向かい側
二両編成の列車がゆっくりと、目の前を横切って行く。
肩にかけたスポーツバッグがずれ、どんっと地面に落ちた。
バッグにぶら下げた定期券は、抵抗もせず下敷きになる。
電車から降りた数人は、膝に手を当て疲労感とやっちまった感で項垂れる少年を横目に、ホームから去っていく。
「お兄ちゃん、残念だったねぇ」
駅員のおばちゃんは回収した切符を抱えて苦笑いだ。
「二日連続ですよ。あーあ、また一時間待つのか…」
駅に着くまでは自転車で風切っていたが、今はコンクリートからの熱気が少年を包む。
坊主頭から汗が吹き出してきた。
夕方六時過ぎ。
近くの電柱にはちらほらと薮蚊が群がっている。
少年は重いバッグを持ち上げ、駅舎の中へ入った。
待合室には誰もいない。
壁には扇風機が取り付けてあって、そこからぶら下がった紐を引き、スイッチを入れる。
首をゆっくりと回す扇風機を追いかけながら襟元をばたつかせた。
息が落ち着いて、バッグから液体の清涼剤を取り出す。首に塗ると、汗と柑橘系の匂いが混ざり、氷を当てたようなひんやり感が急に来て少し鳥肌が立った。
駅舎の窓からホースを引っ張るおばちゃんが見えた。
雑草のような花が植えられた鉢や、コンクリートのホームに水を撒いていく。
おばちゃんがこっちを見て、
「お兄ちゃん、頭にかけてあげようか?」
と声をかけてきた。
「いいんすか?!」
少年は少し湿ったタオルをバッグから引っ張り出して、おばちゃんの近くへ駆け寄った。
短い髪に弾かれた水は、枝分かれしていく。それをごしごしと頭全体へ馴染ませると、熱が奪われていった。
おばちゃんに背を向け、子犬のように頭をブルブルと降ってからタオルを被る。
「あー生き返った!有難うございます!」
少年は元気な笑顔と声でおばちゃんに感謝を述べた。
「おばちゃんはもう退勤するけど、帰り道には気を付けなね。」
ホースを片付け、切符売り場の窓を閉めておばちゃんは帰っていった。
いよいよ駅に独りになった。
少年は待合室のベンチに腰掛けた。昨日と同じようにスマホを弄ろうとしたが、充電が残り少ないのを思い出す。
仕方なくバッグの奥底を漁り、読みかけの文庫本を取り出した。
本の題名は「夏の待ち人」。
戦後、出兵した夫の帰りを待つ女性達の心情を描いた短編集である。
フィクションだが、同じような状況だった人達に話を聞きモデルとしたこと、当時の生活や風景が丁寧に描かれていること、また舞台がこの周辺地域なため、地元の情報番組に何回か紹介され、書店にも目立つ場所に平積みされていた。
少年はそれがなんとなく目に入り、暇なときに読もうと思い買ったのだった。
何ページかは読んだが、一昨日まで期末テスト期間だったため、登校中や待ち時間に読む暇などなく、苦手な英単語を必死に覚えるという苦行重ねていた。
窓から入る夕日を避けるように、席を移動する。
ペラペラと数ページ捲ると、最後に読んだような文章を見つけた。その章の始めに戻り再度読み始める。
さよという女は、遠くから知らない男のもとへ嫁に来た。
二人は気が合ったのか、周囲からは仲睦まじく見えたようだが、夫はその後すぐ徴兵された。
玉音放送の後、彼女は夫を最後に見送った駅でずっと帰りを待ち続けた。
彼女は夕方になると、お腹の子を撫でながら駅へ行く。
一日一回来る下りの汽車から降りてきた軍服の男たちを一人一人確認して、駅から誰もいなくなるまで夫を探すのだ。
そして幾日過ぎた頃、戦時中の栄養失調の影響からか、彼女は産後に容態を悪くし、生まれた子の顔を見ることなく、一緒にその日に亡くなってしまった。
彼女は知らない土地や人に囲まれ、感情を表に出すことはなかった。
さよの心情は最後にたった一言、
「会いたい」
たったそれだけ書かれていた。
正直、当時の状況も女性の気持ちも少年には分からない。
だが、どこか虚しいという気持ちだけ残った。
一話読み終え、ふと顔を上げると、さっきより赤らんだ夕日が、目に真っ直ぐ突っ込んできた。
思わず瞼の上を手でガードして、目を細める。
そのまま窓の外を見ると、真向かいのホームに人影が二つが見えた。
丁度燃えるような光が背後から照らし、まさに影という感じだ。
本を読んでいたから、誰か来たの気づかなかったんだな。
