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第10話 殺し屋の休日

 二階にあるバーはビルの感じからは想像もできないほど暖かな光で満ちていた。

 店内にはすでに客がひとりいて、初老のバーテンが慣れた手つきでシェイカーを振っていた。どこか昭和の匂いを感じさせる店内には大きなスピーカーがあり、心地よい音量でジャズが流れている。ステンドグラス風のライトが照らす飴色のカウンター。怜は先ほどから座っていたのだろう、ドアに近い窓際の席に腰を下ろした。

 隣に座り、渡されたメニューに目を通す。ドリンクの種類は豊富だった。ウィスキー、ラム、ブランデーにカクテル。ナイフを持った男の横でなければもう少し楽しめたかもしれない。

 晃は大人しくウィスキーを注文し、煙草を取り出して火を点けた。いつもより苦く感じる煙を吸いながら、隣のこいつと何を話すべきか考える。

 今は大岡川の、あの事件のことだけが気がかりだった。

 殺された楊宇春と三階の店の情報が欲しい。

 それから、この事件に成也と怜の組織――極漣(ごくれん)会直参二代目松濤組が関係しているかどうかが気になった。

 彼女は絞殺される前に全身を刃物で切りつけられていたが、ああいうやり方は何も中華マフィアに限った話じゃない。横浜に拠点を置く日本のヤクザが関わっていたところで、何も不思議ではなかった。

 どこから切り出そうかと思っていたところで、バーテンがグラスを持ってやってきた。

 晃の前には琥珀色の、そして怜の前にはまるで血のような赤い液体の入ったグラスが並ぶ。

 悪趣味な奴だ。

「乾杯するか」

 何気なく、そう口にした。怜は無表情を貫いたまま小首を傾げている。

「……何に対して?」

「お前が俺を見つけて、気まぐれに声をかけてきたことにさ」

「それって、何かめでたいことなわけ?」

「さぁな。ただ……少なくとも、今日ここで殺し合わなくていいのは、めでたいことなんじゃないか。平和に飲めるってことでさ」

 怜は考えるような仕草のあとで「そうかもね」と呟き、グラスを掲げた。

「じゃあ、今日の平和に」

「乾杯」

 小気味いい音が鳴る。

 グラスに口をつけると、燻したような香りが鼻を衝いた。焼けるような喉の熱さ。緊張から冷え切っていた身体が、胃のあたりから温まっていくのがわかる。目が合ったバーテンが気さくに微笑んでいた。

 どうやら、思っていたよりもずっといいバーらしい。雰囲気も酒の質も悪くない。

「……いい店だな。よく来るのか? ここは」

 会話の始めとしては悪くない切り出し方だったと思う。怜もちら、とこちらを一瞥しただけで警戒している様子はなかった。

「まぁ、たまにかな」

「なんでこの店なんだ? 関内駅周辺には店も多いし、ここはシマってわけでもないだろう」

 昔からこの福富町のあたりは韓国や中国本土の人間が多い地域で、日本人のヤクザがうろつくことはあっても仕切ることはない。

「……成也から聞いたの、それ? あいつっておしゃべりだよね。本当に」

「いや、中華街に店を持っていれば色々と耳にすることはあるからな。……それに、情報に疎けりゃここじゃ生きていけない。そうだろ」

「……そうかもね。知らないほうが良かったってことも、少なくはないけど」

 グラスに口をつけ、気だるげにそう吐き捨てる。ふと、怜の右目から頬にかけて、深い傷跡がうっすらと浮き上がっているのが見えた。目立つ傷だ。上から何か塗って隠しているんだろう。

「このバーに来る理由、ね……」

 怜は呟いて窓の外を見る。

 中年のカップルが一組、腕を組みながら目の前の道を通り過ぎていった。男の方がこの雑居ビルを興味深そうにのぞき込んでいる。

 スナックにバー、ラブホテル、各種風俗店……。この辺りは昔から続く歓楽街だ。人通りこそ多くないが、様々な人間が下の道を通っては消えていく。ラブホテルの方へ歩いていくカップルを見つめながら、怜は低い声で言った。

