ベテラン少年
新型コロナでステイホーム中にほんわかする小説を届けられたら幸いです。
今日は待ちに待った日曜日だ。
ローリングストーンズのロゴ入りのTシャツに彰兄さんの倉敷土産のデニムを履いて、ホグロフスのリュックサックを肩に引っ掛けた私がサイクルシューズの靴紐を結んでいると、母が玄関まで見送りに来た。
「優花、今日も彰の所行くの?」
「うん、彰兄さんとデート」
「デートって……お母さんとしては、実の弟と会うのをデートって言う表現はやめて欲しいんだけど」
彰兄さんと呼んでいるが、今日会う人は母の弟だ。
つまり実際には私から見て叔父にあたる。
私が生まれた頃、叔父は20歳だったので『オジサン』と呼ばれたくなかったらしい。
今19歳の大学生の私は分かる。
私は兄弟の居ない一人っ子だけれど、姪や甥、知らない他所の子にも『オバサン』とは死んでも呼ばれたくない。
立ち上がり、自転車の鍵を手に取った私は溜息を吐いた。
「お母さん知らないの?遊びに行く事を若い女の子はデートって言うんだよ。ま、厳密には女同士だけど。ノリだよ、ノリ」
「まあいいけどね。帰りは何時?」
「帰る時にLINEする」
「分かった、気を付けて行ってらっしゃい。楽しんで来てね」
玄関を出ると朝陽が目に沁みる。
高校時代、彰兄さんに通学用にカスタムして貰った相棒、ロードバイク『昴630号』はもう5年の付き合いだ。
これまた彰兄さんの選んでくれた流線型の格好良いヘルメットを着用して昴630号に跨り風を切る。
時折通り過ぎる車に気を付けながら住宅街の車道の端をロードバイクで走っていくと、目的地の一軒家に辿り着いた。
彰兄さんの家だ。
庭にはローズマリー、バジル、タイム、ミント、カモミールなどのハーブ類が花壇に植えられている。
花壇の他の普通の庭部分には様々な花が自然の花畑のようにランダムに咲き誇っている。
種類の違う花の種を混ぜて蒔くとこうなるのだと教えてくれた時に彰兄さんは悪戯っぽく笑っていた。
「ミントは怖い。あいつらめっちゃ増える」とは彰兄さん談だ。
ハーブ類は他の植物の成長阻害物質を出すから花壇に植えているらしい。
玄関ベルを鳴らす。
少しして、彰兄さんがドアを開けニッと笑う。
「おはよ。早かったな、優花。ちゃんと朝飯食ったか?」
「おはよー。食べてない。お腹空いたー」
ロードバイク昴630号をガレージに仕舞いながら甘えた声を出す。
彰兄さんに人差し指で額を小突かれた。
「朝飯くらい食え。身体に悪いぞ」
「彰兄さんのご飯美味しいからお腹空かせてきたの」
「おっ、嬉しい事言ってくれるなー」
「朝ご飯たかる代わりにカステラ焼いてきた」
「え!マジで?嬉しいなー」
「瓶牛乳も準備万端」
「俺の姪が出来る子だ」
彰兄さんがポケットに手を突っ込みながら尋ねる。
「で?何食いたい?夕べで常備菜切らしてるから大したもん出せないけどな」
「何作れる?」
「和洋中、エスニック何でもいけるぜ」
「じゃあ、パスタな気分」
「スパゲティ?マカロニ?ペンネ?ラザニア……は朝から重いか?」
「ジェノヴェーゼソースある?」
「おう、冷蔵庫に彰お兄さん特製ペストゥ・ジェノヴェーゼソースの瓶詰めがあるな」
「じゃあそれ!ペンネで」
「了解ー、家入ったら手洗いうがいしろよー」
「はーい」
玄関に入るとヘラクレスオオカブトがお出迎えだ。幼虫と蛹の時から見守ってきたから、なんとなく感慨深い。
