第六話 始まりの聖戦
人知れず決裂した二人の少女。その最初の交錯は、傍目に一方的な結果が示された。
「はあっ!」
「――」
迅雷が比喩として生温い域の加速で踏み込んだローレが、ユニアの鳩尾を渾身の力で蹴り抜く。ユニアは一切の抵抗を許されないまま、突風に煽られる紙屑のように吹き飛ばされた。
しかし顔を顰めたのはローレの方。予想外の反撃があったのではなく、手応えの奇怪さが彼女に攻撃を続けさせなかった。
「なに、今の感触……!」
率直な感想としては、湿った綿の塊を蹴ったよう。物質として返すべき半作用が微塵も存在せず、表層に触れると突き抜けるくせして内側に進むほど粘性を増す。肉のゼリーを踏んだかのような気持ちの悪い感触が今も離れない。
〝蹴り飛ばす〟ことができたのは単純に蹴りそのものが衝撃波を生むほどに強力だったからだ。少しでも込めた力が弱ければ脚が沈んでいただろう。
絶対にまともな人体の構造ではありえない。そんな想像から出た疑問が口を突いて出てしまう。
「この子、どれだけ人から離れてるの――」
「遺憾ですね。生まれは人のつもりですよ」
「なっ?!」
不意にローレの耳元へ、微風のような声が届いた。
背筋を走った危機感に従って反射的にそちらを見れば、緩みのない速度で視界に閃く白銀の刃。殺意の線を丁寧になぞる一閃、その軌道は極めて正確にローレの首を刈り取るもの。
ローレは仰反るように斬撃を避けつつ回し蹴りで反撃するも、手応えは無い。当たれば時計塔をも揺るがす威力の蹴りは空を切る。
立て直しながら視線を戻せば、殺気すら幻影だったかのように自然体のユニアが立っていた。
妙に距離が離れている。あまりに自然体の棒立ちは、自分は最初から微動だにしていないと言いたげだ。まるで今の攻防がローレの一人芝居だったかのように静かで、けれどユニアの姿にも明確な変化がひとつある。
何処から何を合図に喚び出したのか。ユニアの両手には、彼女の矮躯にしてみれば槍と言っていい程に巨大な白銀の刺剣が二振り握られていた。清廉に研ぎ澄まされた刃の周囲には、どす黒い瘴気が枝に巻き付く蛇のように張り付きながらうねっている。
「うふ、ふふふふ……それに、何ですか、人間離れ?どの口が言いますか」
ユニアの瞳の色が淀んでいく。水を含ませなかった絵の具を筆で塗り広げたみたいにぐちゃぐちゃとした毒々しい濃淡が、碧瞳の中で渦を巻く。今にも緑色の粘つく涙となって零れ落ちてしまいそうなほどに不安定な感情は、既に人のそれではない。
同時、ユニアの気配が熱を帯び始めた。明らかな邪気を孕んだ含み笑いが殷々と夜の闇に木霊する。
その腕へと収束していく穢れの波動が、刺突と共に解き放たれて――
「貫け」
「っ――」
ローレの一声で放たれた黄金の爆光によって、ユニア諸共に焼き払われた。
そしてそれのみにとどまらず、いつの間にか囲うように展開されていた万色の光弾があらゆる角度から同一の座標に向けて矢のように殺到する。
頭を、腕を、脚を、胸を。焼き貫かんと猛速で襲来する色鮮やかな光の群れ。最初の十発でユニアの身体は弾け飛び、しかしなおも止まらず降り注ぐ光の焔。数千発に達する破壊の嵐雨は、ユニアの身体を完全に蒸発させてのけた。
「――ふぅ、ああ痛い」
しかし直後、闇を纏った灰色の影が虚空から何の気もなく降り立つ。
影は他人事のように感嘆し、剣を両手に構えていなければ拍手すらしていそうな上気した面持ちで微笑んだ。
「なんともはや出鱈目な……精霊は総じて人より強いと聞きますが、経験の無い私にもこれは例外だとわかります。――よもや貴女、精霊は精霊でも超越式というやつですか?」
「そうらしいけど、よく知らない。そういうキミは人より弱くて薄い――ああ、夢幻霊だっけ?だから色んなものを受け流せるし取り込める。あたしを出鱈目とか言うけど、なら何でキミはいま立ってるのさ」
「ふふ、私は往生際が悪いのです。しかし、これは……」
ユニアが歪なのは誰の目にも明らかで、しかしその上で断言しよう。
攻撃に回す出力以外の面では、ユニアはどうしようもないほどローレの後塵を拝している。
