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古都の年越し

 ベルトホルトは約束通り陽の暮れる少し前にやって来た。

 妻のヘルミーナも一緒だ。大きな頭陀袋を背負うベルトホルトの表情にはいつもの険しさはない。身籠った妻を労わるようにして居酒屋のぶの引き戸を潜るベルトホルトの表情は慈愛に満ちている。


「いらっしゃい、ベルトホルトさん」

「今日は世話になるよ、シノブちゃん」

「はい、大将も中で待ってますよ」


 ベルトホルト夫妻を迎え入れながら、しのぶは冬の夕陽に目を細めた。

 <馬丁宿>通りは昨日夜半から昼にかけての雪で真っ白に染まっている。その照り返しが眩しいのだ。大みそかの今日は人通りも少なく、降った雪がそのまま溶け残っていた。


「シノブちゃんとタイショーの二人だけかい?」


 ヘルミーナのために椅子を引いてやりながらベルトホルトが尋ねる。


「ええ。どうせ今日はお店も開けていませんし。エーファちゃんとハンスは実家に、リオンティーヌさんは同郷会というのに参加するそうです」


 同郷会というのは故郷を遠く離れた人たちの互助会のことだ。

 商業の盛んな古都にはリオンティーヌのように故郷を離れて暮らす人が多い。そういう人たちは商会を中心にして同郷会を作り、日々の暮らしを支え合う。

 普段は金の貸し借りや貸家の斡旋が主な仕事だが、大みそかには集まって故郷の料理を振舞うのが慣わしだ。リオンティーヌが参加しているのは東王国南部の出身者で作る同郷会で、今日はとっておきの料理を作るのだと張り切っていた。


「そっか、それなら少し持って来過ぎたかもしれないな」


 肩から下ろした頭陀袋からベルトホルトが取り出したのは木の皮の包みだった。中からチーズの美味しそうな香りが漂ってくる。


「オレの実家から届いたチーズ(ケーセ)だ。我が家では代々、これでフォンデュをすることになっているんだ」


 衛兵隊の中隊長であるベルトホルトの故郷は帝国でも峻険な山岳地帯として知られる。主な特産品は傭兵と乳製品と言われるだけあって、チーズの味が自慢だとしのぶは聞いたことがあった。


「チーズフォンデュって私、食べたことないんです。ヘルミーナさんは?」

「私もです。ご実家からチーズが届いても、大みそかに食べるんだって」


 くすくすと笑うヘルミーナの頬はのぶで働いていた頃よりも少しふっくらとして見える。まだお腹は目立たないが、新たな命を身籠ると女性は雰囲気が変わるものなのだろう。


「ベルトホルトさん、頼まれていた具材だよ」


 店の奥から顔を出した信之の手には食材のたっぷり盛られたざるがある。

 ソーセージや厚切りのハムに始まり、バゲットや温野菜、さっと湯通しした海老や貝のような海産物もある。


「上々上々。さすがはタイショー。さて、支度をはじめようか」


 頭陀袋から取り出した鍋を、予め用意しておいたカセットコンロの上に置く。刻んだチーズを鍋に入れるとベルトホルトは思わせぶりに口元だけで笑った。


「ベルトホルトさん、ここからどうするんですか?」

「このままだとチーズが焦げ付くだけだから、酒を入れて伸ばすんだ」

「ワインですか?」

「普通のチーズフォンデュなら、そうだ。だが、我が家のフォンデュは一味違う」


 そう言って取り出したのは古めかしい素焼きの甕だ。蓋を開けた瞬間、ほのかな花の香りがのぶの店内に広がった。


「ザクルシュヴァッサーという酒だ。春に咲く花の実を醸した酒なんだが、フォンデュにはこれが一番合う」


 春に咲く花、と聞いてしのぶは去年の春のことを思い出す。

 古都のあちこちに植えられている薄桃色の花がまるで桜のように咲き誇っていた。確かあの花のことをザクルなんとかとエーファが呼んでいたはずだ。


「あの花の実からお酒ができるんですか」

「古都やサクヌッセンブルクの辺りではあんまり酒にするとは聞かないな。多分、山の方だけの習慣だと思う」


 地酒のようなものかと合点して、しのぶは相槌を打ちながらチーズフォンデュの準備を手伝う。

 こういうことにかけては用意の良い信之はチーズフォンデュ用の先の長いスプーンをどこからともなく持ち出してきていた。ベルトホルトに頼まれた食材から何となく今日のメニューを察していたのだろう。