「あ、優花。手ェ洗う時はアメリカ国歌歌いながらな」
「欧米か」
「イギリスでは新型コロナ対策で国歌歌いながら手洗いしろって啓蒙してたとか聞いた気がする。知らんけど」
「テキトーな知識」
「歌歌うと30秒以上洗うのに有効らしいぜ」
私は当然の如くアメリカ国歌は歌わずに、しかし丁寧に手洗いうがいを済ませた。
リビングに入るとレコードが流れていた。エリック・クラプトンのLaylaだ。
やたら音質が良く音に包まれるかのような臨場感がある。
スピーカーがきっと高いのと、針も良い奴を使っているに違い無い。
リビングで真っ先に目につくのは壁に飾られた使い込まれたサーフボードとスノーボード、壁際に置かれたアコースティックギターとエレキギター。
額縁に入っているのは各国の建築家がデザインしたマカロニコレクションだ。年号と建築家の名前が彰兄さん手書きのカリグラフィーで描いてある。
ケースに入った鉱物・化石コレクションもある。
これらのどれも埃を被っておらず、彰兄さんが綺麗好きなのが分かる。
足元に目を向けると彰兄さん自作のお掃除ロボットがフローリングをのんびり走っていた。
バッテリー搭載、赤外線と超音波センサーでキッチリ障害物も避ける優れものだと力説していた。
じっと眺めていると、本当に壁際で方向転換した。流石だ。
掃除好きな癖にお掃除ロボットを何故作ったのか聞いてみたら、はんだ付けが楽しいからと答えが返ってきた。
曰く、あの独特な匂いと金属が溶けていくのが楽しいのだという。
あらゆる分野の本がギッシリ詰まった本棚も、テーブルも、椅子も全部彰兄さんのDIYだ。
DIYだと言われても、DIY特有の素人が作りました感はゼロだ。デザインもお洒落で洗練されている。
それもそのはず、最近のDIYブームで始めた素人ではないのだ。
彰兄さんは児童会館の発明クラブに小1から6年間在籍、高専ロボコンで国技館まで行き、現在ではプログラマー兼プロダクトデザイナーをやっている。
書斎のパソコンは当然マルチディスプレイで映画に出てくるギークっぽさの漂う部屋だ。
私は秘密基地っぽくてあの部屋に密かに憧れている。
「ほい、お待ちどうさん。野菜も食えよ」
スモークカマンベールチーズの乗った野菜サラダのボウルと、燻製枝豆、ペストゥ・ジェノヴェーゼのペンネがテーブルの上のランチョンマットに載せられる。
「昨日燻製したの?」
「おう、やったぞー。お前がバイトだったからぼっち燻製。飲み物は?」
「コーヒーお願い」
「ブラック飲めるようになったんだよな?
ついこの前まで砂糖ダバダバ入れてたのになー。子の成長は早いぜ」
彰兄さんがミルでコーヒー豆を挽いてくれている。
「エスプレッソにする?サイフォン?」
「ダルゴナコーヒー」
「面倒なもん要求してきた。てか、インスタントコーヒー俺ん家にないの知ってるだろ」
「冗談だよ。ブラックの気分だからサイフォン」
「ほいほーい。サラダ、何掛ける?」
「彰兄さんの作ったアンチョビソース」
「お前、ホント俺の作ったもん好きだよな」
「うん、大好き。いただきまーす」
遠慮無く食べ始める。
いつも通り美味しい。いや、また料理の腕を上げたかもしれない。
言い忘れていたが、皿や器類も彰兄さんの趣味の陶芸で作ったものだ。
壊れた時計のゼンマイから作った飛びカンナで模様を付けた、所謂小石原焼風の器は和洋中何にでも合う。
