お嬢様の難題(後篇)
とろりとしたきつね色の餡が白い塊の上にたっぷりとかけられた。
上に何か刻んだ緑色のものが散らされる。店員によるとネギというハーブらしい。
湯気に混じって心地良い香りが鼻をくすぐる。場末の居酒屋と最初侮っていたのが、嘘のようにヨハン=グスタフはこの料理の創意に心を奪われていた。胃の辺りに忘れていた空腹感が蘇ってくる。
早く、早く食べたい。
店内は暖かいとはいえ、まだ指先にも身体の芯にも痺れるような寒さが残っているのだ。
隣に座るヒルデガルドはと見ると、もっと滑稽だった。
子爵令嬢としての躾けが行き届いているので自制をしているが、膝の上に置いた右手を微かに動かしては戻し、動かしては戻ししている。視線の先には料理と匙。交互に見つめながらそわそわと落ち着かない風情なのは横から見ていても微笑ましい。
普段は努めて大人びた風を装っているが、こういう仕草の端々には年相応の少女の趣きがある。
「はい、餡かけ湯豆腐です。熱いので気を付けて召し上がって下さいね」
「ユドーフ、ね」
店員の女性の注意も終わらない内に、木の匙を手に取った。
餡が零れないようにふるふると震える白いユドーフをそっと掬い、口に運ぶ。
「あふっ」
熱い。
口の中でユドーフがほろりと崩れる。餡と絡まり、舌の上にとろりとした食感が広がった。
もう一口。
今度はふぅふぅと息を掛けて冷ましてから。
ヒルデガルドもふぅふぅと小さな愛らしい唇をすぼめて必死に吹いている。
掬う。
吹く。
食べる。
掬う。
吹く。
食べる。
「あふぉふ」
大きく口から湯気が上がる。噛むだとか舌の上で転がすとか、そういうややこしいことは何もない。
ただ、温かさと優しい味わいだけが喉を通って身体に熱を与える。
冬だというのに、汗が止まらなかった。
口が、喉が、胃が、全てが暑い。
高価そうなガラス製のグラスから水を飲む。冬にこんな冷たい水を有難いと思ったことはない。
「……美味しい」
小さな口に一生懸命ユドーフを運びながら、ヒルデガルドが呟く。
「……臭くなくて辛くなくて酸っぱくなくて苦くなくて固くなくてパンでも芋でもお粥でも卵でもシチューでもなくて、美味しい」
親の愛を、あまり享けて来なかった子だ。
それに配慮して、周りの者にこの子については出来る限りのことをしてやるようにと命じたのはヨハン=グスタフだった。利発な姪が、段々と自分に向けられる愛を試すようになってしまったのは、元を辿ればヨハン=グスタフ自身の所為だという自覚は確かにある。
「美味しいかい、ヒルデガルド」
「まぁまぁね」
そう言いながら、ユドーフにヒルデガルドが向ける視線は真剣だ。
行儀悪く順手で匙を握り、息を吹きかけながら口へ運ぶ。
匙の方に顔を寄せ小指で送り毛を掻き上げる姿は、亡くなった彼女の母によく似ていた。
「――うん、まぁまぁね」
もう一度ヒルデガルドが呟く。
食べ終わっても、空になった鍋を見つめている。欠片まで全て食べつくして、中身は綺麗に空っぽだ。
ユドーフを煮ていたお湯だけが、クツクツと小気味のいい音を立てている。
「一つ、不満があるのだけれども」
「なんだい、ヒルデガルド」
「その……少し、量が足りないわ」
驚き、そして笑った。偏食で食の細いヒルデガルドも、このユドーフは気に入った、という訳か。
確かにこれは良い。何というか、冬の寒さを味方に受けた美味さだ。淡白な味わいだが、それが冷え切った身体をほっとさせる。
「そういう訳だから、もう一度作ってくれないかね?」
女の店員に注文すると、最初にこりと微笑み、次いでやんわりと拒否された。
「湯豆腐は最初の一品です。ここから色々出てきますので」
そう言って鍋と火鉢を片付けると新しい皿をどんどん運んでくる。
煮物、焼き物、揚げ物……どれも見たことのない料理ばかりだ。
ヒルデガルドは目をキラキラとさせ、一つ一つ口に入れては小さく身悶えしている。よほど美味しいのだろう。
色々と心配をしていた自分が馬鹿らしくなり、具の随分と大きいスープ料理にフォークを入れる。
これも味が染みていて、美味い。
ふた月後、ヒルデガルドは嫁に行く。
それまではせめて毎週、この店に連れて来てやろう。ヨハン=グスタフは密かにそう決めた。
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