ローレの背に、何かが薄らと見え始めた。水中にゆらめく水草のようにも、枝珊瑚のようにも見えるそれは徐々に光量と圧力を増していく。その内側には血管のような線が無数に巡り、色とりどりの粒子が目を灼くほどの強烈な光を放ちながら血流のように猛速で駆け廻っていた。
再び展開される光の弾幕。それは珊瑚の産卵がごとく神秘的でありながら、噴火寸前の火山のような破滅的な気配をも漂わせている。
ユニアはそれを見て直感する。あれは翼だ、と。
邪の属性は欠片も宿さず、しかし天使のそれと言うにはあまりに神々しく、付け加えて容赦が無い。
「くふふふ。この霊素の感応量に、多彩さに……全く、どんな冗談ですか。これでは太陽そのものです」
「使うのは初めてだけどね。それに、そう言う割には怖がってないように見えるけど」
霊素と呼ばれる、この世界の構築要素。操れる種類や量の多寡が、おおよその精霊の強さの格付けとなる。それらに愛されていないユニアとは異なり、ローレは世界の寵児とさえ言えるほどに多大な霊素の加護を帯びていた。
もはやローレ自身が一個の星と呼べるほどに規格外の熱量だ。
「恐ろしいからこそ、堕としたいのです。いつも、いつも、今だって……ふふ、ふふふ、あはははは――」
そう。だからこそ、その全霊を浴びて滅びていないユニアは常識の型に嵌っていない。炎で焼かれようと銀で貫かれようと、死なず、壊れず、潰えない。
冥府にある底なしの湖を連想させるユニアの姿を見たローレに浮かんだ感情は、恐れと共に感嘆だった。気に入らないのは今の彼女の身体を好き勝手に突き動かしている、見ているだけでも虫唾が走るような中身だけ。ユニア個人に対しては今も昔も親愛と尊敬が等しくある。
だからこそ、ローレには思わず出てしまう言葉があった。
「やっぱり……キミは本当に優しいよね。どうしてそこまで自分を譲れるの。あたしから見ても手遅れなくらいだよ、キミの中から感じるものは」
「おや、わかりますか」
「誰かの為なら自分だって譲れるのがキミでしょう。なのに、ねえ、キミは本当に何てものと繋がってるの」
「誰とも繋がれない場所とです。特に貴女とは、永遠に」
両者の変質を比較すれば、明らかにユニアの側が異常だった。これまでの一歩引いていた淑やかさを踏み躙る凶悪な気配はまさしく鬼女だ。
ユニアにまとわりつく黒い瘴気。その内から感じる悪意に敵意に殺意の激流、常軌を逸した攻撃性――言ってしまえば怨念だ。
こんなものを抑えていられるわけがない。この獰悪な顔がユニアの本性ならば、とうの昔に彼女の周囲に死体の山が出来上がっていたことだろう。
よってこれは彼女が持っていたものではない。何処かにいる何かと共鳴する事で得ている力。無数に混ざって混濁し、けれど他者を害するという一点においてだけは一致している超密度の怨嗟の大群だ。
ユニアはそこに呼び水として自分を繋ぎ、流入してくる呪詛を瘴気と変えて使役している。
そもそもユニアという少女が生まれついて人よりも亡霊の類に近いのだろう。日常における存在感の薄さはそういう事だ。
未だ戦況が拮抗している理由も同じ。急所らしい急所を持たない彼女への有効打が与えられていない。
しかも、儚く薄いのはあくまでユニア本体。内部に浸透し周囲に渦巻いている闇は彼女の親衛隊であり、鎧であり、そして等しく猛毒だ。もはや並みの精霊では比較にならない力を彼女は手にしている。
「あはっ――さあ、さあ。そろそろ貴女の血が見たいです。どうか惨めに泣いて下さいなぁ!」
「やってみなよ、その子の口を借りてしか喋れない悪霊溜まりの分際で――!」
見開かれた視線の間で文字通りに火花が爆ぜる。
激するローレの翼が昂るように脈打ち、展開していた虹の星団が審判の流星群として解き放たれた。先を倍する焔の魔弾は豪雨の如き密度と速度でありながら、またも全弾が命中する。
受けたユニアは一秒と人の身体を保てないまま、血の煙となって粉砕された。
「あっははははははははは、っ、ぎぃ!」
