珈琲と鉱物
ぽつり、ぽつり、と足下に黒い点が落ちてくる。腕にもまた、ぽつり、ぽつり。
その雫の正体に気付いたときにはもう遅い。
寸前まで灼熱に白光していたアスファルトは、瞬く間に驟雨に黒く染まってしまった。
近頃の都会の天気は気まぐれに過ぎる。雨を降らす気などなさそうな朝だったから、折り畳みの傘も家に置いてきてしまった。
これ以上濡れまいと、私は慌てて近くの軒下へ駆け込んだ。煤けた赤煉瓦の壁に手をついて、背後を伺う。
雨足は勢いを増すばかり。しばらく止みそうにない。
外回りを終えて、今日はもう帰るだけだというのに。
溜息と共に視線を巡らせれば、軒先の奥、硝子の嵌まった扉の奥が明るい。慌てて駆け込んだので気が付かなかったが、雨垂れの下に置かれ放しで今はずぶ濡れの看板に『珈琲』の文字が見える。喫茶店だろうか。ならば雨宿りするには丁度良い。私は濡れた半身を手持ちのタオルで軽く拭って、重たい木製の扉を押し開けた。
焙煎された珈琲の薫りに出迎えられた店内は、照度の低いせいか、仄かに聴こえてくるクラシック音楽のお蔭か、荒れた心を妙に落ち着かせてくれる。客の入りは多くない。しかし寂れた雰囲気はない。一人客が多く、年齢もばらばらであるが、皆一様にこの店の空気に馴染んでいた。
すぐにウエイターがやってきて、いらっしゃいませと声をかけてくる。一人であることを告げると、窓際の空いている席に通された。おすすめは、と訊くと、当店のオリジナルブレンドがございます、と言うので、じゃあそれで、と注文を終える。こういった店に慣れないので、メニューをあれこれ見て悩むよりは店員の薦めに従う方が手っ取り早い。どうせ雨が上がるまでしかいないのだ。せいぜい数十分の一杯に拘る必要もない。
よく冷えたグラスの水を一口含んでしまえば、すぐに手持ち無沙汰になってしまう。私のような人間はこういう空間での過ごし方について無知だ。文化人や洒落者を気取ることには興味がない。食うものにも着るものにも拘りはなく、不快を感じなければ何でも良いという程度の物差ししかない。一杯百円の珈琲でも満足できる自分の存在は、この空間の中では異質に思える。文庫本の一冊でも持っていれば馴染めたのかもしれない。
目的を失った視線は窓へ向く。
硝子に打ち付ける雨滴。あんなに激しい降りようなのに、驚くほど音がしない。よほど遮音性の高い造りなのか。一切の雑音に邪魔されず、店内は円やかな音色のクラシックのみが満ちている。
天井から吊り下がる電灯も洒落こんでいて、テーブル席の上では色とりどりのステンドグラスの傘を纏い、カウンター席の上では縁が緩やかに波を描いた花弁型の硝子の傘を纏っている。効率を重んじて無駄なものを削ってきた今の時代にはあまり見かけない繊細な意匠。調度品は真新しさが全くなく、外壁の煉瓦同様に煤けたような、燻んだような色をしている。革張りのソファは刻んだ時の分だけ艶やかで、テーブルに付いた細かい傷ですら味になる。
レトロを絵に描いたような店だ。
まるで現代から隔絶されたかのように、別時代の時が流れている。客の方も各々その時間を楽しんでいる様子だ。彼らはきっとそのためにここへ来るのだろう。世間の喧騒から逃れて、自分だけの時間の流れの中に身を置くために。
普段あまりこういう所に足を踏み入れない私でも、この独特な空気感を好む人の気も少しは解る気がする。一時代飛び越えたような、その時代の人間になれたような、そんな気にさせてくれる——のだろうと思う。
この空間に価値があることは認めよう。しかし、その価値は私にとってはやはり他人事だ。私個人としては、この中に没入しようとも耽溺もしようとも思えない。情緒がないだの、センスがないだのと謗られるかもしれないが、それが偽らざる私の本音である。そういう人間だって、いる。
そういうわけで私はこの店の客としては異分子なのだが、ここは各々の時間を楽しむ場所である。誰も私が冷めた態度で珈琲を待っていることなど気に留めやしない。
「お待たせ致しました。ブレンド珈琲でございます」
ウエイターの声にテーブルへ意識を戻すと、上等な外国の陶器とおぼしき青い染付けのカップのセットが置かれた。併せてもう一皿給仕される。
「珈琲をご注文の方にお付けしています、サービスのお茶菓子です」
成る程、と改めて小皿の菓子を見て、私は眉を顰めた。爽やかな水色に、神秘的な翠色。硬質な物体の中に涼しげな色が溶け合っている。これは、本当に菓子なのか?
