第十七話 奈落の綺羅星
「はぁ、はぁ……!」
「……っ」
魔蟲の巨体が空間諸共に砕け散り、断末魔の残響すらもはや無い。何処とも知れない暗闇の中、ローレとユニアの疲労の息だけが暫し響いていた。
「……ひとまず、終わったか?」
「疲れる……三百年ぶりに全力出した」
少し置いて、アリオンとルニカがかなりの疲弊を顔に浮かべて歩み寄ってくる。傷も多いが命に別状は無さそうだ。
増殖する赤い結晶は、見回しても一欠片すら無い。
ただ暗闇と、それを支えるように林立する黒鋼の角柱だけが見える。
ローレはきょろきょろと警戒と疑念まじりに四方を見回しながらミリゼに問いかけた。
「ミリゼ、ここって――」
「いちばん深い場所よ。私から離れないで。私かそこらの棘を目印と思って視界に入れ続けなさい」
「深い……とは?」
「特異点の最深部、世界の外郭付近。もう薄皮一枚向こうには、一欠片の霊素も無い虚空が広がってる。〝鏡〟を張り続けて自我で自分を守りなさい。それなら即座には死なないだろうけど――それでも終証明以外が長く生きられる場所じゃない」
二人の疑問にミリゼが答える。
一帯は宇宙空間のように暗く、けれど星ひとつの光すらない。しかし互いの輪郭だけははっきりと見える。
だから当然、その姿もよく見えていた。
「あれが……あの子が……さっきまでの、鉄腕の夜魔?」
「そうね。その核よ」
ローレの呆然とした呟きを、ミリゼは淡々と肯定する。
全員の視線の先、それはうつ伏せに力なく倒れていた。荒んだ肌や髪を持った、幼い子供。
よく見れば息があるようで、痩せた体が微かに動いていた。
「あ……ぅ、う……」
「あの子、手が……足も」
くねくねと力無く踠くばかりのそれには、四肢が無かった。手も足も、先まで無い。夢の中ではあったはずの四肢を動かし、無い活力を絞り出して立ちあがろうとする幼子の様はただひたすらに哀れで虚無的だった。
「さて、終わりにしましょうか」
動揺する他の者たちを差し置き、ミリゼが一歩を踏み出す。
「とどめを……刺すのですか?」
「あれが何をやらかしたか覚えてないわけじゃないでしょ、ユニア」
「……ええ」
ユニアはやや気後れした様子ながらも、反論せず引き下がる。
理由も理屈もどうでも良い。鉄腕の夜魔は紛れもない災害であり、最悪の魔性。ゆえ、何としてもここで滅ぼさなければならない。
それにどちらにせよ虫の息だ。あの娘はここで死ぬ。
「――まあ。そうはならないだろうけど」
「――え?」
しかし仄暗い確信を抱きながら、ミリゼはぽつりと呟いた。あのまま無力に消えてくれるのが最良だが、それを許さない者がこの場に一人だけいるから。
ローレたちもミリゼの視線を追い、そしてそれを認識した。
「あれ……?」
ミリゼ以外の誰もが疑問を抱く。
あんなもの、さっきまで居なかったはずだ――と。
「だめ、やらせない」
何処から現れたのか、いつの間にか小さな人影がミリゼたちとルラフュナンの間に立ち塞がっている。
質素な黒いワンピースに身を包んだ、黒い髪と琥珀色の瞳の幼い少女。
「ねえミリゼ、あれって……」
「貴女……いえ、貴女のお母様……ですか?」
ローレとユニアは眼前のそれを一瞬だけミリゼと見間違い、しかしすぐに違うと思い直す。
〝絶滅の夜魔〟アルデギース――姿はかなり幼いが、恐らく彼女だと直感した。
「そう、私のお母様。〝鉄腕の夜魔〟はあの二人でひとつだったのよ。とはいえ、あれもお母様本人の心じゃない。転写された純粋な衝動だから、理性とかは無いわ」
それは、絶滅の夜魔アルデギースが妹に与えた愛情の擬人化だった。彼女が己の権能を使い、妹の心の間隙に秘密裏に捩じ込んでいたもの。ルラフュナンの心の奥へ寄生するように同化しその感情を燃やしていたそれがミリゼによって引き剥がされ、しかし尚もこうやって己の役割を果たそうとしている。
