第五話 決裂
日付が変わるより、時はほんの僅かに遡る。
時計塔広場は、いつもの三人の別れ道。並んで歩いて、益体の無い話をしているといつの間にか辿り着いていた場所。
これまでは、さようならの言葉に重さが無かった。また明日と手を振って、そしてそれは必ず現実になったから。日が昇る方角のような、当たり前にそうなる事について考えを巡らす事は無い。
ただ、失った今では記憶となってのしかかる。
過去はいつだって重いものだ。未来にかける理想と同じくらいに、心を狭めて押し潰す。
彼女はそれを生まれて初めて実感した。
あの二人との関係は、間違いなく得難いものだったのだと。
「――」
ローレ・ミチリスは雪の中、時計塔の壁に背を預けて立っていた。考えを誤魔化すように吐いた息は淡く不定形な白に染まり、かと思えば消えていく。
気温に関しては流石に春先、真冬とまでは言い難い。しかし、吹く風はまだ寒気を多分に孕んでいる。お気に入りの白いコートを羽織っても、頬なんかの肌が露出した部分はやはり冷たい。
ローレは無意識にマフラーを持ち上げて口元を覆う――その時、マフラーと手袋が目に入る。どちらも赤色、暖色系。マフラーはミリゼの、手袋はユニアの手製だ。色合いが派手なところが何処となく子供っぽいような気がして、しかし作りは細部に至るまで見事の一言。店で買ってもそれなりの値段になるだろう出来だ。
本当に、彼女たちは途方もないくらい凄かった。自分が変だという自覚はあるものの、別の方向であの二人は別格だ。
口には出さずとも尊敬していたし、仄かな憧れがあったと言っていい。
しかし〝ああなりたい〟は〝ああなれない〟と同義の言葉だ。彼我の間にある深い隔絶を感じ取っていたからこその感情だったとも理解している。
そして、そう感じたからこそローレはここで待っていた。
家主に黙って出てきたわけではないが、用件は告げていないためあまり時間もかけられない。何事も無い事を祈りながら、けれどそうしたくないような複雑さがもどかしい。
「……もう、帰っちゃおうかな。ユニアには悪いけど」
今ここで去ってしまえばいいのではないか、そう感じてローレは独りごちる。呼びつけておいて明らかに最低の行いなのはわかっているが、それでもなにも無かった事にはできるから。
それとも、彼女の方が来ないでくれたりするのだろうか。面倒だとか気が乗らないとか、理由はどうでもいいけれど。
ローレの心はそんなことを考えるほど、今この時も揺れていて――
「こんばんは、ローレ。約束通りに来ましたよ」
寒風に紛れてしまいそうな程に澄んだ声を聞いた瞬間、最大の振幅で大きく跳ねた。それとは逆に、本能に近い部分が酷薄に冷え込み始める。
微かな風に巻き上げられる雪の粉に紛れるようにして現れた、小柄で華奢な灰色の影。薄く積もった雪の上に残った足跡が無ければ幽霊か妖精の類と見間違えてしまうかもしれない。
ユニア・アーフィオラがそこにいた。いつも通りの儚い微笑みを浮かべながら、ローレを見つめて立っている。
「来てくれたんだ。ありがと」
ローレはすぐさま心を切り替えて、いつものように明るい調子で笑いかける。学園で多くの生徒に慕われた笑みに陰の気配はまるでない。
「お待たせしましたか?」
「――ううん、全然。ごめんね、こんな時間に」
「全くです。しかしまあ、珍しく貴女からのお誘いがあったとなれば」
「うん、その……行く前にキミには話があって。ミリゼの前だと、言いにくくて」
やりとりはほんの数時間前の続きのよう。下校の途で並びながらの目を合わせない雑談のように、彼女が発する空気は柔らかく、緩く、そして遠い。
ユニアという少女は話す相手に緊張を与えない。よって今の緊張は、ローレ自身が自分に向けて生み出しているものだ。
「――、……」
言葉を続けようと口を開き――音にはならず、白い息だけを残して閉じる。消せない逡巡が煩わしくて堪らない。
それを言ってしまえば、何もかも取り返しがつかなくなるから。
沈黙の間にユニアが何も言わないのも腹が立つ。何かにつけて煽ってくるくせして、ああ本当に。にこにこと普段通りで、もう――
「ねえユニア。単刀直入に言うよ」
まどろっこしいと、ローレは一息に言葉を吐き出した。
「あたしと一緒に来て」
手を差し出して、真摯にそう呼びかける。
