第11話 寿町のドヤ街
『……たったいま入ったニュースをお伝えします。つい先ほど、横浜市内にある極漣会系松濤組の組事務所に向けて銃が発砲される事件がありました。これにより男性一名が重傷を負い、現在病院で治療を受けているとのことです。なお、警察はスリランカ国籍の男を銃刀法違反の罪で現行犯逮捕しており……』
松濤組事務所……成也のところだ。それに。
(スリランカ国籍の男……?)
その言葉が妙に引っかかった。
画面が切り替わり、通りすがりの一般人が撮影したらしい動画が映し出される。中区住吉町。ビルの一階にある金属製の分厚い扉。
中に入ろうとしたスーツの男が、何かに気づいたように後ろを振り向く。銃を持った浅黒い肌の男が、そいつに向けて立て続けに発砲した。
――昼間のあいつだった。
相須と名乗った、外国人のあの男。
目を疑った。だが、背丈も服装も昼に会ったときとまったく変わっていない。唯一違うのはセットされた髪がひどく乱れていたことくらいだった。
動悸がする。全身の毛穴から嫌な汗が噴き出してきた。同時に頭から氷水でも浴びたみたいに身体から熱が引いていく。
あの男――相須は銃について『横浜旭日会の大村から頼まれた』と言っていた。横浜旭日会は北稲会の二次団体だが、北稲会と極漣組とは昔から敵対とも同盟とも言えない微妙な関係を続けている。大きな諍いこそないが、シマ争いでは下部組織同士の小競り合いも絶えない。
そして、これはそんな状況下に落とされた明らかな火種だった。負傷したのはおそらく松濤組の組員の誰かだろう。面子を潰されて黙っているほど、横浜のヤクザは穏和でも大人しくもない。
「……クソッ! いったいどうなってる」
晃は苛立ちにまかせて、床に拳を叩きつけた。
銃撃を受けた松濤組は、北稲会に対して必ず報復をするだろう。そして北稲会の幹部でもある大村に銃を売ったのが自分だとわかれば、松濤組の連中は地獄の果てまで追ってきて、けじめをつけさせようとするに違いない。
人のシマで勝手に商売をした……。もちろん成也みたいな下っ端の組員とは個人的につき合いがあるが、それとこれとは話が別だ。それに、相須は俺の名前を知っていた。どこかで名前を出されればそれですべてが終わる。
煙草を取り出し、火を点けようとした。ライターを持った手が震えて上手く点けることができない。
「ねぇ、お風呂あがったけど……何か、いますごい音がした?」
「……なんでもない」
「そう……? 顔色悪いよ、晃さん」
髪を濡らしたままのひばりが、ぺたぺたと足音を響かせながらやってくる。
機嫌はすっかり直ったらしく、隣にちょこんと腰を下ろし、上目遣いにこちらを見た。
「晃さん?」
ようやく火の点いた煙草を思いきり吸い込み、激しく噎せた。
妙に苦いだけで、何の味もしない。すぐに灰皿に押しつけ、晃は吐き捨てるように言った。
「……明日、引っ越すぞ」
「え、またぁ? 昨日ここに来たばっかりなのに⁉」
眉根を寄せたひばりが声を荒らげている。
自分も同じ気持ちではあったが、この部屋のことを知っている人間は少数だが確かに存在する。
廣瀬先生に憂炎……ふたりを信用していないわけじゃないが、リスクは少なければ少ないほどいい。わずかな油断が死に直結するような事態だ。
「嫌なら、警察にでも相談して保護してもらえ」
「警察に……?」
「俺なんかじゃなく国の、ちゃんとしたところの世話になれって言ってるんだ。身分証こそないが、事情を話せば追い返されることもないだろう」
そもそも、成り行きで一緒にいることにはなったが、預かるとしてもほんの少しのあいだだと思っていた。記憶が戻るまで待ってやろうと考えないこともなかったが、この状況ならいつ危険な目に遭ってもおかしくはない。
それに、こんな風に身を隠すにしてもひとりの方が身軽だった。傍から見れば歳の離れた兄弟に見えなくもないが、常にふたりで行動して目立つのはごめんだった。
「警察に行くなら、晃さんも一緒に来てくれる……?」