噴き上がったその血煙がけたたましい哄笑を上げる。霧散するのではなく凝縮を開始したそれはしかし、直後に灼熱を帯びて突貫して来た一発の砲弾によって悲鳴と共に四分五裂した。
砲弾の正体はローレ自身。最大出力の霊光を纏った突撃であり、どうせ先の倍に増やした程度の弾幕の掃射では片がつかないと即断して放った追い討ちである。
しかし、それでも捉えきれない。きりがない。潰したところで彼女の全てを消し去れない。半分殺してももう半分が生きている。
「なっ」
ローレの中を廻る思考は、体をぐいと力づくで引き寄せられる感覚によって中断された。
「捕まえました!」
「っ、離せぇ!」
細い少女の右腕が、ローレの左手首を握っていた。その腕には、胴が無い。声を紡ぐ口も当然なく、しかし何故か聞こえる少女の狂笑。
それも直に虚空から胴が生えることで、衣服に至るまで無傷のユニアがローレを捕らえているという結果として現出する。
ローレを捕えていないもう片方の腕は既に刺剣を振りかぶり、空気の壁を突き破る加速で刺突を放っていた。ローレを貫くまで寸毫もかからない。振り払おうにも、掴む腕の力は魔性のそれだ。
「うぐ、ぅううあああっ!」
叩きつけるように突き刺され、深々とローレの肩を貫く銀の刺剣。更にそこから流し込まれる呪詛の劇毒。刃と呪いによる二重の死は、人間を相手に打ち込めば魂にまで癒えない傷を叩き込むだろう。
ローレの体内で血が逆流し、臓器が幾つか壊死して無数の血管が千切れる。さしものローレも苦悶の声を漏らし、今のが浅からぬ傷であるとユニアに知らせ――
「こぉ、の……舐めるなぁッ!!」
「っ、ぁああ!?」
引き換えにのこのこと近づいて来たユニアの胴を掴み寄せ、霊光を纏わせた全力の膝蹴りでその体を爆砕した。
ローレは精霊の完成形。一点に凝集した森羅万象、その依代に他ならない。言ってしまえば単純な地力が桁違いなのだ。
ゆえに、今のユニアの全力を一度か二度食らっただけなら多少削り取られる程度で済む。
そして逆に、ローレの一撃がまともに入ればかなりの痛打である。
「ぐっ……ぅう」
「――はぁっ、はぁ……さっきも思ったけど、やっぱり変に距離を取るより直接の方が効くね……っ、づぅ……」
あまりの衝撃に、ユニアは剣を手放した。内臓を裏返したように大量の黒ずんだ血を吐き出した彼女は、先と違って瘴気に混じり受け流すような真似ができていなかった。打撃と共に流し込まれた力の奔流が、瘴気の中に溶けて漂うユニアの核を余さず乱雑に攻撃したのだ。
湖に溶けた一粒の砂を捉えるためには全ての水を一気に蒸発させればいいという暴論の下で放たれた力の爆発は、瘴気の中に溶け込み本人すら明確な所在を知らぬユニアの根幹を満遍なく痛烈に振動させた。
「……っ、なるほど、迂闊、でした」
「ちょっとだけ安心したよ……でも、思ってたよりずっと痛いや、これ」
浅くない傷を負った両者は、再び距離を空けて睨み合った。ローレは自分の肩に開けられた風穴に意識を向ける。今もじくじくと痛む原因は呪詛の劇毒であり、傷の中に留まりながら治癒を阻害していた。
「力の根本に不用意に触れればどうなるかくらいはおわかりでしょう……しかし、強い」
「嫌味かな、それは」
「賞賛のつもりですが、貴女にはきっとそれすら足りません」
二人は本心から讃え合いながら笑みを浮かべる。しかしその穏やかさとは対照的に、湧出する力は自らをも削るほどに勢いを増していた。
自壊が現実味を帯びてくる馬鹿げた強化を行いながらも、ローレとユニアに怯む気配はない。
お互いに、その心理の方向性は似通っていた。
自分が痛くて苦しいだけなら、我慢すればいい。
目の前の、度し難く憎たらしい彼女と同じように。
そしてきっと、誰より孤独な黒に染まった彼女のように。
運命の目覚めは止まらない。二人の覚醒は終わらない。
虹の流星を束ね率いる、黄金の主星たる虹爛翼と、
黒血の瘴気を繋ぎ纏った、冥魔の巫女こと狂怨坩堝。
二人のあるべき姿が、背負う宿命が。不倶戴天の力を持った友たる少女によって暴かれていく。
