2話目
「お入りなさい」と司教の声がする。
「失礼します」
口元に微笑を浮かべペルジーノは部屋へ入る。
これは彼の表向きの顔だ。自然と大人の前ではこの表情になってしまう。しかしこれがどれほど大人たちに好感を与え、かつ自分の地位を向上させるかペルジーノは心得ていたし、彼はどのように立ち振る舞えばいいのかを教会で暮らすうちに身に付けることに成功していた。
部屋には司教とシスタァが二人、そして見慣れない夫人が一人こちらを振り返っていた。ペルジーノを見た途端、夫人がため息をつく。
栗色の髪を結い上げ、えりあしは長く垂らしてある。ボルドー色のワンピース姿の夫人のウエストは不自然に細く、目に付いた。そんなにも若くはないのだろう、コルセットで寄せ上げられた胸に若さは感じられない。少したるんだ胸元に生々しさを感じる。
夫人は真っ赤な紅を点した唇で微笑みかける。ペルジーノも反射的に微笑み返した。
シスタァの一人がペルジーノを夫人の前に行くように促しながら言う。
「さぁさ、ベリーニ夫人にちゃんとご挨拶するのですよ」
「はじめまして、ベリーニ夫人。ペルジーノと申します」
言われるがまま挨拶すると、彼女はしっとりとした声で言った。
「本当に、こうして近くで見ると余計にアンドレアそっくりだわ」
「アンドレア」
ペルジーノが繰り返すと司教が言った。
「ベリーニ夫人のご子息ですよ。今日は貴方にとても良いお知らせがあります」
ペルジーノが向き直るのを待って、司教は続ける。
「こちらにいらっしゃるベリーニ夫人がぜひ、貴方を養子になさりたいと仰ってくださっているのです」
ペルジーノは小さく声を上げて夫人の顔を見た。夫人は覗き込むようにして微笑みかける。
「前々からアンドレアと二人でこの教会に来させていただいていたのよ。そうしたら図書館で貴方の姿を見かけてね、はじめはアンドレアが二人いるかと思ったほど」
夫人はそれから寂しそうに顔にシワを寄せる。
「そのアンドレアが急な発作で亡くなってしまったのよ。つい三日前に。あの子がいなくなった途端心に穴が空いたように辛くて辛くて。そんなとき貴方のことを思い出したの。アンドレアそっくりの貴方ですもの、きっとわたしの寂しさは癒えるのではないかと、そう思ったのよ」
夫人の語尾は高揚して、まるで新しい遊びを思いついた子供のように無邪気だった。
ペルジーノにとって、外の世界へ出ることは都合が良いことだった。もともと神父になるつもりもなかったし色々なものを見て回るには教会の規則は足枷でしかなかった。しかし、この夫人が気になる。ほとんど思いつきとしか言い様のないこの養子縁組に対していい気分はしない。アンドレアが誰なのかも知らなければ、この夫人もまた、全くの他人だ。
ペルジーノが思案していると夫人は察したのか、少し声を低くし言う。
「困惑するのも無理ないわ。急な話ですもの。でもね、ペルジーノ。わたしどうしても貴方が必要なのよ。家族として暖かく遇するつもりよ」
「ペルジーノ、滅多とないお話ですよ。きっとこれも神の御導きでしょうに」
司教はペルジーノを見つめ、加えて周りのシスタァたちも「その通りですわ」と頷きあった。その様子を見てなおも渋っていると夫人は目を潤ませ始めた。
「十年以上も慣れ親しんだ教会ですものね、早々簡単に立ち去ることはできないのでしょう」
「そんなことありませんわ、ほかの生徒に会いたいのならばいつだって来られるのですから。ペルジーノ、お決めになってしまいなさいな。貴方にとって良いお話なのですよ。人の痛みを共に分かち合い、そして慰め癒す。素晴らしいことでしょう」
「ベリーニ夫人は良家のご夫人、貴方をきっと遇してくれます」
シスタァたちは口々にそう言ってペルジーノの返事を迫った。はじめから有無を言わせないためにここへ呼ばれたことをようやくペルジーノは悟った。この教会の生徒数が余分なことくらい察しはつく。
仕方なしにペルジーノは力なく頷いた。途端、夫人は笑みを浮かべ彼を力いっぱい抱きしめてその頬に接吻した。強く甘い香水の匂いがまとわりつく。
「ありがとう、ペルジーノ。貴方を暖かく迎えるわ」
ベリーニ夫人はもう一度ペルジーノを抱きしめた。
部屋に戻ると相部屋のジョバンニがベッドに寝転がり本を読んでいた。ペルジーノがドアを閉めると素早く起き上がり、乱れた金髪をかきあげた。
「マルコがここまで来たぜ」
「いつ」
「今さっきだよ。お前が司教の部屋に呼ばれたって心配しながらな」
最後の方に笑いを含ませてジョバンニは言う。ペルジーノは向かいのベッドにのろい動作で腰を下ろしジョバンニを一瞥する。ジョバンニは立ち上がるとペルジーノの横に腰を下ろした。
そして首筋に鼻を近づける。
「やめろよ」
ペルジーノが身を引くと、ジョバンニは笑い声を漏らした。
「すごい匂い。どこの女と抱き合ったんだよ」
「うるさいな、好きでそうしたんじゃない」
「口紅、ついてるぜ」
ジョバンニは自分の頬を指す。ペルジーノは頬を押さえてから強く擦る。取れたような気配はなかった。なおも擦るペルジーノの手をジョバンニがのける。
「強く擦りすぎだ、赤くなってる」
ジョバンニはハンカチに唾液を含ませ、それでペルジーノの頬をふく。
「養子になるんだ」
ペルジーノの小さな声にジョバンニの手が止まる。青い瞳はかすかに揺れている。
「誰の」
「町外れの屋敷の夫人だよ、ベリーニ夫人。知ってるだろう、何度かこの教会に寄付金納めたってシスタァから聞かされた」
「あいつか」
ジョバンニは舌打ちする。
「断らなかったのか」
「あの状況じゃ無理だったんだ。それに僕だって外に出てみたいっていう欲求はあった。いい機会だと思ったんだ」
後半は言い聞かせるようにつぶやく。
「莫迦、なんで断らなかったんだ」
ジョバンニは眉を顰めていた。ペルジーノは不審に思い首をかしげた。
「ジョバンニ」
「いつ、行くんだ」
「明日だよ。荷物はさほどないから。ベリーニ夫人はかなり急いていたし。あの人息子が死んだんだって」
「それで。お前を代わりにするってわけか。都合がいい女だな」
ジョバンニはペルジーノを睨みつけ早口で言う。ペルジーノは大げさにため息をつきベッドに横たわった。
「僕だってそう思ったさ。でもとにかく僕はここを出てみたい」
「今じゃなくても出れるさ。なんだって今なんだ。お前もお前だよ、そんな女の養子になったってなにも楽しくなんかない。むしろ厄介なことになるぜ。そうだろ」
いつになく饒舌に言い寄るジョバンニをペルジーノは起き上がり、怪訝に見つめる。
「一体どうしたんだよ。君らしくないな」
「俺はただ」
ジョバンニは言いかけてペルジーノを見つめる。ペルジーノもまた見つめ返す。彼の青い瞳はさらに淡く揺れているようだった。それに気づくとほぼ同時にジョバンニは部屋を出ていった。
「ジョバンニ」
ペルジーノの声は勢いよく閉められたドアによって遮られた。