「こないで、近寄らないで」
「アーデ、姉……サマ……?」
「大丈夫だよルルン。お姉ちゃんが守ってあげるから」
守ってあげるというその言葉は、背後の妹よりも自分を奮い立たせるような響きを帯びていた。
しかし、誰がどう見たって頼りない。今こうして逃げずに立っている事の方が驚きなくらい表情に浮かんだ怯えが強い。
「ルラフュナンが〝夜〟を展開する精神力のほとんどはあれに依存してたの。それと同時に不安とか恐怖とか、そういう雑音の類を強引に消して誤魔化す役割も担ってる。おかげで自分に対して盲目だった訳だけど」
だからルラフュナンは〝結想鏡〟も使えていなかった。
迷いが消されているせいで、自分を見つめ返せない。
「何度だって――何度だって戦ってやる。怖いものがぜんぶ消えるまで、まだまだ、ぜったい、わたしは負けられない……!」
「……、――」
アルデギースの影が一歩前に進み出た。滲む決意に呼応して〝夜〟の残滓がにわかに熱を帯びて燻り始め、澄んだ硬い血の色に再び凝結していく。しかし、先刻のような暴力的なまでの侵食力は見る影も無い。
「この子はわたしの妹なんだもん。わたしが守ってあげなきゃいけないんだもん。がんばり屋さんで、でも小っちゃくて弱いから、わたしが――」
「あ――?!」
言葉は途中で止められた。同時、固まりかけていた〝夜〟が全て瞬時に砕け散る。
多くの者が動揺する中、ミリゼは一切動かない。ここで割り込むべきではないと知っているから、ただ静かに事態を見守っている。
「え……?か、はっ――」
「もう、いいです……消えてください、アーデ姉サマ」
立ち上がったルラフュナンが、姉の胸を後ろから貫いていた。
幼いアルデギースが血を吐き出し、胸から生えた腕を濡らす。血を浴びるまでもなく美しい真紅で染まったその腕を。
「これ以上は……余計なお世話なのですよ。ねえ、愚かで愛しい大姉サマ――守ってくれて、ありがとうです」
慈しみに満ちた声音と裏腹に貫く腕が強引に引き抜かれ、幼いアルデギースが血を撒き散らしながら崩れ落ちた。
胸の穴から溢れる血溜まりに伏す姉の傍らにルラフュナンは立ち、穏やかに語り掛ける。
「姉サマがアホなのは知ってるです。どうしようもない寂しがり屋なのも、そのくせ全っ然安心できない強がりしかしないのも承知なのです。
――だからこれ以上、そんなのに庇われるのは恥ずかしいのです」
それを聞いてアルデギースは、ゆっくりと顔を上げた。妹の姿を見つめながら、案じるように言葉を紡ぐ。
「……一人で、大丈夫?」
「大丈夫なのです、姉サマ。もう一人で立てる……立てるですよ。だから、先に行ってくるです」
「……うん。そっか」
安堵と共に微笑んだのを最後に、アルデギースは動かなくなった。
これまで自分の心臓の代わりをしていた姉の姿が黒い霧となって消えていく様を見ることなく、ルラフュナンは姉を貫いた自分の手を見下ろす。
先ほどのように不必要な程の体積は無い、子供の体相応の小さな義腕。無機質ゆえの鋭利さ、物々しさは残っているものの、凶悪な形ではなくなっている。
脚も同じく頼りないほどか細くて、鎧のような安定感は失せているだろう。けれども確かに立てている事実を確かめるように、ルラフュナンは万感を込めて口を開いた。
「アーデ姉サマ、他のみんなも――ありがとう、ごめんなさい」
涙を堪えるように震えながら俯く、赤い宝石の四肢持つ童女。――その中から、星の誕生を連想させる程の激しい何かを誰もが感じ取った。
「そして――」
「――っ、ミリゼ!」
「構えて!避けて!全力で!」
ぎろりと前を見たその眼に宿ったものを見て、場に満ちる危機感が一気に臨界に到達する。
「もうオマエに挑む理由を間違えたりなんてしないのです、ミリゼぇっ!!」
