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これまでの講義を評価してくださいと書かれたアンケート用紙には、1から5までの数字が並んでいた。
1にマルをつければ、良くなかったという評価を下したことになる。逆に、5にマルをつければ、その講義は良かったということだろう。そこまではわかる。だが、私にわかるのはそこまでだ。
悩んだ末に私は1にマルをつけた。その下には感想を書く欄があったが、そこは空白にした。
私は1にマルをつけたことを純一に話した。すると純一は、今日まで15回も講演したおじさんはそれを見て嫌な気分になるだろうねと笑いながら話を続けた。
「君らしいね。いつも極端な白黒思考だ」
平然とそう言って、純一はタバコの煙を吐き出した。
私の中には良いか悪いかしかない。どうやら普通の人は今回のようなアンケートでは、1はとても悪い、2はやや悪い、3は普通、4はやや良い、5はとても良いと理解するらしい。中学生のころもらった通知表も同じつくりだった。国語は5で数学は4、そういえば体育は2だったことを思い出す。あの時も、とりあえず国語は良くて、あとは悪かったのだろうと思った。そんな自分の考え方を変だと思うこともなく、中学校ではいつも国語が5だったからというそれだけの理由で、高校に入ってからは文系を選択し、今は国立大学の文学部に通っている。
「僕のことを好き?」
大学からの帰り道、横を歩く純一は吸いかけのタバコを右手にぶら下げてそう聞いてきた。私は純一の顔をまっすぐ見て、即答した。
「もちろん好き。ずっといっしょに居たいと思う」
「じゃあもしも僕が君に酷いことをしたとしたら?」
「私があなたのことを嫌いになることはないわ。ずっと好き」
2人で歩いていた間、話題はそれだけだった。純一は私のことを理解してくれている。それだけで私は幸せだった。このままいつまでも一緒に居たいと思った。
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私の中には良いか悪いかしかないのと同様に、人間関係においても「好き」か「それ以外」しか存在しない。初対面の人間に対してはしばらく話をしてみて、好きか嫌いかを判断するまでは「保留」の時間になる。そうして「好き」に分類された人間とは多くの時間を共有したいと思う。「嫌い」に分類した人間のことが「好き」に転じることは時々あるが、一度「好き」と判断した人間のことを「嫌い」に転じさせたことはなかった。その分、「好き」に分類された人から「嫌い」と判断されたときはいつも酷く傷ついた。
時折、そういうことがあるのだ。昨日まで仲良く話していたはずの友達から避けられていると感じたりすると、私は不安になる。おそらく相手から「嫌い」にカテゴライズされてしまったのだろうと私はすぐに気づくのだが、私はそんなことをされてもいつまでも「好き」なままなので、とても悲しい気持ちになる。
世間一般の人間たちはそんな時どうしているのだろうか。「好き」な相手から自分が遠ざけられて悲しくならないのだろうか。そんなことがあっても平然と過ごせる人間は私から見れば異常な精神力の持ち主だ。
純一の部屋は家賃3万8千円で、学生の立場をわきまえた6畳プラス台所3畳の好感のもてる部屋だった。本来、単身用で2人で住むことは大家が許可していないのだけれども、私はいつもここに帰ってくる。純一と一緒にいる時間はとても幸せで、純一も私がそこに帰ることに何の疑問も抱いていないようだ。部屋に来たからといって、お茶を出してくれるわけでもなく、テレビをつけるわけでもない。私たちはただ同じ空間に座っているだけだった。少し時間がたてば二人で食事の準備をして、同じものを食べる。もうすこし時間がたてばお風呂には別々に入って、寝るときは二人とも同じ布団に入る。布団に入ると、純一は私の体をまさぐってきて、セックスを求めてくる。どうやら付き合っている男女がセックスをすることは大学生にとっては当たり前らしかった。しかし、残念ながら私は純一とのセックスに快感を覚えることはなかった。
無意味と有意義。ずっと長い間、私にはその二種類の時間しかなかった。それ以外の時間があるなんて考えたこともなかった。純一といる時間はいつも有意義だ。だとすればこの時間は何なのだろう。純一はそれが当然と言わんばかりにコンドームをつけて私に挿入する。無意味なセックスと有意義な純一との時間が入り混じる。どうせならやめてしまいたい。このことを純一に打ち明けたら純一は私を嫌いになるだろうか。
そうなったとき、私は自分を保つ自信がない。