 鍋のチーズが温まると、何ともいえない香りが店の中に漂いはじめる。


「冬はどうしても保存食ばかりになるから、年越しの日くらいはということで奮発してご馳走にする、という建前なんだがな」

「建前と言うと?」

「要するに、日が経ち過ぎて固くなったパンやら肉やらを少しでも美味しく食べようという先人の知恵なんだよ。それが意外にも美味かったんで本当にご馳走になってしまったってわけだ」


 自嘲するような口振りだが、ベルトホルトの表情は何処か誇らしげだ。離れていても、地元のことが好きなのだろう。


「そう言えばリオンティーヌの同郷会でハムやらきのこやらを揚げ焼きにするって言ってたな」


 厚切りのベーコンを食べやすい大きさに切り分けながら信之が独り語ちる。


「それもチーズフォンデュと同じような保存食の美味しい食べ方ってことかな?」

「多分ね。衣つけてフリットみたいにするらしいから、あっちも美味しそうだ」


 ところ変わればいろいろな知恵がある。

 正月のお節料理も元は保存食だったなと考えながら鍋を見つめていると、チーズはちょうどいい具合に煮えてきた。くつくつという音も耳から胃袋を刺激する。


「そろそろいいですかね!」

「そうだな、そろそろいいだろう」


 ベルトホルトの言葉が終わるか終わらぬかの内にチーズフォンデュ用のフォークでバゲットを突き刺したしのぶだったが、他の三人は動かない。

 鍋に突っ込みかけたバゲットを元の位置に戻しつつ様子を窺うと、ベルトホルトとヘルミーナは口の中で小さく祈りの聖句を唱えているらしい。


「……今年も陽の神、月の男神、月の女神の三柱の御加護でこのように一年間腹いっぱい食べることができました。来年も同じように腹いっぱい食べられますように」


 随分と砕けた祈りだが、その言葉を聞いてしのぶは恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じた。

 居酒屋のぶでごく普通に店員と客として接しているから忘れがちだが、彼らには彼らのやり方があるのだ。それは決して蔑ろにしていいものではない。

 もうすぐここに店を出して一年になるが、まだまだ学ぶことは多かった。


「さ、食べようか」


 ベルトホルトとヘルミーナのお祈りも終わり、信之の合図で皆が一斉にフォークを持つ。

 銘々に好きな具材をチーズに絡め、口に運ぶ。


「ふぉいしい!」


 ベルトホルトの持ってきたチーズの種類はしのぶには分からないが少し塩気の強い種類のもののようだ。少し濃い目の味わいが具材と絡んで絶妙な味わいになる。

 このチーズの場合、下味を付けない方が正解のようだ。少し甘めの酒で溶いてあるのも味に深みが増して堪らない。


「な、美味いだろ?」


 ヘルミーナがフォークに刺しやすいように具材を甲斐甲斐しく取り分けてやりながらベルトホルトが歯を見せて笑う。確かにこれなら自慢の逸品だろう。


「すっごく美味しいですね」

「ノブのメニューに加えてくれてもいいんだぜ」


 そう言われるまでもなく、しのぶの頭の中ではこのチーズフォンデュをどうすれば居酒屋のぶに似合う料理にすることができるかが考えられている。表情を見る限り、信之も同じことを考えているはずだ。

 ベルトホルトの木の実酒は手に入らないだろうから、他のものにしなければならない。何か果実酒で代用するか。それとも、チーズ自体を変えて味のバランスを調節するか。チーズを変えるならいっそのこと、日本酒で溶いても面白いかもしれない。


 頭の中で銘柄を指折り指折り思い出しながらも、手の方は止まらない。

 オーソドックスな味わいのバゲットもいいが、肉系も濃い味がチーズに負けず、美味しい。

 魚介類がチーズと合うのは最早常識だ。まるで許婚と再会でもしたかのように、口の中で見事な調和を奏でる。これならいくらでも食べられそうだ。


「あ」


 突然、信之が厨房に飛び込んだ。引っ込んだと思うとカセットコンロをもう一台と油、それにスーパーのレジ袋を持って現れる。


「どうしたの、大将? それ、塔原さんから貰ったお餅じゃない?」


 料亭ゆきつなで信之の師匠だった塔原が餅を届けてくれたのは昨日のことだ。ゆきつなでは丸餅を使うのだが、塔原が持ってきたのは関東風の切り餅だった。せっかく貰ったのだからどう食べるのが美味しいかと信之と相談していた品だ。