界を揺るがす魔女の轟哮――鉄腕の夜魔の内で爆発する感情が、闇の中に硬血の花園を一瞬にして形作った。再臨した血腫の氷河の増殖速度は明らかに増しており、超新星爆発の如き勢いで空間の空白を噛み砕くように塗り潰していく。
「ミリゼ!これ、どういうこと?!」
「何事ですか……明らかに、さっきより……!」
「おい、これは――!」
「どう見てもまずい、こんなのまるで――」
四人は反射的に動きながらも異常事態への動揺を隠せない。
しかし敵の変容をただ一人予想していたミリゼは、危機感などまるで見せずに冷静に現状を口にした。
「ええ、もう道を進む迷いも消えた。重石は全部切り離した。引き止める手もこいつ自身が振り払った。後は望み通りの場所まで叩き落としてやるだけよ」
夜魔たちにとって、長姉から植え付けられた慈愛の呪詛は鎧であり枷だ。敵を拒むと同時に自身の声も遮断する溺死の棺桶こそが、姉より授かった贈り物の正体。
長姉の愛は空への憧れを大地への憎しみにすり替えて、果てなき飛翔を妨げていた。
しかし己の真実を取り戻した今、あらゆる迷妄は燃え尽きている。
歩行に慣れてきたのか確かな足取りで真紅の大地を踏み分けて、ルラフュナンが前へと進む。自身の〝夜〟を噛み破りながら向かってくる硬質な凶の気配に、先刻までの敵意や周囲の変動の激しさとは相反する穏やかな調子で呼びかけた。
「ミリゼ」
元より夜魔の大姉がその存在へと願った役目は、自分たちの為の墓標だ。そんなものに慈悲なんて期待していない。
けれど最期に愚痴を聞かせるくらいは許されるだろうとルラフュナンは考える。
「やっと起きたわね。気分はどうかしら?」
その呼びかけに応え、運命の断頭台が現れる。中身がもはや丸ごと異界の法則に置き換わった黒鉄の獣姫が爪刃を振るい、ルラフュナンの拳と鬩ぎ合う。
「気分?最悪です、言わせないで。悪い夢を見てたみたいで……だからこそ、これからをもっと良くしたい。この願いに、ワタシの全部を賭けてみたいのです」
生じた力の激烈さに似つかわしくない静かな調子で、二人は言葉を交わした。
あるいは互いの生で初めて正面から向き合ったのかもしれない。片方は纏わりつく不都合に対して目を閉ざし続け、片方は触れたがらない者に触れないよう生きてきたから。
「星に、なりたいのです。奈落の底まで届く光に」
ミリゼの瞳を覗き込みながら、ルラフュナンは自身の願いを口にした。
「その願いが叶うとして、けれどそれは堕ちてるだけよ。いつか地の底に叩きつけられる。あなたの夢の果てを、あなたは決して見る事は無い」
「けれど、その間だけは飛べるのです。落ち続ける限り、この夢を抱き続けられるですから」
「それであなたは、納得するの?」
そう聞きながら、ミリゼは力強く腕を押し込んだ。膂力であれば先ほどまでルラフュナンが勝っていたはずだが、今は違う。
「っ……!」
ほとんど抵抗できた様子もなくルラフュナンが呻いて後ずさる。しかしそれでも負けてなるかと言わんばかりに、迫る黒い鋼爪を押し返そうと踏ん張った。
完全に趨勢が自身の側に傾いたのを認識しつつ、ミリゼは更に言葉を重ねる。
「もう一度だけ聞いてあげる。真実これが最後の岐路よ。
このまま続けたって痛くて辛くて苦しくて、その上それは報われない。〝それでも〟進む?」
問いに、ルラフュナンは即答する。
「痛い、辛い、苦しい、報われない――ああ、〝それでも〟です。例え本当のオマエが相手でも、諦めることはしないのです」
その瞳に宿ったものは紛れもない狂気であり、そして同時に希望だった。今のルラフュナンを駆動させるのは焦熱と轢殺の勇気に他ならず、故にそれを聞き届けたミリゼは結論づけると同時に宣告する。