ローレは口の端から流れた血を拭い取り、ぎろりとユニアを視線で射抜く。ユニアはそれを真っ向から受け止め、ローレに向けて熱に浮かされたように口端を裂いて吊り上げた。
損耗のほどに一見して差はありながら、しかし精神の方は揃って微小だった情の緩みが今は完全に蒸発しきっている。
何を於いてもこの化け物を殺すべきだと、その結論は絶対不変。
ローレの肩に空けられた穴は、既に完全に塞がった。
ユニアの手には手放したはずの刺剣が二本、いつの間にか握られている。
準備は万端、戦意の丈は上昇中。お互い確かに命は削られて、けれと頓着などする筈もなし。
「さあ。まだいくよ、ユニア」
「ええ。無論です、ローレ」
刹那、二人は相手に向けて突貫する。
激突から始まった第二幕は、衒い無しの近接戦となった。
ローレは光輝を纏った徒手空拳。
ユニアは瘴気を纏った二本の刺剣。
互いに防御は二の次、自分が負う傷の一つより相手へ与える傷の一つへ重きを置いた暴虐の神楽舞。
斬って、裂いて、殴り飛ばす。蹴って、貫き、抉り取る。
相手が引けば追い縋り、踏み込んでくれば負けじと踏み込み押し返す様はまるで円舞の完璧な手本のよう。
絡め手や緩急は交えない。この速度域の戦いに半端な牽制が役割を持てるはずもなく、相手の出方を見るような余裕は最初から持ち合わせてなどいないから。
よって、ただただ愚直な必殺を繰り返すだけ。
流れる血を振り払い、自分ごと壊して、殺して、滅ぼし尽くす。
どうやってなんて考えない。例え不死だろうが無限に殺せば問題ないと言わんばかり。
規模や範囲は大幅に狭まったものの、攻勢の威力と密度は桁を一つ上げている。相手の一撃に対して十倍以上の反撃を叩き込み合う応酬の連鎖は、技量さえも荒唐無稽なほどに隔絶していた。
二人の戦いを見て慄然とすべき部分は、今まさに二人が成長をし続けているという一点に尽きる。
天賦の才覚ゆえに人より学びが早いだとか、死地ゆえに跳ねも大きいとか、そういった要因も確かにあるだろう。
彼女たちは身も蓋もないくらいの天才だし、相手取っているのは極上の力を持った敵。
しかしそれよりずっと単純かつ普遍的な事実が、今の二人を加速度的に超越の領域へと押し上げていた。
「戦うの、初めてだよねキミ!なんでこんなに巧いのさ!ふざけてるよ、おかしいってば!」
「貴女こそ!結局、私たちに一番向いていたのが殺し合いだということでしょう。ああ全くもって度し難い!」
その事実とは何か――それはローレもユニアも、戦闘に関して完全な素人であるという事に他ならない。殺す、滅ぼすという行為において赤子同然であるがために、成長速度も圧倒的。
二人は、これが初陣である。超常の力は確かにあった。しかし使い方の修練に関しては全く行っていない。総じて抑える方向への努力であり、吐き出す能力は微塵も育っていなかった。
殺し方なんて知らない。戦い方なんて知らない。武技の一つも先人から学んでおらず、それこそ学んだ事なんて知識以外に存在しない。
なのに、今は。
出力、速度、手数。あらゆる能力が戦闘開始時の数十倍。
「死んでよ、邪魔だ!そうだよ、あの子の言う通り!ずっとキミはそうだったよ!うんざりするくらい出会った日から変わらない!」
「死んでください、目障りです!眩しすぎて嫌になる!今も昔も、これからも!貴女は変わらないのでしょう、忌々しい!」
しかしまだまだ、どこまで行っても止まらない。
振りかぶった拳と二本の刺剣。高まり続ける双極の光と闇が限界を振り切り、今夜最大の出力をまた更新する。
「キミか、あたしが――」
「貴女か、私が――」
装填された大破壊を、二人は同時に加減なく振り下ろした。
「「 産まれてなんか、こなければ! 」」
至近距離でぶつかり合った力が爆風を生み、またも二人を引き離す。一撃が互いに深々と食い込み、命に届く傷を負う。
しかし引き合う磁石のように、再度の突撃も全くの同時。爆轟の残響が鳴り止まぬ内にまたもぶつかって喰らい合う。感じる痛みなんて知ったことかと喰らいつく。
