り投げるようして渡した。遼は両手で抱えるようにキャッチする。

「盗聴器でも入ってるかもしれねぇぞ?」

「やーめーろーよぉー。全然、そんな子じゃねぇし」

「わかんねぇよ? 人は見かけに寄らないからなー」

 弟がそれほど疑い深くないことは知っていたから、冗談半分のつもりだった。

 遼はしばらく口を尖らせてはぶつくさと文句を言っていたが、「まぁ、中身はたしかに気になるか」と、自分に言い聞かせるように呟いた。

 ごつい指先が眼鏡のような形の、丸い結び目をほどいていく。

 ほどなくして現れたものに、晃だけじゃなく遼も目を丸くした。

「宝石……?」

 遼が指先でつまみ、光にかざす。

 漆黒のダイヤモンドだ、と最初はそう思った。

 石は柳葉型のラウンドブリリアントカットで、深い闇の色ながら光り輝いている。

 そのくせ透明度が高く、陽にかざせば万華鏡のように中の色が浮かび上がった。

 真夏の空を思わせるコバルトブルー。自由の女神像のような緑青色(ベルディグリ)。カナリアの羽のイエロー。そこにコルクのような薄い茶色(ブラウン)が混じる。不思議な輝きだった。自然の神秘と言ってもいいかもしれない。

 口を半開きにして石を眺めていた遼も「すげぇ」と感嘆の声をあげていた。

「こんなの……俺、見たことないよ。晃は、これが何の石かわかる?」

「さぁな。黒い石って言えば黒曜石(オブディシアン)、ヘタマイト、ブラックオパール……ほかにも色々あるけど、これはそのどれとも違う気がする」

「だよなぁ……初めて見る色だ。黒いのに、こうやって光にかざすといろんな色が透けて見える」

「珍しいものかもな。もしかして、高価なんじゃないか?」

「……そうかもしれない。次に会ったときに聞いてみるよ。これがいったい何の石なのかって」

 そう言いながらも、遼はどこか誇らしげだった。誇らしげに見えた。

 違和感がなかったわけじゃない。だが、晃はそれに気がつかないふりをして訊いた。

「それで? 彼女の名前は」

「美帆だよ。林美帆ちゃん。……焦んなくても、今度紹介するからさ! すげー美人だよ。そんで優しくて超可愛いんだ」

 遼は石をお守り袋の中にしまい、口を紐できつく縛った。立ち上がった瞬間、肩をバシバシと強く叩かれる。

「叩くな痛てぇよ」

 きっと、照れ隠しなんだろう。柔らかな陽射しを背負い、遼は「へへっ」と声を出して笑った。

「さ、出発しようぜ! 日が暮れないうちにさっ」


 長い夢のせいか、眠りはいつもよりもずっと浅かった。寝起きの頭には靄がかかっているようで、晃はペットボトルの水でタオルを濡らして顔を拭いた。灰皿を持って窓際まで移動する。カーテンの向こうに昨日のような清々しさはなく、空には低く鉛色の雲が垂れ込めていた。夜にでもひと雨来るかもしれない。

 寝返りを打ち続けていたひばりが「うーん」と唸ってから目を覚ましたのは、二本目の煙草を吸い終わった頃だった。

「おはよー、晃さん」

「おー」

 寝ぼけ眼を擦るひばりに生返事をして、三本目の煙草に火をつける。

 考えなければならないことはたくさんあった。今日のプラン。ホテルまでの道のりをどうするか。これから会う予定の成也について。

 ひばりは布団から手だけを出して、テレビのリモコンと着替えを引き寄せた。部屋はそこまで寒いわけじゃないから、きっとただの横着なんだろう。室内はエアコンをつけっ放しにしていたせいか、やけに乾燥していがらっぽかった。

「着るならパーカーじゃなく、白のニットにしておけよ」

「えっ……? なんで?」

 テレビの電源を入れたひばりが、カタツムリみたいに顔だけ出して首を傾げる。

 成也との約束には、ひばりも連れて行こうと思っていた。

 一連の事件に巻き込みたくはなかったが、昨晩のように急にいなくなられても困る。ひばりにはまだ石のことすら話していなかったが、いまや唯一残る事件への手がかりだ。そう簡単に失うわけにはいかなかった。

「成也と約束があるんだ。あとでニューグランドっていうホテルまで行くぞ」

「え、俺も行っていいの⁉」

 勢いよく殻を脱ぎ捨てたカタツムリはパンツ一丁で小躍りしていた。

 単純なやつだ。……いや、単純でよかった。

「言っておくが、レストランじゃなくてラウンジだからな」

「よくわかんないけど、俺はクリームソーダがいい!」

「喫茶店じゃねぇんだぞ」

 晃の言葉を聞いているのかいないのか、ひばりは「どんなとこかな!」などと呟きながら着替えに取りかかっている。

 白日の下で見ると、全身に及ぶ傷跡は余計に痛々しく見えた。晃は改めて頭からつま先までを眺め、どこかにタトゥーのようなものがないか探してみる。

 殺された楊にはひどい傷があり、彼女は龍源会と深く関係していた。この性格からは考えにくかったが、記憶を失くすまでのあいだ、ひばりが龍源会の構成員だった可能性もゼロではない。

「ねぇ、俺ってそんなにイケメン?」

 視線を感じたのか、ひばりが照れくさそうに言って笑った。

 無視して観察を続けてみても、身体に傷以外の彫り物はない。

 タトゥーがあったほうが、むしろわかりやすかったかもしれない。

 ひばりは龍源会とは関係がないのだろうか? だとしたら、この傷は誰に、何の目的でつけられたのか……。

「カッコ良すぎて声も出ないか」

 着替えが終わったひばりはポケットに手を突っ込み、モデルのようなポーズを取っていた。黒のスキニーパンツに、白い襟付きのシャツ。学生風のニットベスト。見事なディスカウントストアコーデの完成だった。

 調子に乗る少年に腹が立ち、晃はカーテンを開けると、容赦なく窓を全開にした。

「さ、寒っ!」

「冗談はいいから、さっさと準備しろ。あと、コートと荷物な」

「晃さんだってまだスウェットじゃん!」

 ひばりはそう叫びながら身体を丸めている。

 北風は凍てつくように冷たかったが、幸い雨の匂いはまだなかった。

「俺はスーツを取りに行く。タクシー拾って、いったん中華街の部屋に戻るぞ」

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