「……成也が、よくこのビルに来るからかな」

「成也が?」

「そう。この上に中華パブがあるんだけど、そこにお気に入りの子がいるらしくてさ。しょっちゅう入り浸ってるから、俺もここで時間を潰すようになったんだ。それだけ」

「へぇ、成也がねぇ……」

 思わぬ収穫だった。このビルの上階に、中華パブは一件しかない。

 殺された楊宇春が働いていたところに間違いないだろう。これで、わざわざ危険を冒して店へ行かなくてもよくなった。成也伝いに女の情報を仕入れるか、あいつに店で働く女のひとりでも紹介してもらえばそれで済む。

「まぁ、あいつは女好きだからな……ここだけじゃなくて、色んなところに出入りしてるんだろう」

 感情を出さないよう気をつけながら、晃は小さく嗤って言った。

「……お前らって、まだ一緒に住んでんのか?」

 成也から以前、聞いたことがあった。浪費癖のあるあいつがついに部屋の家賃まで払えなくなったとき、怜が「じゃあ、うちに来る?」と言い出したらしい。

 他人にちっとも興味のなさそうな奴がそんなことを言うなんて妙な話だと思ったから、何となく憶えていたのだった。

「うん、住んでるよ」

 怜は無表情のまま、グラスに入った液体を静かに見つめて言う。

「……困るよね。同居人がいるのに、次から次へと女連れ込もうとするんだからさ。さすがに迷惑だって、怒ったんだ」

「効果はあったのか?」

「ないよ、まったく。……女好きって治んないのかな?」

「さぁ、病気じゃねぇからな」

 煙草やアルコールへの依存ならともかく、ただ女の尻を追いかけてるやつにつける薬なんて聞いたことがない。仮に存在したところで、薬なんかで簡単に治るようなものでもないのだろう。

 そもそも、女が好きなことはべつに悪いことじゃない。悪いのは成也が女好きにともなって様々なトラブルを持ち込むことだ。

「気になるなら、お前も一緒に行けばいいんじゃないのか?」

 その言葉に、怜の瞳の奥で何かが揺らめいた。

 昏い炎だった。憎悪と、それに似た何か。

「俺は女が嫌いだから」

 初めて怜の感情に触れた気がした。

「計算高くて金に汚い。女なんてそんな奴ばっかりだろ」

(女、か……)

 その言葉にふと、弟が最後に好きだと言っていた女のことを思い出した。写真でしか見たことはなかったが、ショートカットの似合う綺麗な人だった。

 名前は林美帆。遼が死んだときにどうにかして連絡を取ろうとしたのだが、遺品として戻ってきた遼の携帯電話から彼女の連絡先は消えていた。

 普通の人間が一生かかっても稼げないような額の宝石を遼に渡し、忽然と消えた……。

『あれは十中八九、盗品だ』。そう言った伯父の言葉が甦ってくる。

 展示会で盗まれた宝石をどのような経緯で手に入れ、なぜ遼に渡したのか……。そして、いまどこで何をしているのか。彼女のことは何もわからないままだった。真相はまだ、すべてが闇の中だ。

『計算高くて金に汚い』。

 女が全員そうというわけでもないんだろうが、あながち間違ってもいないのかもしれない。

 晃は吸い殻を灰皿へ放り、新しい煙草に火を点ける。

 どう返そうか考えあぐねていると、階下から足音が聞こえた気がした。

 二人組だ。グラスに添えられた怜の指がぴくりと動く。

 風の通る音。ドアベルと同時に店のドアが開く。

「あれぇ? 怜に……晃さん?」

 呂律が回っていない男は今日も相変わらず妙な柄のシャツにスタジャンを羽織っていた。横には真冬にもかかわらず、ミニスカートを履いた水商売風の若い女。近場のラブホテルにでもしけ込んでいたのか、女の髪は半分がまだ濡れたままだった。

