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第1話 プロローグ

 弟は深い山の奥で冷たく横たわっていた。秋の底。長雨で湿った落葉の上。

 顔なんて元がどうだったかわからないほどズタズタに引き裂かれているのに、なぜそれが弟だとわかるのかが不思議だった。骨格だろうか。それとも、この前買ったと言っていたお気に入りのジャケットのせいだろうか。滑らかな牛革のライダースは体格のいい弟によく似合っている。生きていれば、きっとよく似合っていたはずだった。

 橿淵(かしぶち)(あき)はピクリとも動かない弟の白い頬にそっと触れた。それは思っていたよりもずっと固い。血はすっかり乾いていて、手のひらが汚れることもなかった。

 ああ、(りょう)は死んだんだな。

 どこか他人事のようにそう思った。

 現実感がない。頭が、心が、目の前にあるものを否定したがっているようだった。

 ……そうだ。弟が後生大事に持っていた『お守り』はちゃんとあるだろうか。

 好きな女にもらったと言っていた。それは弟のことを守ってはくれなかったが、自慢げに見せてくれたときのはにかむような笑顔は今でも眼裏(まなうら)に焼きついている。

 晃はポケットの中を調べた。ライダースの両側についたジッパーはどちらも開いたままだ。

「……ない」

 すべて空だ。ジャケットもズボンのポケットの中も。

 怒りなのか、悲しみなのか。よくわからないものが腹の底から込み上げてくる。

 どうして遼は殺されなきゃいけなかった?

 なぜこんな無惨な姿で、山中に捨てられなきゃならない?

 命も、大切にしていたものまでも、すべて奪われた。それなら……。

 晃はもう一度、弟の冷えた頬に触れ、そっと撫でた。

「大丈夫だ。俺が必ず取り戻してやる」

 名前を付けることすらできない、どす黒い感情が自分の中に渦巻いている。

 低い嗚咽が漏れた。あふれだす何かで視界が歪む。

「探し出して俺が絶対に殺してやる。お前をこんな姿にした奴を、お前の代わりに……」


--- 1 ---


 鳴り響くバイクの音で目が覚めた。まるで五十CCの原付のように軽く安っぽいエンジン音。観光客を相手に金ぴかの龍を売りさばく、隣の店のドラ息子がまた朝帰りでもしたのだろう。

 晃は年月を経てすっかり薄くなった布団を被り直し、遠ざかろうとするまどろみを掴まえる。

 ふたたび目が覚めた頃には薄いカーテンの隙間から淡い光が差し込んでいて、晃は古びたキッチンのシンクで顔を洗い、煙草を吸うため通りに面した窓を開けた。

 どこからか漂ってくる焼けた甘栗の香り。はす向かいの八百屋の店主が段ボールを運びながら訛った中国語でがなっている。おもちゃのパンダからは似合わないクリスマスソングが流れ、色を失くした街路樹が寂しげに風に揺れている。

 十二月。横浜中華街はいつもと同じ、遅い朝を迎えているようだった。

 この街に流れてきてから、もうずいぶんと時が経った。朝は遅く、夜は早い。昼間はいつだって観光客でごった返しているが、夜半から朝方まで、街はネオンを灯したまま死んだように眠る。不気味なほどの静寂もつかの間、夜が明けてこの時間になると、またどこからかやってきた観光客によって賑わいを取り戻す。ここは、ずっとその繰り返しだった。

 晃は時間をかけて煙草を吸い終わると、適当なズボンとセーターを身につけて階下へと降りた。一階は店舗だ。『古美術 橿淵堂』。そう書かれたシャッターを上げ、鍵を開けて中に入る。開店時間はとうに過ぎていたが、それで困ったことは一度もない。なにせ興味本位の客がたまに訪れるだけの、流行りもしない骨董屋だ。中華街に十基ある煌びやかな門の外側。この辺りは中心部に比べて人通りも少なく、肉まんだの小籠包だのと食べ歩きの店が行列を作ることもない。

 不用品のテレビと骨董じみた旧式の携帯電話で朝のニュースに目を通していると、店の外から甲高い笑い声が聞こえた。ふたりの女性客がはしゃぎながら向かいの店へと消えていく。晃は咥えていた煙草を灰皿に押しつけると、軽く舌打ちをした。

 行列とまではいかなくとも、繁盛している店ならこの辺りにもあった。土産物や茶器などの雑貨を取り扱う喫茶『湖心茶坊』。雑誌やメディアで見ない日はないその店は、常に洒落たデザインの小物やSNS映えする中国茶を求める女性客で溢れている。

 上海人の友人が経営している店だ。

 いや、友人というより腐れ縁とでも言ったほうが正しい気もするが……。

(ちょうど釣り銭も足りないし、たまには顔を出してみるか)