ローレもお互いの間に存在する情の存在は疑っていない。これから先何があろうと、三人の思い出は消えないと信じている。
しかしその上で、これは言わねばならない。
根拠なんて示せないが、一つの確信がローレの中にある。
この女をこのまま行かせるのは、絶対に駄目だと。
「あら、もしや駆け落ちのお誘いですか?女性同士というのは私の趣味ではありませんが、でも貴女が言うなら私は――」
「そういうのいらない。九年もずっと一緒にいたもの。キミの事も何となくわかってるから」
前置いてから、ローレは自分の秘密を打ち明けた。もしかしたら大概の部分は察しているかもしれないが、それでも自分から明かす事は大切だから。
「あたしは精霊、人じゃない。あたしが行くのは南大陸の九皇連合だよ」
「…………ふふ、やっぱり。なんだ、そうでしたか。であれば答えは一つです」
ユニアは表情を真剣なものに変えた。
しかし直後、その眼が静かに伏せられる。
「――無理です。行けません。私は聖騎士として大公閣下に仕えます。申し訳……ごめんなさい」
そう言ってユニアは深々と頭を下げる。その拒絶は心からのもの、それ以外の解釈を一切許さない。
ここに、決裂が決定的なものになった。相容れないわけではないが、方向性は完全に分たれている。
もしくは、出会った時からずっと平行線だったのか。
「――そっか……うん、わかってたよ。ごめんね、変なこと言って」
半ば予想していた結果だった。受け入れられたのは逆の立場に自分を置くことができたから。もしもユニアから誘われたとしても、ローレは悩みこそすれど結論は変えなかっただろう。
「ちなみに、いつからです?切っ掛けは?」
「キミの事に気付いた時?えっと……いつからだろ。結構前から……あたしが色々と教えてもらってた頃だと思う。はっきりした切っ掛けは特に無いけど、でも強いて言うなら――何となく?」
「何となく、ですか。そうですか。ふふふ――」
ユニアは口元に手を添え、それでも心底愉快で堪えきれないといったように笑い出した。
ローレはそんなユニアから目を逸らし、静かに肩を落とす。
だから、その予兆を見逃した。
「……何故でしょうね。私は貴女ならばと思っているのです。嘘ではありません。私が死んで貴女が生きれば、あるいは私が折れて貴女を支えれば、と」
「――ユニア?」
ローレが憂いと遺憾を噛み締めていると、不意にユニアが口を開いた。声に込められているのは今のローレの内心と同じものに加えて、なにか悲壮な決意じみたもの。
それに加えて、たったいま灯り始めた小さな何か。
不吉な違和感を感じて見つめ直したローレは、ユニアの碧瞳の中に鬼火のような歪な陰影が生まれているのを発見する。
「ですが、やっぱり貴女は駄目です。許してとは言いません。諦めてください」
「何を――ぐっ?!」
不意に霞むユニアの姿。
かと思えばローレの視点がぐるりと回り、次いで背中に衝撃が走る。気づいた時には、ローレは仰向けの状態で押し倒されていた。そして直後に感じるのは、喉への強烈な圧迫感。
ユニアがローレを組み伏せて跨り、両手をローレの首に添えていた。
その細指には、明らかに本気の力が込められている。
殺意と呼ばれる、忌むべき感情と共に。
「……何のつもり、ユニア」
軌道が塞がり息が詰まる中、ローレは低く問いかける。その赤い瞳に映るのは、熱に浮かされたようなユニアの笑み。
「何のつもりも何も、決裂しましたよね。ならばもうここで終わらせておくべきでは?都合よく誰も見ていませんし」
「冗談きついよ、今すぐ退いて。退いてくれたら、あたしは――」
「退けば、何ですか?私を見逃してくれるのですか?」
みしみしと、人から命を奪う音がする。込められていく力の大きさは骨を砕かんばかりのものであり、少女の細腕が発揮できる域を圧倒的に逸脱していた。元より学園では見た目に似合わず身体能力に優れていた少女だったが、これはその時とまるで比較になっていない。
人間ならば死んで然るべき獣の如き暴力に、しかしローレは抗わなかった。
こんな程度じゃ自分は死なないとわかっているから。ただ静かに、見定めるように真っすぐ向き合う。
ローレがまるで堪えていないと見るや、ユニアは笑みを深めてより強く指に力を込めた。