でも暑そうだなあ。
そう思い、なんとなしに人影を見続けていると、その間を快速列車が通り抜けた。
五両ほどの列車だが一瞬だけ視界を遮り、再度かっと強い光が目に入る。
そこに人影は無かった。
少年は驚き、瞬きをして目を擦る。
窓に近づき見ても、やはり人影は無かった。
ま、まあ。見間違いかもしれないし。
自分を落ち着かせるように、右足を一歩後ろへ運んだ瞬間、
窓の端から、ゆっくりと人影が現れた。
鼓動が、強く、速くなる。
向かいのホームからこちらの駅舎へ行くには歩道橋を渡らなければならないし、待合室から歩道橋までは十メートルほどある。自分から真向かいに見えたのだから、そこから歩道橋を渡ってここまで来るのには一分以上かかる。
自分は、目を擦り、外を見て、後ろに下がっただけ。
それもゆっくりと動いたわけではない。
暑さとは違う汗が吹き出し、背筋はゾクッと震える。
動くことができない。
ざっざっと足音がする。
人影が待合室へ入ってきた。
ばっと振り向くと、人影は少年の方へゆっくりと向かって来ている。
声も出せず尻餅をつき、後ずさる。
人影はそのまま、窓辺のベンチに腰を下ろした。
そして窓の外を見るように、斜めに座り直す。
窓から差す夕日が、人影をさらに深く濃く浮かび上がらせている。
少年はしばらく動けず、人影から目を離すことができなかった。
カー
遠くでカラスの鳴き声がした。
その拍子に、床についた腕の力が抜け、肘を強く打った。
人影はこちらを見ることはなく、ずっと静かに窓の外を見ている。
少年は、人影が時折体を揺するのに気がついた。
まるで抱いた赤ちゃんをあやすように。
何故かさっき読んだ話を思い出した。
駅で夫を待つ女性。
彼女は、夫にも生まれてくる赤ん坊にも会うことなく、無念に亡くなったのだ。
少年は、からからの喉を湿らせるように唾を飲み込み、勇気を振り絞る。
「さよ、さんですか…?」
人影がこちらに振り向いた気がした。
真っ黒で本当はどうなのかは分からないが。
「…旦那さんを待ってるんですか?」
人影は動かない。
少年は後悔した。
これで何かされたらどうしよう。
だいたい、さよさんなのかすら、分からねえじゃん。
人影は何をするわけでもない。
恐らく少年を見つめていのだう。
少年は、彼女が何かを求めているように思えた。
彼女は栄養失調でも、身重でも、毎日駅へ行く。知らない土地で辛くても頼れなくても、恋しい夫を待つことが心の支えになっていたのだろうか。
そして、その願いは叶えられたのだろうか。
「……会えますよ。絶対。」
自然と言葉を発していた。
自分だったら、なんて感情移入は出来ない。
けど彼女が欲しいのは、きっとそういう言葉だろう。
「ありがとう」
そんな声が聞こえた気がした。
遠くからポーという音がする。
人影は立ち上がり、ゆっくりと待合室を出ていった。
少年も人影の後を追う。
ホームには画像でしか見たこと無い、古く黒い蒸気機関車が停まっていた。
ガタンと扉が開き、黒い腕のようなものが一本伸びてきた。
それに人影が駆け寄り、優しく抱かれるように、車両へ消えていった。
扉が閉まり、ボーっと大きい汽笛が鳴る。
大きな音に思わず目をつむると、汽車は消えていた。
ホームの向こう側に見える夕焼けが、とても大きく見えた。
「間もなく列車が参ります」
急にアナウンスと合図のベルが聞こえ、少年は慌てて待合室に荷物を取りに行く。
電車の前に立つ車掌に定期券を見せて乗りこんだ。
強めのクーラーか効いていて、一気に体温が奪われていく。
少年は空いている席を見つけ座った。
不思議な体験だったな。
そう思って、最初に彼女がいた向かい側のホームを見ると、
人影があった。
いや
あれは人影ではない。
少なくとも影を作るようなものはなく、夕日を吸い込んだかのような闇そのものだ。
ああ、そうだ。
あのとき、人影は
もう一つあったんだ。
影は、ゆっくりとうねりだし、もう人の形を保ってはいない。
そして真っ黒な体を、少年の方へ伸ばし始めた。
夏のホラー2020投稿作品です。
※追記
次作「夕日に残るもの」は本作の対、裏側、捕捉のような話になっています。1話だけでもどちらが先でも、お楽しみ頂けるように書いたので良ければそちらも読んで頂けると嬉しいです。