コーヒーカップにコーヒーを注ぎながら彰兄さんが「ジャジャン!」と効果音を口で言った。
「彰お兄さんのお料理クイズ〜。世界三大料理は何と何と何でしょう?」
「和食、洋食、中華」
私は淀みなく答えた。
彰兄さんがテーブルに片手をつき、頭を抱えた。
「……嘘だろ……日本食二つ入ってるじゃねーか。俺の食育はなんだったんだ」
「あはは、嘘でーす。中華、フレンチ、トルコでしょ。
だが!私は!イタリアンを推す!」
「イタリアンも捨てがたいがニョニャ料理も旨い。
人類は東南アジアにもっと敬意を払うべきだ。
パクチーは確かに旨いが、パクチーだけでエスニックの全てを知ったと思ったら大間違いだ」
「それな。コリアンダーだしシャンツァイだしね。
私は中華系の影響受けた料理大体旨い説をここに提唱する。
焼餃子を水餃子の残りで作ってる中国人に言いたい、米と食べる焼餃子旨い。日本人、『主食で主食食べてんじゃん』というツッコミ入れたくなるだろうけど、餃子発明してくれてマジ感謝」
「同意する」
「あーもうホント彰兄さんのご飯美味しいー。来週は水餃子か肉まん一緒に作ろうよ。ていうか彰兄さん嫁に来て」
「アホか。で?今日はどこ行くよ?どこでも連れてってやんよ」
「候補は?」
「釣り、ビリヤード、ダーツ、ボルダリング、美術館、動物園とか」
「ボルダリング!」
「よし、でもボルダリングジム開くまで時間あるな」
「じゃあさ、ラジコン勝負しようよ。カスタムして持ってきたから」
「お、いいな。河川敷行くか」
「私、今度こそ勝つから!バイト代で新しいパーツ買ったの!
滑らかに動くアルミシリンダーのオイルダンパー搭載!タイヤに合わせた4輪ダブルウィッシュボーンのサスペンション!
私のタミヤのエンジン式ラジコンが火を噴くぜ」
「おー気合入ってんなー」
彰兄さんは楽しそうに笑っている。
朝食も食べ終わり、いざ、決戦の河川敷。
2つのラジコンカーがアスファルトで舗装されたサイクリングロードに並んでいる。
「ヤアヤア、遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは長船の優花なり」
「知ってるなりー。じゃあ、行くぜー。
3……2……1……Ready go!」
同時に轟く2つのけたたましいモーター音。
急加速した彰兄さんのラジコンカーが一瞬で遥か彼方へとカッ飛んでいく。
「へ!?何あれ!え?え?」
「はっはっはー俺の勝ちー!」
彰兄さんが高笑いする。
私は困惑していた。
「カスタムして時速100km出るようにしたのに!
彰兄さんのラジコン、どういう事なの……」
彰兄さんがニヤリと笑った。
「トラクサスXO-1」
私は息を呑んで、叫んだ。
「あー!えー!時速160km出る奴!」
「残念でしたー、俺の時速200km出るもん。
15万のトラクサスXO-1を5万掛けてカスタムしてるからな」
「汚い……金の力だ……大人ってズルい……」
「金の力が汚いってのは間違ってるぞ。金そのものに貴賎は無い。よく働いてよく稼げ。そして自分にとって価値のある金の使い方をしろ」
「ラジコンに20万突っ込むのって価値のある使い方なの?」
「ラジコン眺めながら呑む酒が旨い」
「私、未成年だからお酒飲めないもん」
私は思わず頬を膨らませる。
彰兄さんはポンポンと私の頭を撫でた。
「20歳になったらいくらでもカクテル作ってやるよ。BAR AKIRAだ。それまでミルクでも飲んでろ」
