八月、花火大会にて
八月、空に弾ける花火を高台から見ながら、思い出が風化していること気づいた。去年、花火を見ているときは何をしていたっけ。一昨年、花火を見ているときは何をしていたっけ。そうだ、15歳の時は初めての受験が終わって高校生になった後で毎日が新鮮だった。中学生になった頃だったかな、初めて家族でなく友達と花火を見て楽しかった。
涼しい風が吹く。花火が騒がしく散る。ぼんやりしていた僕は、彼女に見つめられていることに気づいて我に返る。
「今年で23歳、少しずつおっさんになっているのかなって思った。」
僕は茶化すように、言い訳するように呟いた。
「寂しいの?」
「どうなんだろう。」
自分が寂しさを感じていることは分かっていた。少し前は一つ一つの思い出を「今」のものとして捉えていたのに、今は「過去の一部」として見ている。寂しさを認めるのは自分の過去が手の届かないところにあって、一つとしてもう戻らないことをはっきりと認識してしまうようで嫌だった。
花火大会は毎年8月、町の夏祭りの終わりに開催されていた。町の名物を作るために町おこしを目的として始めた花火大会で、今年2020年の開催で20回目となる。しかし、先日来年2021年8月を最後として花火大会を終了すると宣言された。楽しみにしていた町の人は多かったものの、花火大会を開催するための巨額の投資に対して町を訪れる人は多くなかった。
僕たちはいつも過去を手探りで探る。「似た発言を聞いた」「似た人を見た」そうした日常のきっかけをもとに、自分の過去を振り返る。町の人々はみな、そんな手探りのための糸が、自分の連続性を保つための糸がまた一つ失われようとしていることに心のどこかで寂しさを感じていた、はずだ。
彼女はなんだか不満そうだった。昨日僕が送った寂しさについての長文メッセージを見て面倒だなと思ったのだろうか。喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら黙ってスマホを触っている。ちなみに今日は2021年7月、僕は自分の考えをまとめるのにいつも時間がかかる。彼女が口を開いた。
「私たちっていつから付き合ってたっけ?」
「いつからだっけ…高校を卒業する前からだから5年かな。」
もう一度静寂が訪れる。そんな日々を過ごしてまた八月になった。
八月、最後の花火大会。空に弾ける花火を高台から見ながら、また同じことを考えていた。涼しい風が吹く。花火が騒がしく散る。美しさよりも寂しさを感じてしまう。ふと、彼女が僕の手を握った。
「もう届かない過去の一部になったって、今に繋がってることは変わらないでしょう。」
僕は少し驚いた。彼女は続ける。
「私は今もここにいる、5年前も一緒に花火を見たでしょう?」
そうだ、5年前初めて彼女と花火を見た。4年前、3年前、一昨年、去年。あれから毎年、彼女と花火を見ている。僕は5年前から彼女と一緒にいて、彼女の存在は僕が「今」として認識しているものの一つだった。家族のつながりだって、友達のつながりだって過去のものではない。「今」の一つだ。過去の点と点は確実に今に繋がっている。そう思うと、切なさではなく感慨深さを感じた。
「それでも不満なの?」
「いや、なんか感慨深いなって。」
「その発言はおっさん臭い。」
僕は黙った。花火はとても綺麗で、光が弾ける音が心地よかった。
花火大会が無くても、また祭り終わりに高台に来ればいい。友達と小さな花火をしてもいい。花火大会がなくたって繋がりを認識できる。大げさに過去の一つだと捉えて切なさを覚えるのは少し違う気がする。もしくはまだ早いかな。
花火大会が終わった。僕の何かが変わった、気がする。