「琥珀糖でございます」
私の疑問を見透かしたように、ウエイターが補足する。
琥珀糖。聞き慣れぬ名に相槌すら打てない。
「鉱物を模した見た目ですが、食べられますのでご安心下さいませ」
はあ、と納得できたようなできないような曖昧な返事をした。
私の戸惑いを気にも留めず、ウエイターは伝票を置いて持ち場に下がってしまった。
どう見ても食べ物に見えない欠片を拾い上げる。思ったより軽い。手触りは見た目どおり硬く、表面は結晶化してざらりとしている。
半信半疑のまま、恐る恐る口許へ運んでみる。前歯でそっと挟み、齧る。
しゃり。
案外容易く切れた。僅かな弾力が歯先に返る。断面はまだ瑞々しい。舌には仄かな甘味。鼻腔には微かな柑橘の香り。食べ慣れない不可思議な味わい。
齧りかけの欠片はやはり食べ物には見えない。磨かれる前の原石。しかし舐めれば甘い。脳が混乱する。混乱を落ち着けようと珈琲に口を付けた。
旨い。店の雰囲気に違わぬ深い苦味。その後を酸味が追いかけてくる。
珈琲の味が残る口内に琥珀糖を放り込んだ。
しゃり。しゃく、しゃく。
甘味がじんわりと苦味の上に溶けていく。
バランスの良い、よく考えられた組み合わせだ。
揺蕩うように混ざり合った色彩を眺めながら、何粒か放り込んで噛み砕く。
何度か咀嚼するうちに、やっとこれが食べ物だという認識が追いついてくる。
何でできているのか想像もつかないが、食べられるならそれで良い。出されたものは完食する質なので、ありがたく戴こう。次の一粒を齧ろうと口を開ける。
——がり。
自分の口からではない。
どこかから凡そ飲食に伴う音とは思えない音がして、私は動きを止めた。
ぱき。ざり、じゃり。
耳馴染みのある一定のリズムを刻んではいるが、響きは決して知らないものだ。その正体を探して、辺りを見渡す。
角の立った生クリームの乗った揺れの少ない固めのプリンをつつく若い女性。大きな陶器のポットを供に心行くまま紅茶と会話を嗜む老夫婦。片手で器用に文庫本を捲りながらカレーライスを掻き込む大学生風の男。私と同じく一杯の珈琲と琥珀糖をつまむ紳士。
ぐるりと周回したところで瞬きをした。
戻ってきた視界に新たな混乱が始まる。
私の向かいのテーブル席。壮年の紳士がいたはずの席に、別人が座っている。若い男、に見える。長めの前髪と色白の肌、厚みのない身体つき。男性性は薄いが、かといって女にも見えない。
細い指先で偽物の鉱物を取り上げ、口に含む。白い歯に鋏まれる一粒。
がり。
探していた音がした。
ぱき。
割れた欠片が血色の良い唇の間に消えていく。
ざり。
硬質な物体が砕かれる音。
じゃり、じゃり。
咀嚼音。
私が食べたのとは違う。彼の食べているのは——本物だ。
茫然としたまま彼から目を離せずにいると、やがて私に気付いたのか、彼が目線を上げた。長い前髪を梳いて現れた鳶色の瞳に捕えられる。形の良い唇が綺麗に弧を描く。その仕草はやけに婀娜めいていた。尾骶骨から背筋を逆さに撫でられるような感覚が駆ける。
見てはいけないものを見てしまった。
そう直感したが、既に手後れだった。
目を離したくても離せない。彼もまた私から目を逸らしてくれない。
鳶色の瞳が愉悦のために妖しく光る。獲物を狙う山猫のように。