「――ええ、私も気付いたのは何となくです。自分の気に入らないものが側にいれば肌でわかるし、その存在を許容できない。嫌な想像が噛み合っていくのが恐ろしくて堪らない。なのでわかりますよ、貴女のその気持ち」
「……」
「ですので、これは仕方ありません。見ての通り私はあまり自制が効かないのです。どうか、どうかこのまま死んでください。何もしないで。無力なただの人として」
骨が軋む音がよく響く。普通の人ならとっくの昔に死んでいるような力が、今この時も緩まない。
彼女のものではない忌々しい声が、その手を通じてよく聞こえる。耳を塞ぐ気にもなれず、今すぐに黙らせたくなってくる。
「……うん、そうだね」
ローレの言葉が急速に熱を失い始める。抱く感情はより冷たく、鋭利な刃のごとく研ぎ澄まされていく。
そしてそれは、唐突に。
ぎろり、と――まるで凍てつく心と反比例するかのように、ローレの瞳に焔の如き赤い光が灯った。
「なら、もう容赦しない――もう、誰が相手でも絶対に迷わない」
「ぐっ」
瞬間、ローレは心に燻るあらゆる情を勢いよく捩じ伏せた。迷いを振り切る焔の意志は、全身の機構を暴力装置へと瞬く間に置き換える。
――生まれて初めての殺意とは思えないほどに、その純度は極まっていた。
二人の間に轟く爆音は、光を伴って広がった。ローレが仰臥の姿勢からユニアをはるか高空へ蹴り飛ばした余波である。
人であれば間違いなく致命の高度。しかしユニアは、空に舞う紙のようにふわりと優雅に着地した。
「っ、と、と……ふふ、ふふふ。この化け物め、です」
「こっちの台詞だよ、まったくキミは本当に……」
笑いながらわざとらしくふらつくユニアに、立ち上がったローレが首を振る。どちらも特段、一連の事象に驚きは無い。
矮躯とはいえ人間一人を建物を見下ろす高さまで打ち上げたローレも、その高度から苦も無く降り立ってみせたユニアも。どちらも、もはやヒトではない。
「キミを殺すよ、ユニア。後のことなんてもう知らない。キミだけは、ここで絶対に」
「ローレ、貴女だけは私の手で終わらせましょう。例え私が何も為せなくなるとしても」
そしてこれは、彼女たちの本領の片鱗ですらないのだ。
「最初からこうなるべきだったのに、どうしてでしょうね」
「決まってるよ。キミが何もしなかったから。何より、あの子がずっと見てたから。でも……それももう終わり。今が最初で最後、キミとあたしの二人きりだよ」
「ええ。彼女がもし気付くとしても、ここにやって来る前に。二人だけで」
ユニアが飛ばされ、大きく開いた両者の距離。それを詰めるための一歩を、二人の少女は合図も無しに同時に踏み出す。
「そう――何もかも手遅れになる前に、全てが始まるその前に」
「ここで最大の障害を廃しましょう」
お前のことが気に食わないから、どうかここで死んでくれ。
そんな響きを裏に宿した言葉と共に、両者は加減なしの力を発現させた。激突と共に二人の周囲の位相が歪んでいき、たった二人のための聖戦の舞台として隔絶されていく。
時計塔の針が、日付が今まさに変わった事を示す。春になったにも関わらず、静かな雪が降っている。そんな冬と春の境界線上にて殺し合いを開始したのは、今は何処にも完全に属してはおらず、何者でもないただ二人の少女たち――桁外れに強い素養を有するだけの精霊と、極めて特異な聖騎士の見習いにすぎない。
今は何も持っておらず、しかし二人が背負えるものはこの世に誰も並ぶものが無いほど大きくて。もはやそれは、世界の運命とさえ呼べるほどに重かった。
これよりは煌めく主演の舞台。ゆえ、名もない端役に用はない。
高まりゆく二人の力の衝突は、時空の概念を歪ませつつあった。二人を完全に俗世から切り離し、誰も関わることの許されない場所へ誘っていく。
この戦いを止められる者がいるならば、それは理外に住まう何かだろう。
例えばそれは、彼女のような。
二人が激突したその瞬間。時計塔から離れた区画にある、ぼろぼろの一軒家。
「――」
ベッドの上に寝転びながら事の推移を静観していた黒い少女が、意識と行動の焦点を二人に合わせた。
これはどうやっても消えないだろうというほどの剣呑極まる苛立ちと、少なからずの憐れみを秘めたまま。
「――駄目よ、それは」
彼女は、すらりと起き上がった。