5話目
ジョバンニの声に起こされたのは昼過ぎだった。
まだ重い体をもたげ、ペルジーノはジョバンニを探した。彼は窓辺から外の様子を伺っている。
「どうかした」と少しかすれた声で尋ねる。
「ベリーニ夫人が来た。今さっきシスタァ達と中に入っていったよ」
ジョバンニの眉は顰められている。が、すぐにこちらに向き直ると口元を皮肉な笑に歪めた。
「用意したほうがよさそうだな。あの夫人は身なりにうるさそうな顔だ」
気持ち悪いけだるさを覚えながら、ペルジーノは洗面台で顔を洗った。ほどけかけた胸元のリボンを直し、ブラウスの皺を手でなでつけて伸ばしてからピーコートを着込んだ。
荷物を確認しているとジョバンニが呼んだ。その声に振り返るとジョバンニは机の上にあった本をこちらに投げてよこした。表紙の色から察するに、先程まで彼が読んでいたものだ。
『アンドレ・ジイド』と著者名が記されていた。
ジョバンニは窓辺にもう一度座りながらこちらに目も向けずに「餞別」と呟く。
ペルジーノは笑う。
「君らしい本だけど、教会の図書館には置いていないだろう。一体どこから手に入れたんだ」
「秘密」
「君の個人主義はここから来ているんだな」
ペルジーノはそう言いながら大切そうに本をタオルで包むと鞄の一番奥にしまいこんだ。
「ありがとう、ジョバンニ」
ペルジーノは鞄を持つとドアノブに手をかけた。もう一度彼を振り返る。ジョバンニはまだ窓辺に腰掛けていた。
ちょうど太陽が雲に隠れ、部屋は影に暗く沈んだ。ジョバンニの青い目と彼自慢の金髪が窓から漏れる微かな光を反射した。ペルジーノはジョバンニの強さと弱さをいっぺんに見せつけられた気がして、目を伏せた。
「俺は見送らないからな」
「わかってるよ、君が他の生徒に混ざって僕を送り出してくれるなんて、僕にも想像できない」
ペルジーノは彼の弱さを愛おしいと思った。
ドアを開ける。そしてふと気休めな言葉が口をついた。
「また来る。君に会いたいと思ったら、中庭から口笛を吹くよ」
ジョバンニが頷くのを見てから、ドアを閉めた。
ベリーニ夫人の馬車に乗り込む時、ペルジーノはあたりを見回したが、やはりジョバンニは姿を見せなかった。たくさんの生徒たちがペルジーノを取り巻いた。カルマに促されてマルコが緊張気味に前に出てきた。そして俯き加減のまま消え入りそうな声で言う。
「ごめんなさい、ペルジーノ。元気でね」
最後の言葉はひどく震えていた。同時に手を差し出してきた。
顔を上げたが、涙を堪えるのが精一杯だとわかる。ぶるぶると唇が震えている。差し出した手にはロザリオがおさまっていた。マルコたちが実習で作ったものだ。十字架の周りに彫られた線が不格好に歪んでいた。
「もらってやってくれ、ペルジーノ」
口の端から嗚咽を我慢するマルコに代わり、カルマが言う。
ペルジーノはマルコを覗き込み微笑んだ。
「ありがとう、マルコ。大切にする」
ロザリオごとペルジーノはその小さな手を握り、「君に神様のご加護を」と一度きつく抱きしめてやる。マルコは堰を切ったように大声を上げて泣きじゃくった。だが決してペルジーノを引き止める言葉は言わなかった。
馬車に乗り込むとすぐに馬車は走り始めた。見送りの余韻も残せないままだ。教会の金属質な高い鐘の音と生徒たちの声がペルジーノの心に響く。そして部屋でこの音と声を聞いているはずのジョバンニの青い瞳を思い出した。
「気分が優れないの、ペルジーノ」
夫人の甘い声で我に返る。
ペルジーノは慌てて首を振った。怪訝そうにこちらを見ていた夫人の顔は和らぎ、笑みを浮かべた。