「ああ、そう――なら、なれるわ。あなたには消えない熱がある。そして、あなたが立つのを許す地平はもう何処にもありはしない。だったらあなたは、もうとっくに空の星よ。
第一の終証明の加護は既に消えた。第二の終証明として、私はあなたを永遠に拒む。もはやあなたに安息の拠り所は無いと知りなさい」
「構わないです。それでもワタシは進むから。ワタシが望む限り、ワタシが愛し続ける限り、何処までだって、永遠に。
だから応えろ黒牙の奈落――見つめられれば見つめ返すのがオマエたち深淵の務めでしょう!!」
そうしてルラフュナンは、最後の一線を自ら切った。
自身の腕が半ば砕けるのも構わずミリゼとの鍔迫り合いを払い除けて距離を取り、その瞳により激烈な力を宿す。
そして心に浮かぶまま、その文言を口にした。
「 覚めることなき我が希望よ、輝きながら果てへと至れ。永久となれ鏡よ鏡――我が結末は今ここに 」
紡がれ始める魔の詠唱。何も無いはずの虚空を反転させて、血晶の悪夢が今一度の覚醒を果たす。
「 乾き、ささくれ、裂けゆく鼓動。開いた溝へと溢れた命が溜まりゆく。流れることなく、ただ硬く。光に焼かれて褪せ果てる 」
並ぶ言葉の一節一節、誦んじるその声に宿っているのは紛れもない信念の類であり、呪詛とは決定的に違っていた。姉の後押しはもはや無く、ゆえにこれは完全な独力。
「 紋は鉄錆、溺れて踠く地這い蟲。それでも脈を駆ける荊は、決して泉が枯れない証。凍てつく事なき荒廃の、その永遠なるが故 」
鉄腕の夜魔に生じている変化は、真実を思い出したかどうかだけ。夜魔特有の儚い魂は依然として変わっておらず、気を抜けば一欠片の依代すらないこの虚空に溶けかねない弱さは未だ健在。
「 欠けた皮は脱ぎ捨てて、砂辺に埋めてしまいましょう。不具の罅すら踏み締めて、脈打つ宣誓に違わぬように 」
しかし、今や恐怖は無い。だから嫌悪で覆い隠す必要もない。
足を止めていられない理由を既に思い出している。
ルラフュナンは烈しく決意を宿し、結合を司る凶悪な夢想を聖歌の如く歌い上げた。
「 照覧、黒夜開想・結想鏡――軋り這い接ぐ血塞縫腫! 」
瞬間、世界が不吉なまでの艶を纏って脈打った。周囲の結晶が生物的な活力すら帯びて、轟音と共に赤の世界を一気に十倍近い規模へと拡張する。
嫌が応にも終極を予感させる結想鏡の発動を受けて、ミリゼは吠えるように指示を出した。
「生き残ることだけ考えて!反撃にとどめて、深入りは絶対しちゃ駄目よ!」
「そんなこと言われても――うああっ?!」
事態の変遷に混乱しながらも感覚には澱みなく、ローレは足元から突き上がってくる結晶の兆候を察して回避する。そしてそのまま再度の攻勢を開始した。
他の者もそれに続く。その最中、アリオンとルニカはその知覚と経験を通して目の前の事象を観測し、そこに生じている異変に愕然とした。
「ねえ……あれって、まさか」
「ああ、霊素で動いていないな。全く別種の法則を励起させて動いている。まるで無から有を生んでいるようだ」
「世界の法則からの、脱却……ああ成程ね、ふざけるな。自分を形作るのが自分の心ひとつっきりになっただけじゃない」
「切断、隔てる、閉じる――確かにそうだな。ティディラ嬢、この有様は奴ではなく貴公の仕業か。まるで奴から我らの世界との縁が切れたかのようだ。もはやあれは何にも縛られていない」
二柱の推測はほぼ正解。今のルラフュナンはかつて自分を支えていた全てを削ぎ落とされていた。生命どころか魂すらも喪失している。
結果、残された選択肢である完全な自立を己が意志ひとつで成していた。僅かにでも心が揺らげばそのまま消えてしまうところを、消えてたまるかという凶念を滾らせ耐えている。
まるで何の燃料もなく闇の中に燃える炎、虚無でありながら無限を為さんとする異端の太陽だ。
「まだ……っ!!――まだ、まだあたしはやれる、まだ、もっと――!!」