「俺は行かねぇ。警察には顔が割れてるからな。これ以上関わり合いになりたくないし、行けば余計な嫌疑だってかけられかねない」
「そんな……」
大岡川の事件現場で警視庁にいる伯父の名前を騙った。店が銃撃された件もある。
警察だってバカじゃない。拳銃が絡んだ事件があれば、すぐにヤクザや半グレの関与を疑うだろう。いくら注意を払っていても、骨董屋じゃない裏の商売がいつどこで露呈するかもわからない。
「居心地はどうか知らねぇが、俺といるよりは安全だろう。……俺は大岡川の事件を追ってるし、その所為かはわからないが店だって襲われた。これからも身を隠さなきゃならない場面は増えるだろうし、こうやって住むとこだって変えなきゃならない」
「……晃さんは、どうしてその大岡川の事件を追ってるの?」
そういえば、こいつには話していなかったかもしれない。
特に話す理由もなかったが、それで納得して諦めてくれるのなら構わないと思った。
晃はもう一度、箱から煙草を取り出して火を点ける。
……憂炎以外に、この話をするのは初めてだった。気が滅入るのを誤魔化すように煙をゆっくりと吐く。あのときの光景が目の奥にちらついた。
「五年前の話だ。……俺の弟が誰かに殺された。ひどく痛めつけられた跡があって、遺体はゴミみたいに山中に捨てられていた。俺はその第一発見者だった」
顔を潰され、ぴくりとも動かない弟。感じたのは悲しみよりも、強い怒りと憎しみだった。誰かの持つ悪意と醜悪さをまざまざと見せつけられた気分だった。
「警察は一応、捜査をしてくれたよ。でも、結局あれを誰がやったかはわからなかった。今回、遺体で見つかった女性と弟の傷には似ている部分があるんだ。だから俺はふたつの事件は何か関係があるんじゃないかと疑ってる」
ひばりはしばらくのあいだ、漂白剤にでも浸けたように白い顔をして黙り込んでいた。
「ごめんなさい。聞いちゃいけないことを聞いたかもしれない」
「……もう昔のことだ」
晃は吸い殻の上に灰を落としながら、静かに首を横に振った。
『昔のこと』……そう言いながらも、遼が死んでからは時が止まってしまったような気さえしていた。何をしても空虚なわりに、遼を見つけたあの日のことだけはまるで昨日のように思い出す。
過去に囚われたまま、今もずっと動けずにいるようだった。犯人に対する強い殺意だけが自分を生かしているような、そんな気がする。
「……事情はわかったよ」
膝に顔を埋めるようにして何か考えていたひばりが、不意に顔を上げて口を開いた。
「晃さんは行く当てのない俺を助けてくれた人だし、弟さんの事件の手がかりを追う邪魔もしたくない。……だから行くよ、警察」
「そうか」
「ただ……」、と伏し目がちに言って、ひばりは話を続けた。
「あと数日だけ猶予をもらえないかな? これからのことを考えたいし、気持ちの整理をしたいから」
晃は現在の状況と裏にあるリスクについて考え、何も言わずに頷いた。
数日で済むというなら、やり過ごすのも不可能ではないだろう。
「……ありがとう。晃さん」
ひばりは相変わらず下手な作り笑顔で笑っていた。その目がうっすらと濡れていることに気づかないふりをしながら、晃は少年の頭を乱暴な仕草で撫でた。
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引っ越し先の候補はいくつかあったが、条件の整ったところとなるととたんに数が絞られた。簡単には足がつかず、地理的にも疎くないところ。
次の日、ひばりと朝食兼昼食を済ませてから部屋を出た。行き先は中区寿町。晃の店がある中華街からはJR根岸線を挟んで反対側にある、大阪の釜ヶ崎や東京の山谷と並んで三大寄せ場と呼ばれる日雇い労働者の街――いわゆるドヤ街だ。
市内に住んでいても特別な用事でもない限りは来ることがない。晃は石川町の駅で電車を降り、北口を出てすぐのホテル街を抜けた。
「……ねぇ、なんか変わったにおいがするんだけど気のせいかな」
ひばりが顔を顰めてそう訊いた。