私と視線を外さずに、彼はもう一粒を手に取った。
よく見れば、彼が食べていたそれは、私のものとはまるで違う色をしている。血の凝ったような赤。爽やかで清らかな夏の色とは正反対の色だ。それをゆっくりと口許へ運ぶと、綺麗な舌が覗く。舐めるように舌先に乗せるのを見せつけてから、深紅の欠片は口内にころりと仕舞われた。またあの音がしないかと待ちわびる私を、彼は不敵な笑みで揶揄う。簡単には聞かせないよ、とでもいうつもりなのか。目を離せない私は妖しい微笑みに焦らされる一方だ。
珈琲が冷めるのも忘れ、食い入るように魅入る私を嘲るように、彼はにたりと笑い、噛んだ。
がり。ぱき。ざり。
じゃり、じゃり。
噛むごとに、切れ長の目尻が徐々に垂れていく。恍惚にも似た表情。とても美味そうだ。
彼が食べる姿を見ていると、身体の奥が熱を帯びてくる。何か、今まで自分が抱いたことのない得体の知れない欲望が臓の奥から競り上がってきそうになる。それは決してこの身から出してはいけないものだと理性が警鐘を鳴らす。しかし身の内で抑えつけるだけではどうにもならない。
彼に捕われたまま何もできず、雨滴で湿っていた身体に熱が籠ってきた頃だった。
「探しましたよ、閣下」
彼はやあ、と手を挙げた。
息を切らした様子で、上背のある男が彼のテーブルへ歩み寄る。
「外出なさるときは一報下さいと申し上げたでしょう。貴方の家の方が血相変えて私に連絡してきましたよ」
横顔しか窺えないが、彼に話しかけてきた相手は一眼で判るほどの男前だった。手足が長く均整の取れた身体つきと、日本人離れした精悍な顔立ちは、モデルと言われても疑う余地がないほど完璧だ。
「気儘に外を歩き回れるというのが、この身を得た醍醐味ではないか」
鷹揚に両手を拡げる彼に男は苦々しげに眉根を寄せた。
「あの人の身体で勝手をされては困ります」
「全く、君は相変わらず彼の虜か。妬けるね」
「私の心の内は、貴方には何百年かかっても理解できませんよ」
「理解できないと言われると、理解したくなる性分でね」
反吐が出ます、と言って男は盛大な溜息をつき、スマートに革張りのソファに長躯を滑り込ませた。
「私に付き纏うのであれば、少しは我慢を覚えて下さい」
彼は何のことか解らないという顔で惚ける。
男は苛立った様子でテーブルの上の赤い結晶を指差した。
「それですよ。いい加減に人目のある場所で食べるのは止して下さい」
「この店に来るのは自分の時間を大切にしたい者ばかりだ。他の客が何を食っていようと構わない連中だよ。まあごく稀に、例外があるかもしれないが」
そう言いながら、ちらと彼が私を一瞥した気がした。
「お止めにならないなら、納品を控えさせていただきますよ」
「そんなこと、君にはできないだろう?」
彼は嫣然とした笑みを浮かべ、自身の胸に手を当てた。
「この身体を保存し得る唯一の方法を知らぬ君ではあるまい?」
「人質、ですか」
「そんな優しいものじゃないよ。だってこれは私の身体だもの。どう扱おうが私の自由だ。いつだって壊せるし、捨てられる。人質とは交渉の材料であり、交渉とは立場の上下が定まらぬ者同士の間で行われるものだ。故に、私と君との間に交渉は成立しない。私は私の気まぐれで、君との戯れに興じているだけ。対して君は本気で彼に会いたいと願っている。分はいつだって私の方にある。彼のことを諦めない限り、君は私に従うしかないのだよ」