「そうやってお子様扱いするー」
「お子様でいられる最後の一年、しっかり満喫しろよ。やり残しの無いようにな」
「20歳と19歳ってそんなに違うもの?」
「20歳っつーより、社会人と学生かねー。
責任取らなくて良いもん、学生は。モラトリアムだよ。守られてんの。
社会人になるとな、社会っていう得体の知れないデカイ化け物と戦う事になんのよ。
つまり、善良な一般市民と戦う訳」
「善良なのに戦うの?」
「一般市民の正義の味方程面倒なものは無い!」
彰兄さんはキッパリ言い切った。
「さて、そろそろ撤収するか。ジム開くまで家の中で小型ドローン飛ばそうぜ」
「良いね」
ラジコンカーをリュックサックに仕舞い、彰兄さんの家に帰る。
小型ドローンの操縦技術もやっぱり彰兄さんの方が上だった。
「あっ」
私が真似して操縦していたら棚の上に引っ掛かってしまった。
背の高い彰兄さんはひょいっと脚立も使わずにそれを取る。
「ごめん、ありがと。壊れてない?」
「あーこれは壊れてまんがなー慰謝料100万円ですわー」
「か、勘弁して下さいお兄さん、病気の母が居るんです、この薬代だけは……」
「んなことワイは知らんがな!オンドレ誠意見せえや、誠意!」
「ホンマすんませんでした!」
「病気の母が居る娘、口調移ってるじゃねーか」
「あ、ホントだ。っていうか彰兄さんの喋り方、大阪の人が聞いたら怒られそうな雑な大阪弁だったね」
「自分達のお国言葉に愛があるからな、大阪人は。
でもなー、やっぱあのリズミカルな言語は真似したくなるぞ。聞いてて癖になる。
真似するのは好きだからだ、怒らないでくれ、大阪の民よ。
ま、どっちにしろお前しか聞いてないからセーフだ」
「で、大丈夫だったんだね。良かった」
「おう、傷一つついてないから安心しろ」
「それにしても、病気といえばうちの家系、皆元気だよね。
ひいおばあちゃんも100歳過ぎてるのに相変わらずステーキ食べてるし」
「健康だけが取り柄だからなー。金さん銀さんかよと。あ、カステラ食ってない!」
「あ」
私の作ってきたカステラを私が切り分けている間に彰兄さんが冷蔵庫で冷やしておいた瓶牛乳を取り出した。
2人向かい合ってテーブルに着く。
彰兄さんが待ち切れない様子でフォークを手に取った。
「いただきまーす。……ん!旨ぇ。上達したなー、優花」
「ありがと、彰兄さん。……やっぱカステラには牛乳だねー。これは良い永久機関」
「ところで優花。瓶牛乳がなぜ旨いか知ってるか?」
「特別感?紙パックじゃないよーっていう」
彰兄さんが指を振る。
「甘いな。飲んだ時に唇に残るヒンヤリ感が美味しさの要因だと言われている。
金沢工業大学の教授がこんな実験をしてる。
プラスチックコップ、マグカップ、牛乳瓶で牛乳を飲んだ時の唇の温度をサーモグラフィーで計測。
容器に10秒間唇をつけて牛乳を飲み、20秒間の温度変化を見る実験だ。
10人の平均値でプラスチックコップは温度がほぼ変わらず一定なのに対して、マグカップはそれより3度低くスタートし、緩やかに上昇。
牛乳瓶はプラスチックコップより5度低いところから始まって、最終的にマグカップよりも1度低い状態になる。つまり、一番ヒンヤリだ。
その上、唇と容器の接触面積がマグカップの1.4倍。それがヒンヤリ感をより増幅させて旨いと感じさせるらしい」
「真面目に凄くどうでもいい研究してて憧れる。良いな、金沢工業大学」
