【明日の月は、】再会【第一話】
ここは、スラムだ。国から見捨てられた場所であるここには、親から、兄弟から、友人から、はたまた自分から見捨てられた人間たちが集っている。
ここでは、まともな教育も訓練も受けられない。一口の水が、パンが、手に入るかすらも危うい世界。私が武器に出来るものは、自らが女であることだけだった。
こんな人生、犬も食わないゲテモノだ。最早襤褸と化した一張羅を着て、いつだったか金持ちが道楽で私に捨てていったネックレスを胸元に落とす。
今日はどこに行こうか。大通りは最近どうしてか警備が厳しくなっているようだから、行かない方がいいだろう。重い体を引きずりながら、ぼんやりと算段を立てていく。
ふと、風上からヒイフウミイヨ、とおかしな調子の数え歌が聞こえてきた。ああまた来たのか、変わり者め。
「今日も、辛気臭いお顔ですことネ」
ふらりと、其奴は路地の影から現れた。妙に小綺麗な焦げ茶の外套を靡かせて、その癖ぼさぼさの髪はそのままで。
「相変わらず、変な口調に変な歌」
「おりぢなる、というやつさ、なかなか気に入っているのだよ」
「オリジナル、ねぇ。才能無いんじゃない」
「失礼な。そもそも才能とは何だいネ、全く」
「さぁ、私はカミサマじゃないから知らないよ、そんなこと」
「ふむ、才能の何たるかは神のみぞ知る、とナ。いいねェ、カミサマ! 我々を見捨て給うた、偉大なる宿敵の名だ!」
辿々しい言葉遣い、大仰なゼスチャー、微妙に通じない会話。これだから、私は此奴が嫌いなんだ。此奴の相手をしたって、びた一文にもなりやしないのに、体力の無駄使いにも程がある。
「用がないならさっさと帰ってくれない」
「オヤ、マァ、名無しの君は、与太話はお嫌いかしらン」
「別に。あんたのことは嫌いだけど」
「ンはは! コリャ手厳しい!」
「で、用事はあるの、ないの」
「ある。一つ君に、訊ねてみたいことがあったのだよ」
あぁ、またか。奴は、このスラムでは変人として有名だった。いつも他の誰も聞いたことのない数え歌を歌い、通りすがりの誰かに正解のない問いを吹っかける、哲学者気取りの狂人だ、と。
私は以前に、単なる気紛れ、面白半分でその問いに答えてしまった。すると、その一度でどうやら気に入られてしまったらしく、以来頻繁に私に会いに来ては、様々なことを聞いてくるようになったのだ。
奴の問いはいつも抽象的で、それこそ哲学的なことばかり。「それがいいんじゃないか!」なんて奴は言うが、生きるのがやっとな此処では、哲学なんてもの、微塵の役にも立たないというのに。
「で、何、聞きたいことって」
「なァに、簡単なことさ。特に今日は君についての問いだからね」
爛々と、奴の瞳が薄暗い光の中で無気味に煌めく。私はこの目が苦手だ。こんな掃き溜めの中で、生きることを謳歌するような、そんな目があまりに場違いすぎて、ぞっとする。
奴が此処に辿り着く前に居た場所が、ここよりも酷い地獄だったのだろうことが、容易に想像出来てしまうから。
逃げ出したのか、逃がされたのか。奴の瞳は今此処で受ける苦しみではなく、かつて居た地獄からの解放の喜びに打ち震えていると、そう思えてならないのだ。
胸中で密かに恐怖する私を知ってか知らずか、奴は私と目を合わせる。そして、勿体ぶるような仕草とともに、私に問うた。
「君は、なぜ生きるんだい」
純然たる疑問、なのだろうか。正解のない質問をしている癖に、奴はまるで正解を期待するように私を見つめる。
さっさと答えて終わらせてしまおう、と思うのだが、言葉は喉の奥で絡まり、自分の無学が少しだけ恨めしくなる。
奴は、何も言わずにただ、待っていた。いつもこれくらい静かならいいのに、と関係ないことを考えながら、私はさっさと思考を纏める。
「……死にたくない、から」
口をついて最初に出たのは、こんな言葉だった。そう、私は死にたくない。死にたくないから、自分の人生を売ってまで生きている。なら、死にたくないのはなぜ。
「いつかを、待っているんだ。いつかここから抜け出して、いつか、陽のあたる場所に……暖かな、世界に、行けるって……希望を捨てきれないから、だから、死にたくない」
自嘲気味な口調で、私なりの答えをそう締め括る。目の前の其奴は、満足げに笑っていた。
「ああ、よかった……君は、本当に、何も変わっていないのだね、01番」
愛おしくて堪らないといった声音で呼ばれた名前は、やけに聞き馴染みがあって。私は名無しのはずなのに、懐かしくて、泣きそうになった。
手癖で描いた絵、というものがあると聞いて、とりあえず小説を手癖で書くとどうなるのかと試してみたところ、こうなりました。これはひどい。