第1部 第8話
「月島、もう8時回ってるぞ。まだ帰らないのか?」
「あ、先生、ちょうどよかった。この問題教えてもらえませんか?」
いつも通り8時過ぎに俺が教室の戸締りに来ると、
いつも通り月島が一人で残って勉強していた。
今日は、篠原先生からの電撃告白のお陰で、
軽く1週間分は疲れた。
教師はともかく、生徒からの好奇心と非難の目が痛いこと、痛いこと。
俺は何もしてないぞ・・・
そこを行くと、この月島は相変わらずそんな下世話な話題には無関心なようで、
いつもと変わらない態度で俺に接してくれる。
月島・・・お前、いい奴だな。
「これ、今日の授業でやった問題だろ?なんでその場で質問しないんだよ。
月島がわからないってことは、全員わかってないってことだろ。みんなのためにも質問してくれ」
説明を終えて、俺はため息をついた。
こりゃ、明日、授業でもう1回説明した方がよさそうだな。
「でも、先生、今日はなんだかボンヤリして元気なかったから・・・
あんまり質問とかしない方がいいかな、と思ったんです」
「・・・」
生徒にそんな気を使わせてたのか、俺。
ああ、ますます凹む・・・。
「もしかして、先生。森田先生と自分を比べて落ち込んでます?」
「・・・なんでわかるんだよ」
「だって、先生の授業の時と森田先生の授業の時とで、5組のみんなの態度が全然違うから」
「・・・」
「この違いに先生が気づいたら、落ち込むだろうな、って前から思ってたんです。
でも、気づくの意外と遅かったですね」
「・・・」
「あ。余計に落ち込みました?」
「傷つきました」
「・・・ごめんなさい」
そうなのか。
そんなに俺と森田先生に対する態度が違うのか。
「いや。俺が悪いんだ。俺と森田先生ってどう違うんだろうな。
もちろん森田先生の方が遥かにキャリアはあるわけだけど」
俺がそう言うと、月島が少し笑った。
笑った、というより、口の端を少し上げただけだけど。
それでも、俺は月島が笑ったのを初めて見た。
もちろん月島も仲のいい友達がいて(西田という女子だ)、
そいつの前では笑ったりもするが、
こうして教師に笑いかけてるのを見たことがない。
少なくとも、俺に笑ってくれたことは一度もなかった。
「先生は一生かかっても森田先生みたいにはなれないと思いますよ」
「・・・なんでだよ」
「だって、先生は森田先生じゃないから」
「・・・」
「違う人間なのに同じような教師にはなれないんじゃないですか?」
言われてみれば確かにそうだ。
でも・・・
「少なくとも生徒に舐められない教師にならないとな」
「みんな、先生のこと舐めたりしてませんよ?」
「そうかぁ?」
「先生は『生徒みたいな教師』だから、みんななついてるだけです。
それが先生のいいとこじゃないですか」
「そうかもしれないけど・・・じゃあ、どうしたらいいんだよ?」
って、俺、何こんなこと生徒に聞いてるんだ。
月島だって、教師にこんなこと言われても困るだろ。
でも月島はまた少し笑って言った。
「先生は『生徒みたいな教師』だけど正真正銘教師ですよね?
でも、先生自身が、自分は教師だってことを忘れてる時があるように思います」
「・・・」
「あ、」
月島が掛け時計を見上げた。
「もうそろそろ、帰らないと。お母さんが心配するから」
「あ、ああ」
「それじゃ、先生、さようなら」
「さよなら」
月島の後姿を見送りながら、俺はぼんやり考えた。
俺が、自分が教師であることを忘れてる?
そんなこと、ないぞ。
俺は教師だ。先生だ。
授業だって、ちゃんと教えてるじゃないか。
授業内容の評判だって悪くない。
だけど・・・
だけど、生徒である月島から見て、
俺自身が教師であることを忘れているように思えるってことは、
やっぱりそうなんだろう。
なんでだ?
どこが悪いんだ?
ちゃんと授業して、質問にも答えて・・・
ちゃんと「先生」してないか、俺?
「先生」か・・・
その時、ふと大学時代やっていた家庭教師のアルバイトを思い出した。
中学生の男の子を教えていたが、そいつも俺のことを「先生」と呼んでいた。
アルバイトの「先生」と、学校の「先生」。
そりゃ、この二つの「先生」は違うだろう。
俺はちゃんと「学校の先生」をしてるだろうか?
思えば、生徒を怒ったこととかない気がする。
でも「俺は教師です」って威張った高圧的な教師になりたいとは思わない。
俺がなりたい「学校の先生」ってどんなのだろう?
俺らしい「学校の先生」ってどんなのだろう?
どうやったらそうなれるんだろう・・・?
一晩考えてみた。
そしたら「こうしよう!」という答えが見つかった!