「丼物も口をつけてかきこんだ方が旨い。
これは1度に沢山の食べ物が口の中に入ると多くの感覚神経が同時に刺激されてより旨いと感じるからだ。そして何より食事に集中出来る」
彰兄さんの講釈垂れ流しが終わる頃にはボルダリングジムが開く時間が近づいてきた。
キッチンに立ち、洗い物を済ませる私。
営業時間に合わせてボルダリングジムに一緒に行く。
40目前のアラフォーの癖に、彰兄さんは手前に倒れている壁のオーバーハングもスイスイと天辺まで登り切った。
私は90度の垂壁が精一杯だ。なんで倍の年齢差なのにあんな壁登れるんだ。私は若さで乗り切れないのか。
彰兄さんは天井のような壁、ルーフに挑戦し始めている。
ぶら下がる姿勢で全体重を支えるのはかなりキツそうなのに彰兄さんは良い笑顔だ。
凄く、楽しそう。よし、今日は前傾の壁スラブに挑戦だ。
よいしょ。よいしょ。
あ、ダメだ。登ってる内に次のホールドに手が届かない。
「優花、足を積極的に上に上げろ!手だけで登ろうとするな」
「イエッサー、了解であります、隊長!」
彰兄さんに言われて、足を上に上げるように意識する。ホールドにしっかり足をつけて、滑り落ちないようにする。
スラブは前傾の壁なので、滑り落ちると怪我しやすい。
暫く無心で登り続けた。
段々とコツが掴めてきた。良い感じだ。
上へ、上へ。もっと、もっと。……もっと上だ。
とうとう、私も念願のスラブ制覇。
登頂成功記念の旗を立てたい気分だ。刺す場所無いけれど。
クライミングウォールを降りると、彰兄さんが右手を拳にしてマイクに見立て、興奮した演技をしつつインタビュアーの真似をした。
「登頂成功しましたね、長船優花選手!今のお気持ちは?」
「今まで生きてきた中で、一番幸せです」
「岩崎恭子丸パクリじゃねーか。てか、お前生まれてないのに良く知ってたな」
「チョー気持ちいい!」
「北島康介かよ」
「彰さんを手ぶらで帰らす訳にはいかないぞっつって話してたんで」
「いや、誰とだよ。てか謎の水泳縛り」
「いつも通りのツッコミの切れ味。
ねーねー、彰兄さん、この後何する?」
「ちょっと早いけど昼飯食いに行かないか?ツーリングがてら、ちみっと遠出して」
「良いね!」
一旦彰兄さんの家に帰る。
ピンクのバイク用ヘルメットを被り、ガレージのバイクの前で待っていると彰兄さんが私にジャケットを投げて寄越した。
「Tシャツじゃ寒いだろ」
「ありがと、彰兄さん」
「よし、んじゃ行くか。危ないからしっかり掴まってろよ?」
「了解であります、二等兵!」
「俺さっき隊長だったのに格下げされてね?」
ぶかぶかのジャケットを羽織りバイクの後ろに座ると、先にバイクに乗っていた彰兄さんのお腹に腕をしっかり回す。
ブルルンと馬の嘶きのような音を立ててエンジンを吹かし、発進。
自転車よりも、もっと早く流れる景色。
風が気持ち良い。風音が耳を塞ぐ。
彰兄さんの体温がじんわり温かい。
暫く走った所で、途中のコンビニで一旦トイレ休憩。
「優花、飲み物何買う?」
「綾鷹が良いかなー」
「よし、俺は濃いめカルピス」
トイレを借りたお礼代わりに500mlのペットボトルを2本買う彰兄さん。
コンビニの駐車場で財布から小銭を出す私。
100円とちょっとの小銭を差し出す。
「はい、お茶代」
「いらねーよ、その小銭で駄菓子でも買え」
「駄菓子食べる程子供じゃないもん」
「バッカおめえ、駄菓子の大人買い超楽しいぞ!?
