第13話 純喫茶ローリエ
レンガ調の壁にタイルのテーブル、落ち着いたワインレッドのソファ。店内に微かに響くクラシック……。以前に来たときとあまりに変わらない光景がそこにはあった。
晃は窓際の席に座り、ブレンドコーヒーをふたつ注文する。やってきた女性の店員は、モモの飼い主の母親のように見えた。特に目許がよく似ていて、長い髪を後ろで束ねている。
店内に人はまばらで、王は注意深く店内を見回してからサングラスを外した。
化粧映えのする、目鼻立ちのはっきりした美人だ。口許に光る鮮やかな赤色を眺めながら、晃は話を切り出した。
「今日はありがとうございます、王さん。急なご連絡で申し訳ありません」
なるべく、丁寧な言葉を心がけたつもりだった。彼女から情報を仕入れるためにも、第一印象は良くしておきたい。王朱亜は緊張した面持ちを崩さないまま、だが小さく頷いて言った。
「いえ、歓迎します……。あなたのことは友達だって成也が言ってました。私も可能ならあなたに頼みたいことがある。助けて欲しいの。だから話しましょ」
訛りのある日本語。緊張しているようにも、余裕を失っているようにも見える。
晃は穏やかな口調を心がけて言った。
「ありがとう、王さん。俺は記者でもなければ警察の人間でもない。……でも、大岡川の事件と亡くなった楊さんについて個人的にとても興味がある。彼女に関して何か知っていることがあればぜひ教えて欲しい」
言い終えたタイミングでコーヒーが運ばれてきた。無性に煙草が吸いたくなったが、テーブル席には禁煙を告げる札が置いてある。
彼女は深く息を吐き、コーヒーカップの華奢な持ち手を強く握った。
「どこから話せばいいのか……」
その表情は暗く、カップを持つ手が細かく震えている。
「構いませんよ。話しやすいところからで」
その言葉が背中を押したのかどうかはわからなかったが、彼女はやがてボリュームのある重そうなまつげを持ち上げ、訥々と話し始めた。
「……宇春は私の友達で、同僚で……そして、同郷でもあったの。日本に来たのは彼女のほうが先だったけど、あの店で働き始めたのは私のほうが先。表向きは中華パブなんだけど、パブっていうのは名前だけで、オーナーは私たちに身体を売るよう強制してた」
「オーナーって?」
「同じ中国人。みんな福建の生まれで、私の故郷の村からも近いんだけど……。彼には、最近この辺りで悪いことをしている福建人たちの仲間だっていう噂があったの。噂っていうか、ほぼ事実かな。そいつらは自分たちのことを『龍源会』って名乗ってて、身体に同じような龍のタトゥーを彫ってるの」
龍源会。……初めて聞く名前だった。
最近この辺りで犯罪行為をしている福建人、というのは以前成也が話していた連中のことだろうか。赤と青、絡み合う二匹の龍のタトゥーが殺された楊宇春の足首にもあったことを思い出した。
「危ない薬を捌いたり、違法のカジノをやったり、恐喝みたいなことしたり……色々と派手にやっていて、横浜のヤクザとも揉めてるようだった。とにかく悪い噂しか聞かないから私はあまり近づかないようにしていて。でも、宇春はオーナーからの紹介でつき合ってた男が龍源会の人間だった。男の名前は周燗流。結局、あの子自身も関係が深くなっていって、身体にタトゥーも入れて……もう抜け出せなくなっていたんだと思う」
「具体的には、何があったんだ?」
「……彼女の遺体から、宝石が見つかったって話はもう知ってる?」
晃は黙って頷いた。彼女は苦しそうに息を吐き、手許のコーヒーに口をつける。
「龍源会は十年以上前から横浜に存在してはいたんだけど、組織の規模は今よりもずっと小さかったの。だけど、頭の男――羅小龍はすごく野心家で……その上、狡猾で残虐な人間でもあった。お金にも人にも強い執着があって、龍っていうよりも蛇みたいな男。
その羅小龍と周燗流が五年前に起こしたのが、東京の国立博物館で行われていた、宝石展の襲撃事件だった。展示期間中の深夜、博物館に忍び込んで大量の宝石を盗んで大騒ぎになった……当時はかなり大きなニュースになったんだけど、知ってる?」
「もちろん、知ってるさ」
そこで奪われた宝石がなぜかそのうち遼の手に渡り、それから間もなくして弟は誰かに殺された。
「……でも、なんで王さんはそれを知ってるんだ? あの事件は犯人がわからないまま迷宮入りして、警察も実質捜査を打ち切ったはずだろう?」
晃は温くなったコーヒーに手をつけてから訊いた。
「それは……私が宇春や美帆と友達だったからよ」