「こんなもので……私が、折れると、思わないでください――!!」
押し返されつつある趨勢に、負けじとローレもユニアも吠えた。
限界知らずはこちらも同じ。もはや半日前まで戦いを知らぬ存在だったとは思えない域で沸騰する二人の精神が、狂乱の〝夜〟を真っ向から貫き穿つ。
光と闇に全身を擦り潰されながらも、しかし今のルラフュナンがその程度で止まるはずも無く。
「う、ぐぅうううっ!!……なん、のぉ、これしきぃッッッ!!」
そうしてまたも上がった気炎と共に、再生した結晶が幾万の槍衾と化して押し返してきた。
「させるものか、よ!」
「ユニア、どいて!」
アリオンとルニカが放った最大火力が迫る赤の顎門を真っ向から砕いて押し返せば――
「オオオオオァアアアアアアアアアッッッ!!!」
夜魔が発した雄叫びが世界を激震させ、雷火の光条と白の爆炎による弾幕を力づくでこじ開けた。
鋼鉄を粉砕する域の声量へ更に魔性の推力が加わった大喝破が真紅の山脈を敵の攻撃共々爆散させ、かと思えば意思の励起に呼応して更なる増殖を再開する。
「あはぁっ!凄い、凄いですオマエら!上姉サマたちの次くらいに憧れるです!!」
怒涛の攻勢を凌ぎながらルラフュナンは稚気と共に恍惚する。己が運命と出会った以上、もはや鉄腕の夜魔は止まらない。幼い童女の見果てぬ夢は、今や天をも穿ち駆け抜けんと滾る星と化している。
「――っ!ちょっとユニア、まだへばらないよねぇっ!?」
「誰が……今更にへばるものですか!!」
「おい白龍、まだやれるな!?」
「うるさい、もうやる以外の選択肢が無い……!!」
しかし、相対する彼女たちの意志の強さも夜魔の狂気に劣っていない。
疲弊と弱音は余さず噛み殺し、傷は致命でないなら問題ない。並みの者なら既に万回死んでいるだろう地獄の中で、褪せない眼光を戦意で染め上げ前進する。
「まだ立つですよねオマエら、知ってるです!」
爆ぜる戦意に応じるが如く、ルラフュナンは姿を大蠍のものに変えた。星の心臓として過不足なく再臨した真紅の魔蟲が、四本の鋏と太い尾をもたげて振り翳す。
「だけどワタシも負けられない、負けたくない、もう二度と絶望になんか逃げたくない!だから、さあ、さあ、さあっ!まだまだもっと、続けるのです!」
とにかくここで譲ってはならないという強迫の下、全員が戦意と殺意を限界以上に練り上げて――
「――いいえ、そこまでよ」
「――ギィイイイイガァァァアッッッ!!」
「ぐ、おぁっ!?」
夜魔の意思で埋め尽くされていた空間を食い破って現れた花弁のような鋼の顎門が、魔蟲の胴に猛然と食らいついた。敷き詰められた杭のような牙を押し付けられ、ルラフュナンの外皮が飴細工さながらに呆気なく破砕される。
「ユニア、あれ……!」
「あれは……確かミリゼの……きゃっ?!」
「ジギィイイイイイイイイッッッ!!」
次いで現れたのは三首の四足獣。鋭利な爪を備えた前脚でのしかかり、大蠍の鋏と胴を別々の頭で固定して引き千切った。
殺意と敵意を漲らせながら現れた二体の鋼犬。その体躯は、山のように巨大化したルラフュナンを二回りは超えている。
「ぎぃっ!!――こん、のぁっ!!」
唐突な横槍に、狂乱の突撃は止められた。
ルラフュナンは悲鳴を上げながらも片方に尾を叩きつけて押し戻し、もう片方を激しく身を揺すりつつ殴りつける事で跳ね除ける。二体は一瞬だけ退くものの、しかしすぐさま耳障りな咆哮を上げて結晶の侵食を振り払いながら喰らい付いた。
「っ、ミリゼはどこ?」
敵意の矛先が逸れたことにより少しだけ取り戻した余裕が、いつの間にか姿を消していた一人の存在を思い出させた。
全員が焦りと共にあちこちを見回し気配を探る。
やがて最も最初にそれを認めたユニアが、彼方に壁の如く佇むそれを畏怖と共に指差した。