これは、ただの産声。今宵一五〇〇回目の衝突が敢行されてなお、未だ二人は未完成。二人が有する改革者の天稟が今ここに花開いている。一秒ごと、着実に相手の命へと近づいていく。
動きはひたすら苛烈ながら見惚れるほどに流麗で、一撃ごとにその美々しさを増していた。行動の副次効果として展開される光の弾幕と闇の波濤は、衝突し合うたびに花火と見紛う鮮やかな爆発を起こし続ける。
「「 はぁあああああああああああああああ――ッッッッ!!! 」」
街の中心、深夜と言えど誰かはいるだろう状況に、しかし巻き込まれる者は一人もいない。衝突は風すら起こさず、意志の波動は粉雪を溶かすことすらできていない。
彼女が彼女を滅ぼすために全霊を振り絞っているせいで、逆に他者への影響が完全に消失していた。世界の因果が二人へ完全に収束した結果、その座標へ関わろうとする因子の全てが実現前に棄却されている。
この瞬間、世界の時間が二人を除いて止まっていると言ってもいいだろう。
そう。この聖戦には誰も気付かない。終わった後に残るのは、ただ片方が堕ちたという結果のみ。そしてローレとユニアの両方が、運命を担うに足る力と精神を完璧に持ち合わせている。
慈悲の心と両立する、相入れない者に容赦をしない頑なさ。
例えかけがえの無い相手でも敵と見做せば問答無用、ほんの少し前までの友情すら投げ捨てて撃滅できる。
あまりに常軌を逸した形状で精神と力を成り立たせる黄金比。
そんな彼女たちに無理ならば、それは最初から無理なのだ。
断言しよう。この決闘が世界に齎す不利は何も無い。当事者たる二人を除けば何も壊れず、何も死なず、傷つく者さえ存在しない。勝った方が負けた方の嘆きを背負い、世界をより良い形へ導けるようになっている。二人は元来、そういう性として生まれている。
もはや誰にも止められない。少女の形に生まれた虹と黄金の翼と、血と怨念の大湖。その駆動が相手の血を浴び自分の血を流しながら、徐々に完成へと近づいていく。
「「 燃えて輝け我が希望、天へ羽ばたけ理想の大翼。重ねて映せ鏡よ鏡、我らがここに在るために――! 」」
そして、二人は同時に到達した。あらゆる困難に抗するための、総ての顕象に。理想と現実の境界に、ローレ・ミチリスとユニア・アーフィオラは亀裂を刻むことに成功する。
まるで鏡と向き合って化粧をしていくかのように、理想と現実の乖離を埋めていく。
重なっていく心と身体。両の境界が無くなり始め、二人を別の次元へと移行させる。
無意識に溢れる超越の言霊。逸脱のための第一歩であり、少なからず二人のこれからを作り替える飛翔の祝詞。
――振り返って鑑みて、あと数分でも早く目覚めていれば何もかもが変わっただろう。
繰り返そう。決着に衆生への不利益は何も無い。今夜死ぬのは一人だけ。
二人の少女は真実、ごく一部の例外を除いた他者を愛して慈しめる善性の人格を持っている。自分の持つ力が齎す影響と責任を、確と理解し弁えている。
止める理由はこの世に無く、また止める手段もこの世に無い。ゆえにどちらかの破滅がこの世界の筋書きであり。
ああ、お願い。誰か止めて――と。
そんな想いはあってはならず。
あったとしても、決して声になってはならないから。
「ローレ、ユニア」
「――ッ、うぁ!?」
「っ、きゃあっ?!」
よって世界の筋書きにいない何かがその想いに応え、現れた。この世でただ一人、あってはならない願いを叶えられる者が。
「ねえ」
九年を彼女たちと共に生き、そしてここに現れた少女の正体はそういうもの。鋼と鋭角の異界法則で縫い上げられた、もう一人の奇跡。
「何してるの」
その言葉が届いた瞬間。まるで彼女たち三人が出会った日の焼き直しがごとく、再び運命の歯車は停滞する。
互いを擦り減らしながら動いていた精緻な歯車の巨大機構は、別の次元から打ち込まれた楔によって異様な音を立てながら引き止められた。
彼女の名はミリゼ・ティディラ。
悪夢で満ちる幻想の中で生まれた、この世で最も硬く確かな魂。
彼女の母によって境鋭界と号された正真正銘の唯一無二が、その片鱗と共にそこにいた。