「メイファ?」
「宇春と同じように周燗流の恋人だった女性。もっとも宇春は遊ばれていただけで、そっちが本命みたいだったけどね」
一瞬、何かが引っかかった。
深く考える暇もなく、彼女は熱に浮かされたように話を続ける。
「周は……金に目が眩んだのね。組織の頭である羅小龍を裏切って、宝石の一部をひとり占めしようとした。彼は盗んだ宝石のなかで特別に高価なものを、当時恋人だった美帆に預けたの。私は事件の概要を美帆から聞いたわ。怯えてた。大変なことに関わってしまったって」
「待て……もしかして、彼女の漢字は美しいに帆船の帆か?」
「ハンセン?」
「船だよ。船の帆」
言い換えてようやくわかったらしく、王は「ああ……」と得心したように頷いた。
「そう。彼女の名前は林美帆。日本にもある名前だから、日本人には『はやしみほ』って名乗ってたみたい」
繋がった。……雷に打たれたみたいだった。
国立博物館を襲ったのは羅小龍率いる龍源会。その実行犯のひとりがボスを裏切り、当時最も高価だったセレンディバイトのルースを林美帆という女に預けた。
遼は何も知らないまま、それを彼女から受け取ったんだ。宝石が盗品であることも、まして彼女が中国人で、龍源会という半グレ組織の幹部の恋人であることも知らないまま……。
「もしかして、美帆のこと知ってるの?」
「いや、ちょっと気になっただけだ。……それで? 林美帆はその後どうなったんだ」
「美帆は預かった宝石をどこかに隠して逃げたわ。でも、最終的に組織の連中に見つかって殺された。まだ事件から一か月も経っていないくらいの頃だった。連中、それからも血眼になって石を探して……最終的には頭の羅が取り戻したらしいって聞いたけど」
石を取り戻した……。それは同時に遼が命を落とした、ということでもあるんだろう。
遼について聞きたかったが、いまは事件と石の行方について聞くのが先だった。
「でも、それが今回の事件とどう関係してるんだ? 宝石の件で裏切った奴らはすでに殺されちまったんだろ? 楊宇春は博物館の襲撃とも、盗まれた宝石とも無関係だったんじゃなかったのか」
「いえ、それが無関係でもなかったの……。宇春は周の恋人だったでしょう? 組織を裏切った件で周はとっくに粛清されていたけれど、その宝石の一部が宇春にも渡っていたみたい。そして、今回の大岡川での事件が起きる前……龍源会にあったはずのセレンディバイトという高価な石が、何者かに盗まれたのよ」
カップに伸ばした手が止まった。
盗まれた……⁉ いったい、誰に。
「宇春は、真っ先に組織から疑われたわ。過去の話とはいえ、裏切者の恋人だったんだから当然よね。それで、彼女から私のところに相談があったの。自分はやってないって。どうしよう、殺されるって……」
そこまで言って、王は外の景色に目を遣った。
雪がちらついている。どうりで寒いわけだった。
晃が視線を戻すと、向かいに座る彼女の目からは大粒の涙が零れていた。
「川から宇春の死体が上がった日の午後、本当は私、彼女と会う約束をしてた。でも、叶わなかったの……。私は組織から一定の距離を置いていた。立場は違っていたかもしれないけど、宇春は日本に来て以来の友達だったのに……」
両手で顔を覆う彼女から目を逸らし、晃は窓の外へと目を遣った。女の涙が苦手なのは、いつからだったろう。父親の暴力に怯えていた母の姿が重なるからかもしれなかった。
昼白色の街灯が降る雪を照らし始めたのを見て、晃は独り言のように呟いた。
「……楊宇春はあの日、龍源会の手にかかって亡くなったってことか」
「あれをやったのは羅小龍よ。間違いないわ」
「どうして、そう言える?」
目尻を伝う涙を拭い、彼女は憎悪の入り混じった声で言った。
「彼女の遺体を見たからよ。……事件の後、私の携帯電話に知らないメールアドレスから写真が送られてきたの。宇春の身体にはナイフで刺された傷がたくさんあったわ。切り裂かれて、抉られて、好き放題弄ばれてた。小龍は人をいたぶるのが好きなのよ。もがき苦しんでいる人やぐちゃぐちゃになった死体を見て興奮するの。そういう病気なのかもしれない」
実際に見た彼女の遺体には、無数の刺し傷がたしかにあった。
あれを生きているうちにやったのだとしたら、羅小龍はよほど嗜虐心の強い人間なのだろう。
人をまるで玩具のように扱い、それを楽しむ……。その光景を想像するだけで、虫唾が走った。
照明がつき、店内はオレンジ色の温かな光に包まれる。王は宙を強く睨みつけながら低い声で言った。