「……いました、あれです。間違いない」
ローレもアリオンもルニカも追ってその輪郭を認識し、そして直感する。
変わり果てているが、あれは間違いなく彼女だと。
「――、――」
黒く鋭い爪牙を備えたその威容は、見るからに二匹の鋼犬の系譜とわかるもの。しかしこちらは更なる距離を隔ててなお圧倒的に大きい。本来の姿を取り戻した二匹の異獣――ナバルラム、トライコーンと呼ばれていた二匹の巨体と比べても数十倍か、数百倍はあるだろうか。
地を踏む四肢と、長い尾。姿形がまるきり変わり、仮にも愛らしかった少女の面影はその身を包む黒以外に完全に失せている。
それでも感じる気配の質は、これまで見てきた彼女とほぼ同じ。全くと言っていいほど変質していない。
ただ、その濃度が異常なほどに極まっているだけ。
「何だ、あれは……」
「……なに、あの化け物」
巨躯が発する威圧に当てられ、二人の幼馴染も、二柱の大精霊もその身を竦ませた。
この場の誰も有していない別種の色彩。意志の熱量とは無縁のままに有する存在としての質量が、新たな重力として場に満ちている。
そして今、獰猛な牙の並ぶ顎が開かれる。口腔の奥から、一人の少女の声が詠唱の形で紡がれた。
「 空を閉ざせよ我が縛鎖、夢に夜明けを齎すように。真理を照らせ鏡よ鏡、私が今、此処にいる 」
凛としたその声は、聞き馴染みのあるものだった。
これまでと違うのは、それが多大な負の感情に塗れていることだけ。
「 遍く理想は光に非ず、己を立たせる影である。陽は躍動を衆生に課して、立ち止まる者を追い立て喰らう。それを絆と信じればこそ、命は死を許すのだ 」
彼女が諳んじているのは自身に課した誓いにあらず。絶滅の夜魔の娘として名を得る前の自分を思い出し、その在り方を普遍の波長として出力するための合言葉。
「 ゆえ私はここに問う。夢は夜への階なれば、照らす未来は何処にある。それすら愚問と答えるのなら、鉄の牙持つ最後の友が縋るその手を離すだろう 」
それはミリゼ・ティディラとして終証明に貶められるよりも前、もっと大きなひとつであった頃の力の一端。
追放の執行者として猟犬の姿を取る前の、大きなひとつの中にあった廃絶を司る部分。
「 その末路が燦然と、死さえも拒んで在るのなら。奈落の丘の墓標の前に、私がその名を刻み込む 」
精霊や夜魔が属する世界が夢想で駆動する現実ならば、彼女らが属するのは夢想を夢想たらしめる現実。
夢は何処までも夢であれかし。影や形を持つことは許さない。それを絶対の法理と奉じる鋭角の地平が、いま――
「 照覧、深理創世・結想鏡――廃し狩り立てよ黒牙の郷主 」
その真実を、裁定が如く厳かに宣告した。
進み出てくる鋼の犬を、ローレとユニアは呆然と見つめる。
「――ミリゼ……だよね?」
「その、姿は――」
「そんな顔されると割と傷つくのだけれど、まあいいわ」
幼馴染たちの驚愕をからかうような声は、紛れもなくミリゼの声。姿に似合わない気安さすら纏った口調の中にはしかし、同時に見定めるような色があった。猟犬が牙を研いでいる姿を連想させる、凶悪で機械的な殺意の音。
そしてその視線に射抜かれている鉄腕の夜魔は、即座の敵意は返さずに無邪気な笑いを溢した。
「きゃはは――初めて見るはずなのに、懐かしいです」
「ええそうね。私がミリゼになる前は、ずっと側に居たんですもの」
「だから疎ましくて、怖かったのですよ、オマエの事が。そして、こうして挑むことに意味があるのです」
「好きにしなさい。もう、あなたには支えが無いから。
だって、そう願ったのでしょう?自分一人で立ちたいと、自分の不具を夢の手足で補って。なら、もう出来てるじゃない」
「……なんだ、意外と話わかってくれるんですね、オマエ」