「しのぶちゃん、これは、覚悟した方がいい」

「覚悟?」


 訳の分からないことを言い出した信之は突然、一口大に切った餅を油に躍らせた。

 おかきだ。

 そして今、信之がこの場でおかきを揚げはじめたということは……


「ダメ、大将! それは危険すぎる!」


 揚げたてのおかきを、チーズフォンデュの具にする。

 それは危険すぎる出会いになるに違いない。特にこのチーズは日本で手に入るものより味が濃い。おかきに合わないはずがないではないか。

 こんがりと揚がったおかき第一号を信之が恭しくしのぶに手渡す。


 自然と、喉が鳴る。

 今宵ばかりはカロリーのことなど気にしていられない。

 フォークで刺した揚げたておかきを、チーズの海に潜らせる。絡み合う餅とチーズ。

 他の三人が固唾を飲んで見守る前で、しのぶはゆっくりとフォークを口に含んだ。


 感想は、言葉にならなかった。

 予想通り、美味しい。そのことが堪らなく嬉しかった。

 しのぶが無言で頷くのを見て、信之は次のおかきを揚げはじめる。


「タイショーとシノブちゃん、仲良いなぁ」


 ベルトホルトがぽつりと呟いた。ブロッコリーを口に運びながらヘルミーナも頷く。


「そ、そうですかね?」

「うん、凄く仲がいい。こういう店で預かって貰えて、ハンスは幸せ者だよ」


 思わぬところに話が飛んだが、ベルトホルトはハンスの元上司だ。直接ハンスに何か言うところは見かけないが色々と心配しているのだろう。


「タイショー、あいつは、ハンスは上手くやっていますかね?」


 問われて信之は顎を人差し指で掻く。


「まだなんとも言えませんね。やらせていることは盛り付けと雑用ですから。ただ……」

「……ただ?」

「面構えが、いいです。あれはいい料理人になる素質がある」

「そうか……いい面構えか」


 ベルトホルトが漏らした言葉には、安堵半分寂しさ半分といった雰囲気が感じられる。

「もし向いていないと言われたら、いつでも衛兵隊の方で引き取るつもりでいたんだ」

「そういうもんですか?」


 信之が少し意外そうな顔をした。高校卒業からずっと料理人一筋だったのだ。一度修業をはじめた料理人がまた元の道へ帰ることに思うところがあるのかもしれない。


「もちろん、本人が承諾したらの話だがね」

「衛兵隊が人手不足だとかですか?」

 しのぶの質問にベルトホルトは笑って首を振る。

「人手不足だからって巣立った雛を呼び戻したりするほど無粋じゃないさ。ただ、ハンスは衛兵としても一廉の人物になれただろうから、惜しいと思ったんだ」

「そういうことですか」


 愛されているな、というのがしのぶにもはっきりと分かる。そういう魅力があるというのは、よく分かった。料理人を目指したのも、浮ついた気持ちからではないだろう。


「何にしても安心したよ。これからもハンスのことをよろしく頼む」


 <鬼>のベルトホルトに頭を下げられるまでもなく、信之もしのぶもハンスのことは居酒屋のぶの仲間として認めている。断る理由はない。


「はい、任せてください。きっと立派な料理人に育てて見せます」


 しのぶが胸を叩くと、ベルトホルトとヘルミーナが声を立てて笑う。


「来年もいい年になるといいな」


 鍋の底に残ったチーズをバゲットでこそぎながら、ベルトホルトが呟いた。


「なりますよ、貴方」


 ヘルミーナがそう言ってベルトホルトの肩を抱くのを、しのぶと信之は静かに見つめている。

 年が改まるのを告げる鐘が、古都の中心部から聞こえてきた。

 中洲に浮かぶ大聖堂の鐘だ。

 また降りはじめた雪が、行く年を覆っていく。

 居酒屋のぶの明かりは、夜が更けるまで灯り続けていた。


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