 この時間なら、あいつもまだ事務所にいるかもしれない。

 晃は古びたレジから一万円札を数枚抜き取り、コートを羽織って店を出た。

 澄んだ冬の空。西門通りに浮かぶ提燈でできた黄色い龍を眺めながら、観光客に混じって道を渡った。


 コンコンコンコン。

 訪ねるときは、いつも急くようなノックが四回。いつの間にか癖になったそんな合図をあいつが憶えているかどうかはわからなかったが、ドア奥から(りゅう)憂炎(ゆうえん)の「どうぞ」という声が聞こえた。上品な音を立てて開く扉。窓際に立つ背の高い男はこちらを振り向くなり、口許だけの笑みを浮かべて言った。

「おや、晃さんじゃないですか。……珍しいですね。歓迎しますよ」

 陶器のような白い肌になじむ細い銀縁の眼鏡。全体に刺繍のあしらわれた紺青の長袍(チャンパオ)はすらりとした細身の長身によく似合っている。艶のある長い黒髪は丁寧にひとつに纏められ、よく言えば清潔感があり、悪く言えば神経質そうにも見えた。

「久しぶりだな、憂炎」

「ええ、本当に。目の前でお店をやっているくせに、全然ここに顔を出さないんですから、貴方は。商売は繁盛しているんですか?」

「さっそく嫌味かよ。……うちが繁盛することがあるなんて、本気で思ってんのか?」

「さぁ。想像すらできませんね」

 指先で口許を押さえ、楽しげにくすくすと笑う。会うのは久しぶりだったが、外見だけではなく、その性格の悪さもすこしも変わっていないようだった。底意地が悪いくせに、口調だけは丁寧でどこか憎めない。そんな奴。

「釣り銭がなくなったから両替に来たんだ」

「うちは銀行じゃないんですけどねぇ……」

「仕方ないだろ、ここがいちばん近いんだから。千円札だ。あと五百円玉も足りねぇ」

「はいはい。ちょっと待っててくださいね」

 憂炎は慣れた様子で一万円札を受け取り、事務所の奥へと向かう。

 蓮と鯉が彫られた派手な扉の中に、真新しい黒い金庫が見えた。電子音が鳴って鍵が開く。憂炎は千円札と五百円玉の入ったビニール袋を持って戻って来るなり、盛大なため息を吐いた。

「どうぞ。……これで大丈夫です?」

「助かった」

「まぁ、慣れてますからね。……せっかく来たんですから、お茶でも飲んで行ってくださいよ。ちょうど雲南の美味しい紅茶が入ったんです」

 長居はしないつもりだったが、どうせ店に戻っても暇なことに変わりはない。晃は大人しく応接用のソファに腰を下ろした。

 見た目どおり潔癖の気がある男は横浜市の水道を使うことなど頭にないらしく、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してケトルに注ぐ。紅茶は水道水のほうが美味いのに、と思いながら晃は何気なく口を開いた。

「……あの金庫、新調したのか?」

「ああ、気がつきました? 鍵で管理するのが面倒くさくなって、指紋認証にしたんですよ」

 さっき手をかざしているように見えたのは、指紋を読み取らせていたのかと思い返す。

 たしかに、鍵が要らないという点では便利そうだ。

「晃さんもいかがです? 使い勝手は悪くないですよ」

「いや、遠慮しとく」

「どうして」

「強盗に指を狙われたくない」

 憂炎はしばらく、きょとんとした顔でこちらを見ていたが、そのうち腹を抱えて笑い出した。

「……いや、失礼。まさか晃さん、強盗に指を切り落とされるとでも思っているんですか?」

「そうじゃないが、指紋を気にしたくないんだよ」

「まぁ、お気持ちはわかりますけどね……。そんな風に考えるのは、貴方があこぎな商売ばかりしているからじゃないですか」

 からかうように訊く憂炎に、内心どきりとする。

 自分がやっている『裏の商売』に気づかれていない自信はあるが、こいつはたまに人を見透かすよう目をすることがある。

「……何だよ。骨董品の売買は詐欺だとでも?」

ポーカーフェイスを装って返すと、憂炎は心外だとでも言いたげに「まさか」と声を荒らげた。

「私のところでもアンティークの取り扱いはありますし、そこまで言うつもりもないですよ」

「どうだか」

「本当ですって。……それよりもほら、見てください。こんな茶器も素敵でしょう? 最近、新しく仕入れたんです」

 そう言いながら、茶器を乗せる台にティーセットを並べてやってくる。茶盤と呼ばれる台は深みのある色の木材で、おそらく黒檀だろう。重厚で高級感があり透かし彫りが美しい。ティーセットは透明感のある白の磁器で、品のある青花の絵付けが特徴的だ。