駄菓子屋で少ないお小遣い握り締めて買いに行く子供に混じって経済力に物言わせてカゴいっぱいに駄菓子詰めてレジに並ぶ時の優越感、子供達の羨望の眼差し!あれを経験してないとは……」
「彰兄さんの微妙に器の小さいエピソード」
「酷え」
「まあ、いいや。それよりお茶代受け取ってよ」
「ジュース代くらい素直に奢られとけ」
「……ありがと、ゴチになりまっす!」
お礼を言ってからペットボトルの蓋をひねる。
ゴクゴクと一気に飲むと渇いた喉にお茶が染み渡る。
「はー……美味し」
「あーノスタルジックな味。友達が家に来た時のカルピスの味だ」
「お母さんの作るカルピスって薄いよね。お母さんは薄い味が好きなんだって。通称ウスピス」
「お前ん家ではウスピスって呼んでんの?」
「うん。ウスピス、フツピス、コイピス」
「ポケモンの進化みてえだな」
「コイピスのはねる攻撃!しかし何も起こらない」
「起こるわ。溢れるっつーの」
ペットボトルを仕舞った彰兄さんが、何も無い掌を見せてきた。今度は手の甲だ。
何だろうと思って眺めていると、全部の指の間にミルキーが現れた。
「うわあ!」
思わず感嘆の声を上げる。
ご機嫌で私の掌にミルキーをごっそり載せる彰兄さん。
「やるよ」
「ありがとう!ねーねー、今の教えて?」
「教えてやんねー。タネは分からないから楽しいんだよ」
「むー」
ミルキーの山をポケットに突っ込んで、その中から1個だけを包みから出して口に放り込む。
「美味しー」
「んじゃ、行くか」
「うん。お腹くすぐって良い?」
「良い訳ねーだろ、事故るわ」
「冗談だよ。ところで、どこ向かってるの?」
「ジビエ専門店。お前鹿肉好きだろ?気に入ると思ってな」
「流石彰兄さん、分かってる〜」
ジビエ専門店は、国道から外れた畑のド真ん中にポツンとあるのに小洒落た店だった。
新緑の瑞々しい防風林に囲まれている。
「なんでこんな辺鄙な場所に……」
「地価が安いからだろ。旨けりゃ客も来る。
手間をかけると人は良いものだと感じる。わざわざ来る事でより美味しいと思うんだよ」
彰兄さんが扉を開けると、ドアベルが涼やかな音色を奏でる。
「いらっしゃいませ、2名様でしょうか?」
「そうです」
「では、こちらへどうぞ」
店内は旭川家具で統一されていた。
旭川は道内有数の家具作りの名所なのだ。
壁にはマリメッコの生地を使った四角いボードが等間隔に飾られている。
木漏れ日の差し込む、明るい店内は居心地が良い。
通された席でそれぞれメニューを開く。
プロの写真家が撮ったであろう、美味しそうな写真が大写しで並び、どれにしようか悩む。
鹿肉のページを一通り眺めると、1つの料理に目が引き寄せられた。
ヒルベンリハピーヒビット(フィンランド風鹿肉ハンバーグ・クリームソース)と書かれている。
鹿肉で、ハンバーグで、クリームソースだ。
旨いの三重奏じゃん。不味い訳が無い。凄く美味しそうだ。
「私、ヒルベンリハピーヒビットにする。彰兄さんは決めた?」
「おう、決めたぜ。店員さん呼ぶぞー」
お冷やを運んで来た店員さんにメニューを指差しながら、彰兄さんが口を開く。
「すみません、メニュー決まりました。ポロンカリストゥスとヒルベンリハピーヒビットお願いします」
「ポロンカリストゥスとヒルベンリハピーヒビットでございますね。
お飲み物はいかがなさいますか?」
「バイクで来てるのでノンアルコールで。
……そうだな、OATLY iKAFFEでお願いします。優花は何飲む?」
「今の何?彰兄さん」
「オーツ麦のミルク。フィンランドでは人気なんだよ。豆乳的な?」
「飲んでみたい!」
「じゃあ、OATLY iKAFFE2つお願いします」
「かしこまりました。ご注文繰り返させていただきます。
ポロンカリストゥスお1つ、ヒルベンリハピーヒビットお1つ、OATLY iKAFFEお2つ。
以上でよろしいでしょうか?」
「はい、そうです」
「少々お待ちくださいませ」
