第14話 隠された傷跡
四畳半の狭い部屋は、エアコンをつけるとすぐに暖かくなった。不規則に明滅する古い蛍光灯。その下に布団を敷き、ぐったりとしたひばりの身体を横たえた。
呼吸はしているし、脈もある。本当は医者に見せた方がいいのかもしれないが、松濤組の動きがわからない以上、野毛の部屋に戻るのは危険なように思えた。
そのうち意識も戻るだろう。
そう考えて、しばらく様子を見ることに決める。浅い呼吸を繰り返すひばりを横目に、脱いだコートから煙草を取り出して火を点けた。
――王朱亜が殺された。
彼女の話に間違いがなければ、龍源会の連中がやったのだと考えるのが妥当だろう。
だが、動機はいったい何だ?
王はセレンディバイトが何者かに盗まれたと言っていたが、彼女がもしその件で龍源会から疑われていたとすれば、まず捕まえて石の在りかを吐かせようとするだろう。
(だが、奴らはそれをせずにただ殺した……)
晃はガラスの灰皿を引き寄せ、灰を落とす。
真相を知る術はないが、おぼろげながら復讐すべき相手が見えてきたような気がする。
龍源会の頭、羅小龍。
石を持っていた遼を殺して山中に捨て、弟が恋人だと思っていた林美帆を、周燗流もろとも裏切り者として闇に葬った……。
しかし、それがわかったところでこれからどう動けばいいというのだろう。
唯一の手掛かりだった王朱亜はもういない。
成也の話にあった福建の連中について地道に調べていけばいいのかもしれないが、松濤組とも距離を置きたいこの状況で成也を頼るわけにもいかなかった。
狭い四畳半が白い煙で満ちていく。細く長く息を吐き出していると、背後からかすかなうめき声がした。
「おい、大丈夫か」
ひばりが苦しそうに顔を歪めている。
手首を取った。脈はある。心なしか熱っぽいような気がしたので、冷蔵庫の水でタオルを濡らして額の上に乗せた。眉がぴくりと動いたが、目を覚ます気配はない。
晃は疲れがどっと押し寄せてくるのを感じて、隣にもう一組の布団を敷いた。緊張が解けてきたせいか身体がだるくて妙に重い。
明日のことは、明日考えればいいだろう……。煙草の火を揉み消し、寝間着代わりのスウェットを身につける。
ついでにひばりのことも着替えさせてやろうと、そのときはなぜかそう思って――ぐったりとした身体から厚手のダウンジャケットを引っ剥がした。
濃藍のシャツとニットのベスト。裾がはらりとめくれ、あいだから少年の白い腹がのぞいていた。白い肌はほの暗い室内でも月のように冴え、柔らかくなめらかに見えた。
ふと、女のようなそれだと思った。
華奢で睫毛が長く、顔立ちも中性的。
男にそういう感情を抱いたことは一度もなかったが、それでも触ってみたいと思う好奇心には勝てなかった。
服の裾から、そっと手を差し入れた。下腹のあたりを撫で、指でへその窪みをなぞる。触れた肌は思いのほかしっとりしていて、体温は子どものように高く温かかった。
すこし触るだけ。そう思いつつも、気を失った少年の身体を好きにするのに罪悪感を覚え始めた頃だ。
脇腹に触れた指が、肉の下にある肋骨をとらえた。
痩せているんだから当然か。そう考えて、違和感に気づく。
(……いや、違う。抉れているんだ)
両手で思いきり裾をたくし上げた。目を瞠る。声は出なかった。
「……あ、きさ……?」
何度かまぶたを震わせてから、ひばりが寝惚けたような声で言った。
「気がついたか」
「ん……」
焦点を失った瞳が、服の裾を持った晃の姿をしっかりと捉える。
「晃、さん……。それ……」
ばつが悪そうに顔を背ける少年に、晃はなるべく優しい口調を心がけて訊いた。
「いつからだ?」
「……最初から」
「上半身だけ?」
「ううん」
ひばりは何かに耐えるように下唇を噛んでいた。
「……全身」
か細い声だった。
晃は服の裾を元に戻すと、さっき額に置いたタオルを取り、ひばりの額や頬、髪をいたわるように手で撫でた。
ひばりの上半身は傷だらけだった。
それも、擦り傷とかそんな生易しいものじゃない。肉が裂かれ、抉られ、何かで炙られて焼かれたような跡も無数にある。そして、傷はどれも致命傷になり兼ねないほど深かった。