「景徳鎮の磁器か」

「晃さんならわかってくださると思っていましたよ! 薔薇の周りを飛ぶ雀の絵がまた可愛いくって」

「ああ。いい柄だ」

「そうでしょう、そうでしょう⁉」

 姦しく言いながら、憂炎はカップに紅茶を注ぎ入れ反対側のソファに腰を下ろす。

 ポットの絵柄をよく見てみると、小鳥の頭頂部にふさふさとした何かが描かれていることに気がついた。

「……とさかがある」

「えっ?」

「ほら、ここ。よく見てみろよ」

 憂炎はカップに顔を近づけて「うーん」と唸っていたが、さり気なく描かれたそれに気づくとはたと顔を上げて呟いた。

「……たしかに。雀じゃなくて、ひばりかもしれないですね、これは」

「みたいだな」

「よく気がつきましたね、晃さん」

「癖だよ。いつもこんなことばかりしているからな」

 絵柄にはほかにもどこか違和感があるような気がしてならなかったが、それが何かはよくわからなかった。

 憂炎は晃に紅茶を勧め、長い足を組んでから鼻先で嗤う。

「……大した審美眼ですよ、晃さんは。ご自分の身なりには相変わらず無頓着なようですけど」

 憂炎の言葉に、晃は改めて自分の服装を見直してみる。毛玉の取れなくなったセーターによれたズボン、いつ買ったか思い出せないほど古い黒のミリタリージャケット。癖毛の髪は伸び、ひげも先週剃ったきりだ。

 ほんの一瞬だけ自分の外見を恥じたが、久々に会う性格の悪い男に指摘されることでもない。

「余計なお世話だ。几帳面も度を過ぎるとウザがられるぞ」

「私は美しいものが好きなんです。それに、晃さんのためを思って言ってるんですからね! 元はいいんですから」

「はいはい」

 男のお節介を適当に流し、淹れ立ての紅茶に口をつけた。渋みは少なく、香りは蜂蜜のように甘い。雲南は中国国内でも有名な紅茶の産地だと聞いたことがあるが、この味わいならそれも納得だ。口うるさいオーナーの下で従業員はさぞ苦労していることだろうが、この店は扱っている物だけはどれも一級品だ。

「もうすぐクリスマスですし、それが終われば年の瀬ですよね……。最近、一年が過ぎるのがとても早いというか」

 完璧主義の男は外の景色に目を遣りながら、どこか物憂げな様子でため息を吐いている。

「歳のせいだろうな」

「ダジャレですか。晃さん」

「違う」

「おやおや。……まぁ、私だってまだ三十そこそこですからね」

「それを言うなら俺もだよ。……そんなことより」

「何です?」

「最近、何か変わったことはないか? 周りで、事件とか」

 憂炎の目が一瞬泳いだのを、晃は見逃さなかった。

 しばらく言葉を待っていると、男は言い淀みながらも話し始める。

「……知り合いが結婚しましたね」

「おめでとう」

「黄金町の辺りに、新しく中華料理の店を開くそうです」

「いいニュースだな」

「それで……ああ、もうっ! この話をしたら晃さんがいなくなっちゃうから言いたくないんですけどっ」

 そう前置きして憂炎は手にしていたカップを置く。

「そのカップルの話によると、今朝方、大岡川から女性の死体が見つかったそうです。ちょうど黄金町の栄橋の辺りで現場検証をしているのを見かけたそうで」

「女性の死体?」

「ええ。小耳に挟んだ情報だと、遺体とともに大量の宝石が見つかっているとか、いないとか」

「……悪い。邪魔したな、憂炎」

「ああっ、やっぱり行ってしまうんですね⁉ そろそろお昼時ですし、このあと一緒に食事でもと思ったんですが……」

「また、次の機会にな」

「もうっ! わかってましたよ、わかってましたけど! じゃあ、せめてこれを持って行ってくださいよ。一緒に食べようと思って、取っておいたんですから」

 立ち上がってドアに手を掛けたところで、何かが放り投げられた。

 反射的に両手でキャッチする。

 小さなスチール缶だった。月とうさぎがあしらわれた臙脂色のパッケージには『月餅』の文字がある。月餅とは月のような丸い形をした中華菓子だ。小麦粉と卵で作った皮に、クルミや松の実が練り込まれた餡が入っている。

 缶の底を見ると賞味期限が間近で、思わず口の端で笑ってしまった。

「お前、俺が甘いもの苦手だって知ってたよな……?」

「当たり前じゃないですか! 貴方のその渋い顔が見たかったんですから」

「ただの嫌がらせじゃねぇか……」

 この性悪な男がどんな気持ちでこの月餅を取っておいたのか想像してみたが、具合が悪くなりそうだったのでやめておいた。

「たまには甘いものもいいでしょう? ひとりで食べるのは寂しくて嫌ですし、おやつにでもしてくださいよ」

 荷物を増やすなよと思ったが、また言い合いになるのも時間がもったいないので、晃は言葉を飲み込んだ。

「……また来る」

「ええ、待ってますから!」

 ひらひらと手を振る男の「髭くらい剃ってから行ってくださいねー」という言葉を背中で聞きながら、晃はドアを閉め二階の事務所をあとにした。

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