饒舌な論理に絡め取られて、男の方は溜息を吐くしかない。
「貴方はそういう方だ。酷薄で、冷徹で、ご自身が世界の頂点だと思っている。あの人とはまるで違う」
男の声には、その端正な容姿からは想像がつかないくらいに濃い憎悪が込められていた。
何が愉しいのか、彼はくつくつと笑いを洩らす。
「人間の同一性とはどこで決まるのかな。肉体か、魂か」
「そのいずれもでしょう」
彼は片眉を上げて興味を示した。
「相応しい肉体に相応しい魂が宿るからこそ、その人なのです」
「では、私は誰なのだ?」
「さあ。貴方の魂を知る人はK伯爵と呼ぶでしょう。貴方の肉体に見覚えのある人はTさんと呼ぶでしょう。しかしもはや今の貴方は、そのどちらとも言えない。僕からすれば、化生の類いです」
彼の鳶色の瞳が拡張する。
「面白い」
言うや否や、彼は皿の上に残っていた赤い欠片を一掴みにして、全て口へ放り込んでしまった。
噛み砕く音が小気味良く響く。
がり。ぱき。ざり。じゃり、じゃり。
細かく擦り潰され、粒子になる。小振りな喉仏が生白い首筋で上下する。
嚥下のときの喉の感触はどんなものだろう。痛くはないのか。心地いいのか。
小さく満足の吐息を漏らす半開きの口から、赤い舌が覗いて食後の唇を舐め清めた。薄い唇は却って艶かしく光を纏う。
仕上げにカップを取り上げ珈琲を啜る。寸前まで硬い物質を噛み砕いていたとは思えぬ優雅な動作だった。
「雨は上がったかね?」
「まだですが、小降りになりましたよ。上がったらきっと蒸すでしょうね」
「それは嫌だな」
「なら、早めにお帰り下さい」
「送ってくれるのだろうね?」
「またどこかへ逃げられると厄介ですから」
「逃げないよ。君から逃げるつもりは私にはない。彼とは違ってね」
そのとき彼が見せた微笑みに、妖しさは一切感じられなかった。慈愛に満ちた聖母ように、浄らかだった。
「さて、帰ろう」
彼は快活に立ち上がり、出入口へ向かう。
男の方は溜息を吐きながら会計を済ませ、二人連れ立って店を出て行った。
私は一体、何を見たのだろう。
見てはならなかったような、聞いてはいけなかったような。
その光景に何らかの合理的な解釈をしようと試みるが、意味の通る説明は浮かばない。
脳内の混乱に始末をつけることができないまま、珈琲が冷めていく。
窓の外は既に明るい。窓の雫も乾き始めた。
この店を出たら、私はまたつまらぬ人間の顔をして、拘りのない生活に戻ることができるのだろうか。
皿に残った偽物の鉱物を齧る。
甘い。しかし旨味はない。何の変哲もない砂糖の甘味。
本物を見てしまったせいだ。綺麗な夏の色彩を閉じ込めた塊が、ひどく味気ないものに感じた。
『T氏、或いはK伯爵の百年の眠り』の後のお話でした。
全く続ける気はなかったのですが、「鉱物食」という設定を折角なので色々と膨らまして想像していたらそれなりに面白そうなお話ができてきました。こちらはそのお話の一部です。
いずれ長いお話でもお見せできると良いなあと思っています。