「……その女、誰? 成也」

 怜はさっき見せた憎悪の視線を惜しげもなく女に注いでいる。成也は恋人のように繋いでいた手を離すと、ひっと引き攣った声を上げてだらしない笑みを浮かべた。

「誰でもないってー……前に川崎で知り合った子なんだけど、近くにいるっていうからお茶してただけ。ね?」

 背の低い、化粧っ気の消えた女は何も言わずに頷いている。隣で怜が苛立っているのがよくわかった。成也が関わっているときに限って、感情が正しく働くのかもしれない。

「お茶って……よくそんな見え透いた嘘が言えるね。今日は戸塚の方でキリトリがあるって言ってなかったっけ?」

「しっかり終わらせてから来たよ。金はちゃーんと耳揃えて返してくれたしぃ……。メッセージ送ったじゃん」

 成也は明らかに様子がおかしかった。ひどく酔っぱらっているみたいに舌ったらずで、首筋から汗がとめどなく流れている。女のほうも、よく見ると額にひどく汗を掻いていた。

 もう十二月半ばを過ぎ、外は氷点下に近い。ホテルからここまで走ってきたとしても、こんなに汗を搔いているのは異様だった。

「成也。お前、もしかして……」

 カクテルを飲み干した怜が派手な音を立てて立ちあがった。女を引き剥がして成也の腕を取る。

「……帰るよ。成也」

「えっ? あ、ちょっと待てってぇ……」

 現金をカウンターに置き、戸惑う成也に構わず強引に腕を引く。

「怜」

 思わず声を上げた。ドアに手をかけた怜が動きを止める。能面みたいな顔がこちらを振り向いた。

「……またな」

「うん。今日はありがとう」

 礼を言われるとは思っておらず、素直に驚く。

(成也の相棒で、松濤組の殺し屋……)

 考えていることはまるでわからないし、きっと人を殺すときも淡々こなすのだろう。それでも、怜にもちゃんとした感情があるのだとわかっただけでも収穫だった。

 仲間になるにせよ、敵対するにせよ、情報は多ければ多いほどいい。

「晃さぁん……。いっしょに飲もうよぉ~」

 引きずられるようにして店を出ていく成也が、今にも泣きそうな声をあげていた。

 今日の目的は果たした。もう急ぐ必要もないだろう。

「また今度な。あとでメッセージ送るから、ちゃんと返せよ。上の店に勤めてる子を紹介してほしいって、知り合いに頼まれてんだ」



 念のため三階のパブに明かりがつくのを確かめてから、晃は福富町のビルをあとにした。通りには不審な白いワゴンが一台、ビルの入口がちょうど見える位置に停まっている。まさか警察ということもないだろうが、直接店に行かなかったのは正解かもしれなかった。

 大岡川を渡り、野毛までの道を徒歩で戻る。

 歩きながら成也に「『ⅭⅬUB DREAM』で働いている子をひとり紹介してほしい」とメッセージを送った。

 野毛の飲み屋街は相変わらずにぎわっていたが、マンションに入ると不気味なほど静かになる。

 借り物の鍵で部屋のドアを開けると、ひばりはまだ不貞腐れているのかリビングのローテーブルに顎を乗せながら退屈そうにテレビを観ていた。そばにはコンビニで買ったのだろう弁当殻がいくつも転がっている。機嫌は斜めでも飯だけはちゃんと食っているらしい。

「ただいま」

「……おかえり」

 ちら、とこちらを見てまたテレビへと視線を戻す。

 私は不機嫌です、というアピールなんだろう。

 構っているのも馬鹿らしいと思い、寝室で部屋着に着替え、電池の切れかけた携帯電話を充電器に繋いだ。

 そのとき、メッセージの通知に気がついた。

 慌てて画面を開くとやはり成也からで、そこには簡潔に名前と電話番号だけが記されていた。

 (ワン)朱亜(シュア) 080―××××―××××

 楊宇春がそこで働いていたとすれば、おそらく同僚に当たるのだろう。すぐに電話をしてみようとも思ったが、時刻は午後十時を回っている。すでに休んでいるかもしれないし、ちょうどあのパブで働いているところかもしれない。

 考えてから、電話番号にショートメッセージを送った。成也から番号を聞いたこと、亡くなった楊宇春について話を聞きたいことを簡潔に書いて画面を閉じる。5分経っても返事がなかったので、とりあえず電話はそのままにリビングへと戻った。