店員さんがメニューを片付ける。
もっと読みたかったのに。まあ、いいか。
「ポロンカリストゥスって何?彰兄さん」
「お前、メニューくらい全部目を通せよな。
トナカイ肉のシチューだよ。マッシュポテトとコケモモのジャムで食べんの」
「へー、美味しそう」
やがて運ばれてきた鹿肉ハンバーグ、もといヒルベンリハピーヒビットはトロリとしたクリームソースに覆われていていかにも美味しそうだった。
言うまでもなく、絶品だった。
鹿肉といえば癖が強いと思われるかもしれないが、そんなことはない。
牛肉に近い濃厚な赤身の旨さがガツンと来る。
包丁で叩いて食感の残るようにしたであろう粗挽きミンチは噛む程に肉!肉!肉!だ。
女性に嬉しい低カロリー高タンパクなのもポイントが高い。
彰兄さんのトナカイシチューも一口シェアさせてもらったが、美味しかった。
トナカイ肉がこんなに柔らかいなんて知らなかった。
臭みも癖も無く、柔らかく煮込んだ牛スジに近いかもしれない。
こんなに美味しいのになんでも牛肉に喩える自分の語彙力の無さが恨めしい。
お前は牛肉以外の旨いものを知らないのかと。
最近の若者は言葉が貧相だと言われそうだ。
まあ、テレビで見る芸能人も最近は「柔らか〜い」「甘〜い」しか言ってない気がするけれど。
海老を食べて自分の一番可愛いキメ顔で「プリップリ♡」以外の発言をした女性芸能人を私は見た事が無い。
見た人が居たら詳しく教えて欲しい。多分私はその芸能人のファンになる。
食事を終え、伝票を取った彰兄さんが財布を取り出した私に小声で囁く。
「男に恥をかかすな。これだけ歳の差あるんだから割り勘なんて格好悪いだろ」
「あ、そこまで気が回らなかった。ごめん」
店員さんに「ご馳走様でした、美味しかったです」とお礼を言って2人で店を出た後、改めて財布を出す。
「いくらだった?」
「俺の奢りだから気にすんな。連れ回してるの俺だし」
「楽しかったし美味しかったから払いたいな。
私だって稼いでるんだから!」
コンビニバイトだけど!
「俺はお前が旨い旨い言って飯食ってる顔が好きなんだよ。金の事は気にすんな。
気持ち良く奢られる女にはそれだけで価値があるんだよ」
「むー……次は私が払うから!だから今日はご馳走様でした!美味しかったです!」
「おう」
彰兄さんが嬉しそうに笑う。
誰かの為にお金を払って嬉しいというのは、私にはまだ分からない。
「ところで、ソフトクリーム食べたくないか?」
「食べたいかも」
「よし、近くの道の駅寄るか」
道の駅ではソフトクリーム売り場に短いながらも行列が出来ていた。
『プレミアム北海道特濃ソフト』と大々的に幟が出ている。
「ここ、普通のコーンとかワッフルコーンじゃないんだね。
ラングドシャのコーンなんだ。美味しそう。
彰兄さん、何味にする?」
「んー……夕張メロンかな」
私達の番が来た。
「すみませんー、バニラ・チョコミックス1つと夕張メロン味1つお願いします」
「かしこまりました〜、1000円になります」
彰兄さんが出すより早く、1000円札を店員さんに渡す。
「えへへ〜、払っちゃったもんねー」
「あー……やられたわ。ご馳走さん」
彰兄さんは苦笑いだ。
2本差し出されたソフトクリームをそれぞれ受け取る。
一般的なソフトクリームよりも大きい。お得感がある。
さっぱりした甘さなのにミルクの旨みとバニラビーンズの香りが心地良い。
チョコレートも味が濃く、リッチ感がある。
「彰兄さん、1口食べる?」
「貰う。お前もこっち食べるか?」
「食べるー」
夕張メロン味はメロンジュースか?と思う程メロン感が強い。甘めだ。
「旨いな」
「うん、美味しいね」
そろそろ夕焼けで空が紅く燃え始めた。
たなびく雲が紫から赤に滑らかに染まっている。
彰兄さんが一眼レフを取り出してシャッターを切った。
彰兄さんのカメラは今時珍しい銀塩カメラだ。
デジタル一眼レフも持っているが、1枚1枚大切に写真を撮るのが好きなのだという。
