姫君について
※番外編/本編よりも前の話。
ミゼル=ノエンナ・ハスニカを嫌う貴族は決して少なくはない。
ノエンナ領主ハスニカ家の長女である彼女の微笑みは誰をも魅了するが、誰に対しても向けられるものではないからだ。
彼女は身の回りに寄ってくる者を選ぶ。自分が認めた相手とそうでない相手、利用する価値もない相手に対する態度があまりにも露骨であるため、魅力的な笑顔を与えられなかった者は彼女を貶めることで自分を慰めるしかなかった。
男は「いくら魅力的でもあんなわがまま女にはつき合えない」とこき下ろし、女は「相手によって態度を変えるなんて感じが悪い」とひがむ。
しかし彼女が地元の有力貴族を誘惑して領地をまとめ上げたのも、権力者に媚びることによって敵対領地の貴族を大人しくさせたのも事実だったので、むしろ陰口を叩く側が無能な敗北者と後ろ指を差されるのが現実だった。彼女は聖女でも偽善者でもないのだから。
それほどまでに魅力的なミゼルが結婚をした。領地を守るための政略結婚だ。相手はかねてより親交があり、急速に力をつけてきた有力貴族ツァイト家の次男。
なぜ長男でなく次男を選んだかというと、家同士の力関係で妥協した――わけでは決してなく、単純に自尊心の強い長男より次男の方が間が抜けていて言いなりになりそうだと思ったからだ。跡継ぎという有力株を見すごす事情はもちろん他にもあったのだがそれはまた別の話。
目論見通り、夫は妻のお願いには逆らわなかったし、わざとらしく甘えて笑顔を振りまけば顔を赤くして従った。ミゼルにとって好かれることは日常的で、彼女が本気を出せば落とせない男はいない。夫のことは好きでも嫌いでもなかった。外見は至って普通、童顔は可愛げがあるかもしれないが群衆に紛れたら見つけ出すのは困難に違いない。主体性がなく衝突を避けるようにころころと意見を変える。毒にも薬にもならない、という言葉が当てはまるだろうか? ただし素晴らしい長所がある。彼は政略結婚によって誰もが羨む女を手に入れたというのに、それを自らの手柄と勘違いして驕ることはなく、妻を支配しようとも束縛しようともしなかった。つまり身のほどを知る程度には謙虚で卑屈だった。焦れったくなった彼女の心をほんの少し、動かしてしまうくらいに。
「ねえダスト様、どちらにいらっしゃるの? 今日はずっと邸にいるって仰っていたのに……まさか気が変わって私を置いて出かけたりしてないわよね」
使用人に呼びに行かせたものの、いつまで経ってもやってこない夫に痺れを切らしたミゼルは自分の足で探していた。
そもそも待たされるという境遇に彼女は慣れていない。趣味も性格もまったく違う二人が日中同じ場所にいることは珍しく、こんな貴重な休みは滅多にないというのに。支配しない、束縛しない、ということは裏を返せば構ってくれないという意味にもなる。こんなに魅力的な女を妻にしておきながら一体どういうつもりなのか。彼女は夫の予定を把握してから他の男との約束をすべて断っている。
「十分に有り得るわ、身体を動かしてないと落ち着かないんですもの。だからといって私を放っておいて良い理由にはならないけれど」
外に出れば手がかりがあるかもしれない。というよりも、後であちこち探し回ったと文句を言うために捜索範囲を広げるつもりだ。機嫌を損ねた妻に夫がぺこぺこと頭を下げるのはもはや日常茶飯事――玄関に向かったところで外から戻ってきた使用人と鉢合わせた。
「ああ、奥様、ちょうど良かった。お庭にいらっしゃいましたよ」
「ありがとう。一人で大丈夫よ、ご苦労様」
ミゼルは使用人に対しても惜しみなく笑顔で魅了する。彼らを便利に扱うにはそうするのが一番楽だと分かっているからだ。
夫は陽の当たる区画で蔦の這う外壁にもたれかかってうたた寝をしていた。眠っているといつもよりずっと表情が子どもっぽい。周りに彼の上着が散らばっている。きっと運動でもして汗をかいたのだろう。外周を走ったりしたのだろうか?
「風邪を引いてしまうわ」
陽射しは暖かいといっても風がある。ミゼルは脱ぎ捨てられた上着を拾って軽く埃を払うと夫の肩にかけてやった。そして隣に腰を下ろして横顔を覗きこむ。疲れて眠ってしまうほど身体を動かすなんて、そんなに邸の中は退屈なのだろうか。
……この私がいるのに。
誰もがミゼルの笑顔を求めて我先にとやってくるのに、彼はあまり自分からは近寄ってはこない。高嶺の花を遠くの崖の下から見上げて「綺麗だね」と笑って、ただそれだけ。
ミゼルは彼のことが好きでも嫌いでもなかった。お互いを良く知らないまま結婚したのだから当たり前だ。しかし。
「可愛い寝顔」
指先でつん、と頬に触れてみる。声が届いたのだろうか。きっと眠りが浅いのだろう。う~んと小さくうなった後、彼は夢の中から彼女に応えた。
「……きみのほうが、ずっとかわいいよ……」
「……ばか」
ミゼル=ノエンナ・ツァイトは夫のことが好きである。理由なんて、知らない。
【終】