「……あのさ。お仕事、上手くいった?」

 ひばりは相変わらずへそを曲げてはいたが、会話をする気にはなったらしい。エアコンの温度を上げ、ローテーブルのそばに腰を下ろして訊いた。

「上手くいったって?」

「言葉通りの意味。ちょっとって言ったのに、遅かったから」

 棘を含んだ言い方だった。口の先が尖っている。

「怒ってんのか」

「怒ってないよ、おもしろくないだけ。……いいから質問に答えてよ」

 促されるまま、質問の意味について考えた。

 仕事が上手くいったかどうか。

 楊宇春の同僚の連絡先が手に入った。それだけで成果は十分だ。

「ああ、そこそこな」

「そこそこ、ね……。なんか曖昧」

「お前は今日一日、何してたんだ?」

「それ、わざわざ聞く?」

「べつに、嫌なら答えなくてもいい」

 ひばりはしばらく晃のことを睨んでいたが、やがて大きなため息を吐いてから愚痴るように言った。

「……コンビニに行って、近所を散歩して、それからずっとテレビ見てた。ずーーーっとだよ」

「何か面白いものはあったか?」

「不倫した芸能人と、安いスーパーの名前を覚えた。あと、近所でノラ猫を見たかな」

「平和だな」

「平和とも言うし、退屈とも言うよね」

 話が蒸し返され、非難の視線が突き刺さる。

 それを躱すようにテレビのリモコンに手を伸ばし、チャンネルを変えた。夜のニュース番組が始まっているようだった。

「そういう晃さんは何してたんだよ。本当に骨董屋さんの仕事?」

『外国人に銃を売って、ナイフを持った殺し屋といっしょに酒を飲んでた』。

 正直に言えばそんな感じだったが、そこまであけすけに言うこともできない。

「ちょっと調べたいことがあって、伊勢佐木町のディスカウントストアの方まで行ってた」

「ああ、昨日行ったところ? ……調べ物って何?」

「新聞に載っていないことかな。大変だった。汗を掻いたよ」

 嘘は言っていないつもりだった。ひばりは肩をすくめてから、にわかに瞳を輝かせた。

「……じゃあさ、お風呂入る?」

「風呂?」

「うん。いま入ろうかなって思って、ちょうど沸かしたところなんだ」

 自慢げに鼻を鳴らし、褒めて欲しそうに胸を張る。汗を掻いたのは本当だったが、先にニュースの情報を追いたかった。

「じゃあ、後で入るよ」

 ひばりは期待が外れたみたいな顔をしていたが、やがて「わかった!」と元気よく言ってユニットバスの方へと消えていった。

 その背中を見送る。自然とため息が漏れた。

 この奇妙な共同生活、慣れないどころかひばりの存在には振り回されてばかりいるような気がする。

 そういえば、と昔のことを思い出した。

 遼とも、こうしてふたりで暮らしたことがあった。

 まだ晃が上京したばかりの頃、東京郊外に借りた四畳一間の狭い部屋に、急に弟が転がり込んできた。ひとりで寝るのが精いっぱいの狭い部屋だが、慣れない生活を続けるなかで弟が来てくれたことは嬉しくもあり、心強くもあった。

「親父と喧嘩したんだよ」

 部屋に来た理由についてそう話していた遼。一週間くらいすると実家に戻っていったので、短いあいだではあったのだが、風呂もないような部屋でふたり、しばらく一緒に生活をした。

「おかえり、兄ちゃん」

 ある冬の日の朝だった。工場で夜勤の仕事を終えて帰ってくると、敷きっぱなしの布団の上に遼が座っていた。傍らには漫画雑誌の山。あいつは眠そうな目を細めて笑っていた。

「……待ってるつもりなかったんだけど、読み始めたら止まんなくなっちゃって」

「どっから借りて来たんだよ」

「友達んとこー」

 どうしてそいつの家に泊まらなかったのか訊いたら、その友人の家には彼女がいるという話だった。

 遼は立ち上がり、古い生成りのカーテンを勢いよく開けた。朝日が妙に眩しく、室内に舞った埃まで明るく照らし出していた。

「ねぇ、晃。腹減んない? 飯かなんか食いに行こうよ」


 テレビから鳴る耳障りな音に、意識が現実へと引き戻される。

 速報を伝える音だった。テレビの音量を上げる。

 若い女のアナウンサーが原稿を受け取り、神妙な顔で読み始めた。

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