2−3
朝、下駄箱を見たら泥団子がつめこんであったのは、澪とトイレで話したあの一件から数日後だった。
さっと血の気が引く。
辺りを見回す。
誰もいない。
通りかかった一年生が、私と下駄箱に気づいてぎょっとした顔をしたが、すぐに視線を逸らして行ってしまった。
その方が、いいんだけれども。下手に反応されるよりは。
どうしよう。
泥にまみれた上履きをひっぱりだす。
先生にバレたら面倒なことになる。叔母さんにもお母さんにも、知られてしまう。どうにかしなくっちゃ。
仕方なく、靴下のまま流し場にむかい、上履きの泥を洗い流す。
雑巾とちりとりを、廊下の掃除用具置き場から借りてくると、下駄箱を掃除した。
作業をしている私の後ろを、何人かのクラスメイトが通りすぎる。
みんな、一度ぎょっとしたように私を見てから、それでも何も言わずに通り過ぎていった。
手伝ってくれるようなひとなんて、もちろんいなかった。
ようやく、なんとなく綺麗になった、ような気がする。
雑巾とちりとりを片付けていると、
「あんた、なにしてんの」
背中に声をかけられた。
びくっと肩が震える。
振り返ると、ジャージ姿の澪が仏頂面で立っていた。
テニス部の彼女は、今日は朝練だったのだ。私よりも先に叔母さんの家を出ていた。今終わったところだろうか。
「上履き、どうしたの?」
流しに置いたままの上履きを見た彼女に、重ねて詰問される。
「……ちょっと」
「ちょっとなに」
誰かにやられた、なんて言いたくなかった。言えなかった。
そんなこと澪に言ったら、叔母さんに知られてしまう。叔母さんに知られたら、お母さんにだって。
そんなの、困る。
「汚しちゃって」
「なんで?」
廊下の流し場で仁王立ちになった澪に、次々と尋ねられる。
そんな私達は一目をひくのか、ちらちらと通り過ぎる生徒達が視線を向けて遠ざかっていく。
どうしようどうしよう。
必死に頭を働かせる。
「誰か、が」
「誰かが?」
「……泥だらけのまま、校舎に入ったみたいで。廊下が汚れてて。それを、その、掃除してたら、汚れたの」
苦し紛れの言葉だったが、我ながらいい嘘だと思った。手に持った雑巾のいいわけにもなる。
「……ふーん」
澪は私を見下ろすようにして呟くと、
「いい子ちゃんしてるからそういうことになるのよ。廊下なんて汚したやつが綺麗にすればいいんだから」
ふんっと鼻をならして続けた。
「……うん」
いいわけにはなったけれども、澪からの評価をまた、下げてしまった。まあ、いまさらだけれども。
「職員室の横」
はやくどこかに行ってくれないかな、そう思ってうつむいていると、上からつまらなさそうな澪の声が降って来た。
「え?」
「お客様用のスリッパがあるから、それ履いてなさいよ」
「……そういうの、勝手に借りたらまずいんじゃないの?」
「いい子ちゃんねー」
また鼻で笑われる。
「みんなやってるわよ。そのまま靴下で過ごす方がなんか言われるよ」
それもそうかもしれない。
「……わかった」
ありがとう、と小声で続ける。
澪は一度軽く頷くと、颯爽と教室に戻って行く。
私は濡れた上履き片手に、教室とは反対側、
職員室に向かって歩き出す。
「ねぇ」
その背中に、また声をかけられた。
振り返ると、澪が廊下の真ん中で腰に手をあてて立っていた。
通りすがりの人が、邪魔そうな顔をしている。
「なんかあったらいいなさいよ」
真っすぐに目を見て、そう言われた。
思わず逸らす。力強い瞳に耐えられなくなって。
「……ないよ」
そうして小さい声で呟いた。
「あったらって言ったでしょう。あんたに何かあったら、母さんに怒られんのあたしなんだからね」
不満そうにそう言うと、今度は私の返事も待たずに歩き出した。
何もないし、言えないし、言わない。
そんなこと、できるわけがない。
ああ、誰か、ここから、連れ出して。