はずがない。
そんなに簡単に答えが見つかるなら、教師はみんな自分の理想の教師になれてるはずだ。
どうしたらいいかは、やっぱりわからない。
でも、せめて、月島が言う通り、
「自分は教師だ」ってことを常に忘れないようにすることにした。
だからって何かが急に変わる訳じゃないけど・・・。
もしかしたらプライドの問題なのかもしれない。
「自分は教師だ」ってプライド。
それは使い方を間違えれば、ただの横暴になってしまうけど、
上手く使えれば教師として生徒といい関係が築けるかもしれない。
あくまで、上手く使えれば、だけど。
まだ俺にはちょっと無理かな。
でもプライドを持つことくらいはできる。
「オジサン、一抜けた」
「マジで?早!まだ30分もやってねーぞ、バスケ」
「暑い!シャワー浴びれないから、汗だくで授業しなきゃいけなくなるだろ?
イヤだろ、そんな教師に教えられるの」
「既に汗だくだぞ」
「うるさい。篠原先生に嫌われたくないし」
「うわー。なんだよ、付き合わないって言ってたくせに」
遠藤たちの非難もなんのその。
俺はロッカーで着替えて涼しい職員室に逃げ込んだ。
昼休みも後15分。
午後の授業の準備は出来てるから
今まで通りギリギリまでバスケしててもいいんだけど。
ちょっとは昼に職員室にいる時間も増やそう。
他の先生達とのコミュニケーションにもなるし、
生徒とバスケする以外の新しい発見もあるかもしれない。
よく考えれば、教師が職員室にいる時間は少ない。
そりゃ放課後とかはいくらでもいるけど、その時間に生徒はいない。
職員室は教室とはまた違う空気がある。
教室では言いたいことを言えない生徒も、
職員室だと言いやすかったり、
その逆もある。
だから職員室にもいる時間を作ろう。
そう心がけて早3日。
なんてことはない。
特に変化もなし。
相変わらず5組の連中はダラケまくりだし。
その時。
「すみません。早川先生いませんか?」
顔を上げると一人の男子生徒が数学の教科書を手に立っていた。
早川先生というのは、3年の数学の教師だ。
生徒の校章を見ると赤色。つまり3年生だ。
早川先生に質問でもしにきたのだろう。
「早川先生はまだ学食から戻ってないよ」
「そうですか・・・どうしようかな。あ、本城先生って数学ですよね?」
「そうだけど」
「教えてもらっていいですか?」
「え?俺でいいのか?」
俺がそう言うと、その生徒はきょとんとした顔をした。
「だって・・・数学の先生ですよね?」
「そうだけど・・・うん、わかった、どの問題だ?」
「あ、俺・・・僕、杉崎と言います。河野先生の3年4組の生徒です」
そう言って、杉崎と言う生徒は俺に軽く会釈し、
胸につけている名札を指差した。
確かにそこには、「3-4 杉崎」と書かれていた。
俺はちょっと感心した。
俺もそうだったが、生徒というのは、
先生はみんな自分のことを知っていると勘違いしやすい。
もちろんそんなことはないと分かっているとは思うけど、
思わず名乗らずに教師に話しかけることも多い。
名札をつけてるのだから、教師も名札を見れば事足りるが、
やっぱりジロジロと名札を見るのははばかられる。
だって、いかにも「俺、君のこと知りません」って言ってるみたいじゃないか。
だから、こうやって、自分のクラスと名前を自己申告してくれる生徒はありがたい。
しかも担任の名前まで言ってくれると、なおありがたい。
これで、例えば河野先生と「今日、杉崎って生徒が質問にきました」とか、
話題が広がるじゃないか。
俺は杉崎の顔を見た。
真面目そうで優しげな顔をしている。
「杉崎、お前将来いい男になるぞ。俺が保証してやる」
「はい?」
「あ、でも『あんたの保証なんてアテにならない』って坂本先生の声が聞こえてきそうだな」
「え?あはは。どうして坂本先生なんですか?」
「坂本先生、俺のこと蛇蝎のごとく嫌ってるから」
「そうなんですか?」
杉崎は笑いながら教科書を開いた。
「これなんですけど・・・」
と少し照れくさそうだ。
なるほど、3年のこの時期にする質問としてはレベルが低い。
基本的な積分。
月島なら簡単に解けそうな問題だ。
でも、杉崎は「この問題はレベルが低い」と自覚してるようなので、
大丈夫だろう。
実際、俺が解き方の糸口を説明すると、
杉崎はすぐに全てを理解したようだ。
「そっか!分かりました。僕、数学苦手で・・・」
「苦手な科目でこのレベルなら他の教科は問題なさそうだな」
「でも、希望大学はギリギリのラインです」
「どこ受けるんだ?」
「Y大の経済です」
「国立かぁ、頑張れよ」
「はい」
杉崎はニコッと笑った。
おお、癒し系だな、お前。
「ありがとうございました。わかりやすかったです。また質問にきていいですか?」
「・・・ああ、いつでも来ていいよ。夏休みも毎日来てると思うから」
杉崎はもう一度お礼を言うと、職員室から出て行った。
こっちこそ、ありがとう。
なんだか本当に癒された。