「宇春は、本当に何も知らないって言ってた。仮に、彼女が無くなったセレンディバイトについて何か知っていたとしても、よほどのことがない限りあんな風になる前に話すと思う。あいつはきっと、殺したかったから殺した……ただそれだけなのよ……」
王の眼差しは人をも呪い殺しそうだったが、ふと宙を睨むのをやめると、今度は縋るような目つきで晃のほうを見た。
「美帆と宇春が殺されて……次は私の番」
彼女が今回なぜ誘いに応じてくれ、ここまで赤裸々に事件のことを話してくれたかがわかったような気がした。
「晃さん。……あなたは成也の友達なのよね? ヤクザなんでしょう? どうしてあなたがこの事件のことを調べているのか、私にはわからないし興味もないわ。……けど、これは何かの縁だと思うの。私はあなたのことを信用したからここまで話した。お願い。私を羅小龍から、龍源会の連中から守って……」
テーブルの上に乗せた両手が震えていた。
ずいぶんと都合のいい話ではあると思う。
それでも、その声音は弱々しく、演技をしているようには見えなかった。
晃は急に煙草が吸いたくなり、気を紛らわすように窓の外を見た。街灯の下。白く照らされた柴犬とひばりの姿が見える。
返答に困らなかったと言えば嘘になる。自分の足元もぐらついているのに、見ず知らずの他人を助けられるわけがない。
だが聞いた話に疑わしい点はなかったし、この女が龍源会から追われているのだとすれば、一緒にいることで弟の仇である羅小龍の情報は確実に手に入る。こっちにまったくメリットがない話とも言えなかった。
ひばりたちが帰ってきたらしく、ドアの向こうが騒がしい。
震える彼女の手を取ろうと思った。……取りたかった。取ろうとした。
だが次の瞬間、窓ガラスが勢いよく割れた。
耳をつんざくような激しい音。何の前触れもなかった。
鮮血が四方に飛び散った。生温かい感触。顔を拭って確かめる。
自分のものじゃない……彼女のものだ。
王朱亜の身体がぐらりと傾く。彼女の頭が銃で打ち抜かれたとわかるまでに、数秒かかった。
……外に誰かいる!
「こっちへ来るなっ‼」
声を張り上げたのは、ドアベルが鳴ったのと同時だった。ひばりが気づいて足を止める。
店の客も、すぐに何が起きたか気がついたらしい。甲高い悲鳴があがる。立ち上がり逃げ惑う人々。一瞬にして店の中は混乱状態に陥った。
外にいるひばりの姿を見たとき、ほかに人影は見当たらなかった。遠くから狙ったのだろうか。先日、一緒に酒を飲んだ怜の顔が脳裏をよぎった。
(いや……あいつじゃない)
怜は自分の殺しに、おそらく美学のようなものを持っている。衆目の中、一般人を巻き込むような派手なやり方は好まない。
晃は頭を低くしながら、素早くひばりの許へと駆け寄った。
「おい、大丈夫か」
「あ……、あ……」
ひばりは目を見開いたままその場に立ち尽くしている。足許には看板犬のモモが、抱きかかえて欲しそうに飼い主の足へと縋っていた。
「早く、ここから離れて」
放心している彼女にそう告げ、ひばりをその場にしゃがみ込ませる。
「しっかりしろ」
ひばりは胸のあたりを押さえながら、苦しそうに肩での呼吸を繰り返している。
「……あき、さ……」
背中に手を添え、そっとさすった。
「ここから逃げるぞ」
さっきまで座っていた席にはテーブルに突っ伏した王朱亜の背中があった。血は椅子だけではなく、床にまで飛び散っている。……残念だが、もう助からない。
銃撃は止んだようだったが、このまま外に出るのは危険かもしれなかった。勝手口があるのなら、そこから出た方がいい。
肩を貸して立ち上がろうとするが腕はだらりと下がったままで、いつもの何倍も重かった。顔をのぞき込む。ショックで気を失っているようだった。
(こんなものを見た後なら、仕方ないか……)
晃はひばりを抱え上げ、すっかりひと気のなくなった店内を奥へ進んだ。電話口でなにかを叫んでいる店主とすれ違い、開きっぱなしになっている勝手口から外へ出る。
外は人々の混乱で溢れていた。逃げる人、立ち止まって振り返る人、ただおろおろと慌てふためいている人……。少しずつだが野次馬も集まり始めている。
あの一発を最後に、銃撃は止んでいた。彼女を狙ったものに間違いないとは思うが、自分が標的にされていないという保証はない。
(一刻も早く、安全なところへ向かわなければ……)
晃は気を失ったひばりを抱えながら、人の輪をすり抜けるようにして石川町駅のほうへ向けて歩き始めた。