3話目
しばらくしてドアがノックされた。マルコがおずおずと顔を覗かせた。
「ペルジーノ、いるの」
「マルコ」
ベッドで寝転がり、ジョバンニのことを考えていたペルジーノは驚いて起き上がる。
「ごめん、寝ていた」
「いや」
マルコは少しはにかみながらペルジーノの前まで来るとベッドを指差す。
「座ってもいい」
ペルジーノが横にずれると、マルコは腰を下ろしてペルジーノを見上げた。
「本、返しておいたよ。ポールのやつ、返却者が違うとかなんとか言ってなかなか返させてくれなかったんだ」
マルコはしかめっ面をして床にとどかない足をブラブラさせる。四歳年下のマルコは未だ仕草に幼さがあった。そんなマルコを見てペルジーノは微笑を浮かべる。
「悪かったね」
「いいんだ、別に。でも僕シスタァたちがなんだったのか気になって。さっきも来てみたんだけれどジョバンニに追い返された」
マルコは口を曲げる。
「あぁ、大したことじゃ、なかったんだ」
ペルジーノは目を伏せた。マルコは目を瞬いて首をふいと傾げてみる。
明日になればわかることだがなぜか今は言う気にはなれなかった。ジョバンニが出て行った時の淡く潤んだ瞳が思い出される。
ベッド横の時計を見る。すでに午後七時を回っていた。
「マルコたちのクラスは食事の時間じゃないか。もう行ったほうがいい」
「もう少しくらい、平気だよ」
マルコは微笑んだ。まだ足をブラブラさせている。
「ダメだ、本当はここにだって許可なしでは来てはいけないんだぞ」
「でも見つかったって平気だよ。シスタァたちはあまり怒ったりしないよ。ねぇ、いいでしょ。ペルジーノ」
マルコはペルジーノにもたれかかる。蜂蜜の甘い匂いがした。
「いや、ダメだ」
突然の声に驚いて、二人がドアを振り返ると先ほどよりもまして不機嫌そうなジョバンニが立っていた。強くマルコを睨みつけている。マルコは体を引きつらせた。
「いいか、マルコ。十、数えるあいだに出て行け」
ジョバンニはわざとらしいほほ笑みを浮かべる。マルコはジョバンニが数え出すより早く逃げるようにして部屋を出ていった。ペルジーノは小さく笑い声をたてる。
「さすがだな。僕じゃこうはいかない」
「当たり前だ」
ジョバンニはドアを閉めるとペルジーノの前まで来る。ペルジーノは黙って彼を見上げたが、彼はバツが悪そうに目をそらして窓際に座った。
「どこに行っていたの」
「煙草。お前、ここで吸うなってうるさいだろ」
「やめたんじゃなかったのか」
「気が変わったんだよ」
ジョバンニは窓の外を見やる。
暗い馬車道が街燈で仄かに照らし出され、チラチラと雪が降っているのがわかる。道にはうっすらと雪が積もり始めていて、真新しい馬車の車輪跡が教会から伸びていた。それを見たジョバンニは眉を顰める。
この雪はすぐに止みそうだった。
翌朝、部屋の小さな洗面台でペルジーノが顔を洗っているとドアが開く音がした。振り返るとジョバンニが立っている。彼は既に制服を着て、赤い石のついたネクタイピンで黒いリボンを綺麗に結んでいた。
「おはよう、やたら早いじゃないか」
「まぁね。ミサは八時だったよな」
「そう、まだ一時間以上先だ」
「なら付き合えよ」
ジョバンニは入口の壁にもたれかかり顎で外を示す。ペルジーノが頷くと、ジョバンニはクローゼットから二人のピーコートを取り出す。ペルジーノの用意を待ってから二人は教会の中庭の方へまわり、茂みに埋もれたベンチに腰を下ろした。この場所は教会の渡り廊下からは死角になっており、人目につかない。建物に仕切られた四角い薄青色の空が見える。いかにも冬らしい、寒々とした空だった。見上げたペルジーノの息は白くなって舞い上がる。昨日の雪は既に溶け地面は少し湿っていた。目を閉じると湿気をほどよく含んだ風が頬をしっとりと撫で付ける。
「寒いか」
ジョバンニはこちらを見た。
「いや、平気」とペルジーノは首を振る。ジョバンニはポケットから煙草の箱を取り出して、寒さで赤くなった唇にくわえる。火をつけると紫の煙がペルジーノの息と同様に空へと立ち上がった。
ペルジーノは手を差し出す。ジョバンニはその手を一瞥して、
「なに」と視線を向ける。
「一本ちょうだい」
「珍しいな、嫌いじゃなかったのか」
「気が変わったんだよ」
ペルジーノは口の端を持ち上げ笑う。つられてジョバンニも苦笑を浮かべた。ジョバンニはペルジーノに煙草をくわえさせ自分の煙草から直接火を移す。そのあいだペルジーノはジョバンニの顔をじっと見つめた。視線に気づいた彼もまた見つめ返してくる。
しばらく静寂が続く。
鳥が一羽、甲高い声を上げて庭の木から飛び去っていく。
「やめようか。行くの」
ペルジーノが呟くとジョバンニは目を丸くさせたがすぐに苦笑し煙を吐き出す。光は教会の壁と屋根によって遮られあたりは仄かに薄暗かった。
「俺の機嫌取りかよ」
「そんなんじゃないけど、なんだか」
ペルジーノは口ごもる。
自分が行きたくなくなったのか、それとも彼が言うようにただの機嫌取りなのかはペルジーノ自身にはわからなかった。ただ行かない方が良いのではという思いが急に胸の中に湧き上がってきたのだ。
「行けって。昨日言ったことなら気にするな。機嫌悪かったんだ」
「ジョバンニ」
ジョバンニは空を仰いでまた煙を吐き出した。ペルジーノはしばらくその横顔を見つめていたが自分も空を仰いで煙草をふかした。
四角く仕切られた空に煙が散っていく。