見ているだけで背筋が凍る。それが上半身どころか全身に……。
これでよく生きていられたものだと感心しつつ、形容し難い怒りが腹の底から込みあげてくる。
これは拷問だ。それも、おそらく楽しみながらいたぶるタイプの。
こんなことができる人間を、晃はこの世でひとりしか知らなかった。
羅小龍。
楊宇春を痛めつけた末に殺し、王朱亜の命を奪った。そして、おそらく遼のことも……。
大人しく晃に撫でられていたひばりがそっと目を開け、か細い声で言った。
「ごめんなさい……。隠してた」
「気にするな」
「……でも」
「いいよ。……言いにくいのは、わかるから」
目尻が濡れていることに気づいて、晃は掛け布団を一枚取ってひばりの身体にそっと掛けた。
こめかみを銃で打ち抜かれた王朱亜の姿……。
今日は見せなくてもいいものを見せたかもしれない。
「寝て忘れちまえ。傷のことも、今日のことも……全部」
「うん……」
まぶたをそっと撫でてから部屋の電気を消した。自身ももうひとつの布団に潜り込む。
疲れていて眠いはずなのに、頭の中が妙にうるさかった。目を閉じると、さっき見たひばりの傷跡が瞼の裏にちらつく。
(……殺された楊宇春よりもひどい傷だった)
もし本当に羅小龍にやられたのだとするなら、ひばりも今回の事件の関係者ということになるのだろうか?
よく考えれば不思議な話でもない。彼を見つけたのは事件現場のすぐそばで、楊宇春が遺体として見つかった当日だったのだから。
路地で動けなくなっていたひばりは何も持たず、記憶もすでに失っていた……。
(お前は、どうしてあの場所にいた……?)
少年はすでに目を閉じ、かすかな寝息が聞こえる。規則的な呼吸の音。
晃は初めて抗えない眠気を感じて、目を閉じ、やがて意識を手放した。
救急車のサイレンと薄いカーテンの向こうにある穏やかな朝陽。それらを無視して二度寝を決め込んだが、足許のひやりとした感触で目が覚めた。
どうやら、ひばりの足らしい。布団から出たそれを元に戻してやると、もぞもぞと動いて寝返りを打つ。手を当てた額に昨夜のような熱はなく、ほっと胸を撫でおろした。
「……あれ、晃さん……?」
「悪いな、起こしたか」
「ううん」
ひばりはあくびをかみ殺し、ひとつ小さく伸びをする。
「体調は?」
「……大丈夫だよ、元気。ちょっと頭に靄がかかっているような感じはするけど」
「昨日のことは憶えてるか」
「……うん、憶えてる。あの女の人は……殺されちゃったんだよね? 助からなかったの」
「ああ。……頭を撃たれたからな」
額に手を当て、考え込むひばりの肩を軽く叩いた。なるべく明るい口調になるよう努めながら言う。
「朝飯にしよう。コーヒーでも淹れる。……食欲は?」
「あんまりない、けど……」
「けど、なんだ」
「……コーヒーは甘いのがいい」
「わかった」
鷹揚に立ち上がり、部屋のカーテンを開ける。久々の青空だった。窓を開けると冷気が入ってきたが、むっとした部屋の空気が少しはましになったような気がする。
晃は荷物のなかからマグカップをふたつ取り出し、インスタントコーヒーの粉を入れた。ひとつにはコーヒーミルクと砂糖をたっぷり加え、ペットボトルの水を注ぐ。
部屋を出て、階段を上った。長い廊下を歩いていると、汚物と油っぽい総菜の臭いが鼻を衝く。
五階にあるキッチンにはキャンプ場を思い起こさせる横長の流し台にコンロ、使い古した鍋やフライパンがぎっしり詰まったカラーボックスが並んでいて、目的の電子レンジは部屋の隅にあった。
開けると異様な臭いがしたが、気にせずマグカップを突っ込み、コーヒーを温める。
来た道を戻って部屋に着けば、ひばりが熱心な様子でテレビを観ているところだった。
ちょうど喫茶店でのことがニュースになっている。アナウンサーが事件の日時、概要、事件で亡くなった被害者の名前を淡々と読み上げていた。
王朱亜。彼女の名前は本名で、福建出身の中国人で間違いはないらしかった。まだ二十六歳だったらしい。写真はパスポートのものなのか、やや緊張した顔つきだった。