「半刻もすれば屋敷には着きますからね。マドリーニャも貴方に会うのを楽しみにしているわ」
「マドリーニャ」
オウム返しするペルジーノを見て、夫人は笑い声をたてた。
「あらあら、ごめんなさい。まだ話していなかったかしら。アンドレアの弟なのよ。今年で十歳になるのよ」
マルコと同い年だとペルジーノは思う。
「留守番なんですね、教会の生徒も紹介したかった」
「あの子は、ここまでは来れないのよ」
夫人は馬車の窓から外を見やる。
「あの子は脚が使えないから」
ベリーニ夫人はそう言って長い睫毛を伏せて息をつく。ペルジーノはそれを演技がかった仕草だと思った。
「すみません、余計なことを」
ペルジーノは夫人を伺うように覗き込んだ。潤んだ彼女の瞳がペルジーノを捕らえた。
「貴方も家族になるんですもの、知っておいたほうが良いわ。あの子九歳になる頃に高熱を出してね、その熱が脚に伝染ってしまったのよ。お医者様も手がつけられないと仰ったわ」
ベリーニ夫人はまたため息をついた。
「マドリーニャはもともと身体が弱くて大変だったの。特にその頃は何度も熱を出していてね、アンドレアも難しい年頃だったからよく私にやつ当たって。私もとてもとても苦しかったの」
「そうでしたか」
ペルジーノは表向きの顔を作り気の毒そうに夫人を見つめた。夫人はペルジーノの表情に驚いたように慌てて言う。
「今はそんなことはないのよ。マドリーニャはとても素直な子だし。アンドレアは年頃で親に反抗してみたかっただけなんだと、私、今ならわかるの」
夫人は何かを思い出したように悲しげに視線を落とす。
「アンドレアはマドリーニャをとても可愛がっていたから、彼の脚があんなことになってしまってからずっと私に冷たかったの。でも私にとってはアンドレアも可愛い子だったのよ。それがあんな発作が」
夫人は言葉に詰まり、真珠の装飾が施された小さなバックから香水を染み込ませたハンカチを取り出した。
「ごめんなさい、貴方を前にして。あの子のことはもう忘れないと」
「いいんです、アンドレアはベリーニ夫人の大切な息子さんだったのですし、それを忘れろだなんて無理な話です」
「ありがとう、ペルジーノ。貴方って本当に優しい子ね」
ベリーニ夫人はハンカチから目を覗かせペルジーノを見詰めた。その視線はペルジーノに執拗に絡みつくようだった。それを避けるために、ペルジーノは足元に視線を落とす。するとベリーニ夫人はペルジーノとの距離を詰め、手を取った。夫人の手のひらはペルジーノの皮膚に吸い付くようにしっとりとしていた。
生々しい感触に戸惑うペルジーノに婦人はにこやかに微笑んだ。
「本当にこうしているとアンドレアがまだ生きているよう。ペルジーノ、アンドレアになってとは言わないわ。でも私のこの痛みが和らぐよう家族としてこれからは振舞って頂戴」
「えぇ、その、つもりです」
困惑する彼をよそに夫人の赤い唇は嬉しそうに動く。
「良かったわ。私、そう言ってくれなければどうしたらと思っていたのよ。確認しておきたかったのよ。ごめんなさい。急なことだったから心配だったの」
ようやく夫人はペルジーノの手を離し元のように姿勢正しく座席に腰掛けた。揺れる馬車の中、ペルジーノは握りられていたその左手を見詰めた。感触がどこかいやいらしくペルジーノの中にとどまっていた。女という感触を感じたような気がして気恥ずかしい。
母親に対する感触はこんなに生々しいものなのだろうか。
家族がいないペルジーノにとってそれはわからないものだった。
夫人のハンカチに含まれた香水の匂いが馬車中に広がって目眩がした。