「そういう場所だ。ここは」
不法投棄のごみ、アルコール、誰かがした立小便、煙草、かすかに漂う消毒液の臭い……。
以前は港湾労働者で賑わっていた街も最近では高齢化が進み、ドヤにいるほとんどが生活保護受給者だと聞く。久々に来たが、空気の乾いた冬にも関わらず異様な臭いが漂っていた。誰かがスピーカーから流している大音量のラジオに耳を傾けながら、目的の場所まで歩く。
「着いたぞ。ここだ」
桜鼠色の古びた建物。『あざみ荘』と書かれた簡易宿泊所に入り、左手にある管理人用の小窓から中をのぞく。丸椅子に座ってモニターを眺めていた白髪交じりの男が驚いたように振り返った。
「あれ、あんたは……。もしかして、晃さんか⁉」
「久しぶりだな。金さん」
男――金永護は黒縁の眼鏡を押し上げながら興奮気味に言った。
「いやぁ、本当に晃さんなのか? ……何年ぶりかな」
「あんたはそんなに変わらないな。あまり連絡しなくて悪かった」
「それはお互い様だよ。嬉しいな。よくここがわかったね」
懐かしい再会だった。
金とは、晃が中華街で店を開く前にしていたレンタルビデオ屋のアルバイトで知り合った。短いあいだではあったが、シフトが一緒のときは仕事の後で食事をしたり、飲みに行ったりもした仲だ。
金が親戚からこの簡易宿泊所の仕事を譲り受けてからはたまにメッセージを送り合うくらいで会うことはなかったが、晃より三歳年上で、色々と世話を焼いてくれた金のことはずっと記憶に残っていた。
頭を掻き、年月の経過ですっかり黄ばんだ歯をにっと見せて金は笑った。
「で、今日はどうしたの。飲みのお誘いとか?」
「そうしたかったんだけど、ちょっと泊まるところを探してるんだ」
「なるほどね。もしかして、その子が泊まるのかい?」
金は後ろにいるひばりに目を遣って訊く。
「いいや。こいつとふたりだ」
「そっか……まぁ、詳しい事情は聞かないよ。ただ、残念ながらうちはいま満室でね……。俺のいとこが二年前くらいに別のドヤのオーナーになったんだけど、そこにはたしか空きがあったはずだから聞いてみようか?」
「頼む。悪いな」
「お安い御用だよ。ちょっと待ってて」
男は携帯電話に手を伸ばし、何やら韓国語で話している。
今回、声を掛けた理由のひとつがこれだ。金永護は韓国人同士のコミュニティには所属しているが、日本人やほかの外国人とはあまりつき合いがない。晃がトラブルに巻き込まれていることも知らなければ、周りに言いふらすようなタイプでもないことは長年のやり取りで理解している。数日滞在するくらいなら、足がつく心配もないはずだった。
電話を終えた金が頷いて合図する。
「大丈夫だってさ。地図あげるから、行ってみて。すぐ入れるってー」
小窓から差し出されたメモには簡単な地図が描かれていた。名前は港会館。歩いて5分くらいのところにあるらしい。
「助かったよ、金さん。落ち着いたら何か奢らせてくれ」
「おっ、いいねぇ。俺は焼肉がいいな」
「憶えておくよ」
晃は簡単に礼を言って、建物の外に出た。
街もそうだがこの建物自体も饐えた臭いがひどく、外に出たとたんひばりが大きく息をしていた。呼吸でも止めていたんだろうか。
「お前ってさ、憂炎と同じ潔癖?」
「そんなんじゃない、と思うけど……でも、さっきのはちょっと慣れないにおいだったな」
そういえば、寝袋にもこんな風に文句を言っていたことがあったっけ。
不潔なところが嫌いで、箸の持ち方も正しく、食べ方も綺麗だ。
(記憶を失くす前は、どういう生活をしていたんだろうか……?)
もしかしたら、本当にどこかいいところの坊ちゃんだったのかもしれない。
晃は内心苦笑しつつも、地図を手に歩き出した。路地を進み、指示された場所を左に曲がるとスチールグレーの建物が見えてくる。
港会館はさっきのあざみ荘に比べてもかなり新しく小綺麗だった。地べたに座って酒を飲んでいる高齢者の姿がなければ、普通のマンションに見えなくもない。
晃はためらわずに中に入り、管理人室の小窓を叩いた。