これ以上何も話すことは無いとばかりにミリゼは一歩、前に踏み出す。黒い巨影がただ歩いただけで、その衝撃が薄氷を走る亀裂のように伝播して――
もはやこれは支えきれないと、残っていた最後の壁が崩壊した。
「お、わぁっ!!?」
まさしく堰を切ったように、ルラフュナンを支えていた結晶の大地が崩落する。がらがらと瀑布を滑るように落ちていく破片は、果たしてどんな定義の引力に引きずられているのだろうか。
「きゃ、ああっ!!」
「ぐぉっ――!」
突如として生じた孔にルラフュナンの〝夜〟が砕けて丸ごと吸い込まれていく中、ローレたちも撹拌されながら落ちていく――寸前に、大きな何かに掬い上げられた。
「……ミリゼ」
「いい?!絶対に離さないで!ここに落ちたら二度と戻って来れないわよ!」
「――っ、う、うんっ!」
魔犬が放った紛うこと無き人間性の呼びかけに、全員が即応してその身体にしがみつき――否応なく激痛の渦に落とされる。
「ぐぅ、ぎぃ……!!」
「づ、ぅ……!!」
触れているだけでどういう訳か凄まじい痛みが全身を巡る。まるでいつの間にか増えていた見えない手足や翼を丹念に切除されているかのよう。
べきべきと音を立て、広がっていた自分が砕け散る。これまで壊し続けた枷が凍てつくように嵌め直される。身体に満ちていた熱が急速に奪われ、今や不自由に感じるかつての平静へと引き戻されようとしている。
同じ苦痛をミリゼとその眷属を除いた全員が味わっているものの――一人だけ、それに正面から抵抗する者がいた。
「まだ……まだぁ……っ!!」
前進し、佇むミリゼを複眼で睨み続けるルラフュナン。崩れゆく鉱床に脚を食い込ませ、あらゆる縛鎖を精神力で跳ね除けながら増し続ける引力の魔手に耐えている。
「昔のオマエは形のない死神でも……今のオマエは、一匹の犬なのです……!オマエが、死ねば……あの世界から全ての隔てが消える。姉サマたちを、迎えに行ける……!!殺してやるです境鋭界、いまワタシが……ぐうっ!!」
足場の崩落も構わずに踏み込んできた二匹の鋼犬に、ルラフュナンは左右から脚を胴体ごと噛み千切られた。二対の鋏を含めた十二肢のうち九つを失い、一気に夜魔の体が崩れ落ちる。
飢えているように強まる重力、それにより次々と剥がれて落ちていく血の甲殻。その中で最後に残った人型が歯を食い縛りながらもどこか清々しく笑っているのを認めて、ミリゼは度し難いとばかりに嘆息した。
「もう欲張る必要も無いでしょう。あなた個人は既に目的を達したのだから。
それでもと言うなら待ってなさい。じきに姉妹全員、同じところに送ってあげる」
「ぐ……きひ、はは――ああ……なら、期待せずに待ってるです。どうせ姉サマたちも妹たちも、最後の最後までぐずるに決まってるのです。だから、絶対どっかでオマエは負けるのです」
自分が負けた事は認めるが、しかし他の姉妹の事は等しく信じている。いつか誰かが必ずお前に打ち勝つのだと、幼い無垢な宣誓が発された。
しかし次の瞬間、ルラフュナンは何かの引っ掛かりを思い出したかのような表情になる。これまで良くも悪くも感情の幅が激しかった彼女には似合わない、どこか胡乱で煮え切らない顔だ。
「む……けど――オマエ、向こうに戻ってまだ人を気取る気ですか?
だったらひとつ、言いたいことがあるです」
「――言ってみなさい」
嫌悪混じりに促され、ルラフュナンはにこりと笑った。
年端に見合わず妖しさを纏った、本人すら気付かない何かを悟ったような透明な笑みで――呪いを唱える魔女のように。
「――オマエは、なにも補って貰えない。
……また会いましょうです、ミリゼ」
「……嫌よ。誰が」
そう言ってミリゼは、目の前のそれを地盤諸共に踏み潰す。
断末魔の悲鳴すら無く、穏やかさすら感じる笑顔のままに。鉄腕の夜魔と呼ばれた魔性は、この世から永遠に消え去った。