スマホで撮った写真が写真フォルダに見返す事も無く詰め込まれ、撮っただけで満足しているだけの私は少しムズムズする。
昔の方が豊かだったのかもしれない。
ソフトクリームを舐めながら、私は呟く。
「春は夕暮れ。ようよう赤くなりゆく空もかきくれてソフトクリームなど食べるはいとおかし」
「古文にソフトクリームぶっ込まれたら清少納言ビックリするわ」
「もしもさ、清少納言が現代に居たらインフルエンサーだよね」
「写真インスタに上げてポエムっぽいエッセイ書く清少納言見たくないんだけど。
あれ、平安時代だから良い訳で」
「炎上する清少納言。ドロドロ!紫式部と女の闘いか!?とか言う東スポ」
「嫌すぎる」
「『食べる時に鮎がキスされて変な気持ちにならないか心配』とかツイッターでバズろうとして言ってキモがられる紀貫之」
「あれは俺も読んだ時引いたわ。
女の日記って設定だけど、おっさんだって隠す気ないよな。
紀貫之現代に居たら好きな子の縦笛絶対ペロペロしてる」
「彰兄さんはペロペロしたの?」
「する訳ないだろ」
サクサクのラングドシャを齧る。
クッキー生地のラングドシャコーンはバターたっぷりで美味しかった。
「暗くなってきたし星でも見てから帰るか」
「彰兄さん天体観測好きだもんね」
「星はロマンだろ。何万年も前の光が今届くんだぞ。
なんなら恐竜が居た頃の星の光が今見えてんだ。
あー、車で来れば良かったかねー。車なら天体望遠鏡持って来れたのに」
「バイク好きだからバイクで嬉しかったな。
それに、今日は朔だから望遠鏡無くても見やすいよ」
「まあな。天体観測はペルセウス座流星群の時にまたやるか。予定空けといてくれよ」
「うん。楽しみにしてる」
やがて道の駅が閉まって、灯りが消えると真っ暗だった。
だだっ広い草原の中、2人並んで仰向けで夜空を見上げると、スズメノカタビラだとか、ブタクサだとかの雑草の若葉がチクチクと頬を刺してくすぐったい。
5月の北海道のヒンヤリした風が吹くとザワザワと木々が囁く。
満天の星空。濃紺の闇のキャンバスに白い絵の具を散らしたみたいだ。
私達は無言だった。
どれくらい空を眺めていたのか。
私のスマホからピロン、と音がした。
母からのLINEだ。『あとどれくらいで帰ってくるの?』
「そろそろ帰るか。冷えてきたしな」
『これから帰るー。多分1時間位かかるけど。晩御飯なあに?』母にLINEを打つ。
ピロン、と返信。
「彰兄さん、今日晩御飯ウチで食べてく?コロッケだって。ジャガイモのコロッケとカニクリームコロッケ」
「お、良いのか?好物!行く行く!」
「『彰兄さんも来る』っと……『彰が来るならザンギも揚げるね』だって」
「よっしゃー!ザンギ、ザンギ!」
彰兄さんが子供みたいに顔をクシャクシャにして笑う。
ソワソワ、ワクワク。
溢れ出る楽しみオーラ。
子供か。
年甲斐も無くスキップでバイクへ向かっている。
彰兄さんは、多趣味だ。そして毎日楽しそうだ。
趣味はボルダリング、釣り、DIY、手品、コーヒー、カクテル、レコード、陶芸、ギター、燻製、ドローン、読書、サイクリング、ツーリング、ドライブ、天体観測、カメラ、ビリヤード、ダーツ、昆虫飼育、食べ歩き、料理、ガーデニング、パソコン、動物園巡り、美術館巡り、スノボ、サーフィン。
いつだって、子供心を忘れない。
私の叔父さんは、ベテラン少年だ。
主人公の苗字、長船。
実は私が学生時代に長船さんという子が居ました。長船さんはクラス替え後、初めての隣の席。私は笑顔で挨拶しました。
「初めまして。これからよろしくね!ところで君って刀鍛冶の末裔?」
「え?なんで?」
「あ、違うの?長船派っていう刀があってね……」
当時、刀剣乱舞はありません。私以外に刀好きの女子高生なんて中々居ません。
そして、1時限目の日本史……。
先生「長船、お前のご先祖様、刀鍛冶か?」
私達の周囲はドッと爆笑。先生はポカーンでした。
説明後「鳥海、お前刀好きか!」
先生が嬉しそうでした。