温めたコーヒーをスプーンでかき混ぜていると、ひばりが「あっ」と何かに気づいて声をあげた。
「あの派手なシャツのお兄さんがいる」
「派手なシャツって……成也か?」
画面には山王町にある北稲会の事務所が映し出されていた。その事務所の前にある高い塀を、一台のトラックが突き破っている。
アナウンサーが手元の原稿を読み上げた。
『昨夜二十日未明、横浜市南区にある北稲会の事務所にトラックが突っ込むという事故がありました。警察はトラックの運転手である極漣会系の組員を過失運転致傷罪の現行犯で逮捕しており、抗争の可能性もあると見て捜査をしています』
極漣会系の組員が逮捕。
その言葉の背景に映っていたのは、慌ただしくメディアに対応する松濤組事務所と組員の姿だ。ちょうど画面の端のあたりにいつもの服装をした成也が映り込んでいる。
戦争は、どうやら思っていたよりも早く始まったらしかった。
北稲会への報復は晃が想像していたよりもずっと早い。何せ松濤組の事務所が襲われてからまだ一日しか経っておらず、実行役の男もまだ検察に送致すらされていなかった。
龍源会の情報については、憂炎に訊いてみようかと考えていた。中国人のことは中国人に訊くのがいちばん早い。
(それから……北稲会の大村にも連絡、だな)
あのスリランカ人は銃が大村からの依頼だと話していたが、この抗争といったいどういう関係があるのか、直接話を聞きたかった。
晃はマグカップの片方をひばりに手渡し、自分のものをひと息に飲み干した。
それを見たひばりがあからさまに顔を顰める。
「もしかして、晃さん……出かけようとしてる⁉」
「ああ。ちょっと電話してくる」
「ああって……昨日あんなことがあったばかりなのに⁉ 晃さんだって危ないんでしょ? だから隠れてるって言ったじゃん」
珍しく語気が荒かった。
たしかに、王を狙ったのはプロの殺し屋だろう。誰に雇われた人間かもまだわかってはいなかった。
「危ないのはいまに始まったことでもないだろう。……俺自身もそうだし、店だって襲われてる」
「それは、そうかもしれないけど……」
「言いたいことはわかるが、喫茶店で殺されたあの女性は弟の彼女のことを知っていたんだ。事件を追っていれば、命を狙われることもあるだろうが……俺は真実を知りたい。前にも言ったろ」
「だからって……!」
幸い、まだ隣人からのクレームはなかったが、晃は口許に人差し指を立てた。ひばりが慌てて口を噤む。
まぁ、おそらく純粋に心配してくれているだけなんだろう。
「今回は、本当に電話しに行くだけだ。すぐ戻る」
「一緒には、行けない?」
「……外は昨日の事件のことで警察がうろうろしているはずだ。俺も気をつけて行くが、もし職質にあったらお前のことを守れる保証はないからな」
ひばりはしばらく伏し目がちに何か考えていたが、そのうち顔を上げて渋々首を縦に振った。
「……わかった。べつに納得したわけじゃないけど、気をつけて行ってくるなら、それでいい」
「いい子だ」
「子ども扱いは嫌」
「はいはい。帰りにコンビニでなんか買ってきてやるよ。何がいい?」
「じゃ、アイスクリーム」
アイスクリーム……?
疲れのせいで幻聴でも聞こえたのかと思った。人は真冬にもアイスクリームを食べたくなるものなんだろうか。それに、子ども扱いは嫌だと言っておいてそれかと半ば呆れてしまう。
思っていることが顔に出ていたのか、ひばりは声を押さえながら表情で怒りを露わにしていた。
「外に出てる気分を味わいたいんだよっ! 味はチョコレートで、外側がパリパリしてるやつがいい」
そして、意外と注文が多かった。言いたいことは色々とあったが、ここでまた機嫌を損ねるのも面倒だ。そういう考え方もあるか、と無理やり自分を納得させた。
「……この時期なら溶けなくていいよな。帰りにでも買ってくるよ」
甘いものにすっかり機嫌を直したらしいひばりの肩に手を置き、晃はいつものコートに袖を通した。充電器に繋いでおいた携帯電話と財布を手に取り部屋を出る。
外は晴れていたが相変わらずの寒さで、北風が身を切るように冷たかった。