お嬢様の難題(前篇)
店内が暖かいことにヨハン=グスタフは先ず驚いた。
市井の居酒屋と言えば隙間風の吹き込む立ち飲みの店しか知らない。それがこの店はどうだ。狭い中にも椅子を置き、腰を落ち着けて料理と酒を愉しめるように配慮されている。こういう心配りが出来るということは、少しは期待が持てようというものだった。
同行者に先に席を勧め、ヨハン=グスタフは改めて店内を見回す。
壁面には異国の文字でメニューらしきものが書かれた札が所狭しと貼り出されている。これもまた、情緒だ。ごく自然に手元に差し出された“オシボリ”という暖かい厚手のハンケチで手を拭いながら、店の雰囲気を味わう。
メニューが貼り出されている、ということは“文字の読める階級の人間が訪れること”を想定しており、“これだけ多くの種類の料理を提供できる”という料理人の腕前を示しているのであろう。文字の下に書いてある記号が料金を表しているとすれば、それは原材料の値段の変動があってもいつでも同じ価格で料理を提供し続けるという料理人の矜持が示されているということでもある。
ヨハン=グスタフは一口も料理を食べない内から、この店のことが気に入ってしまった。
と同時に、そんな素晴らしい料理人のいる店に無理難題を押し付けなければならないことに忸怩たる思いも芽生えつつある。
「ご注文は如何いたしましょう?」
店員の女性がやさしい表情で問いかけてくる。無礼でなく、慇懃にも過ぎない。
「そうだな、……ヒルデガルド、何が食べたいんだ?」
同行者である少女ヒルデガルドにヨハン=グスタフは尋ねて見せる。我ながら嫌な役回りだ。答えは毎度、決まっているのだ。
「臭くなくて辛くなくて酸っぱくなくて苦くなくて固くなくてパンでも芋でもお粥でも卵でもシチューでもない美味しいものが食べたいわ」
人形のように整った顔立ちの少女、ヒルデガルドはいつものように無茶なことを注文する。冬の古都で食べられるものは限られている。そのほとんどは臭いか、臭い消しの為に濃い味付けのされたものばかりだ。パンでも芋でも粥でもシチューでもなく、しかも美味しいものなど冬の古都では食べられない。
ヒルデガルドとしてもそんなものが本当に食べられるとは思っておらず、こういう無理な注文を聞いて右往左往する料理人の様子を見て楽しみたいだけなのだ。実に底意地が悪い。
まだ十二歳とはいえ、ヒルデガルドももうすぐ輿入れ。せめてもの慰みにと市下で評判という居酒屋に連れ出してはみたものの、やはり望み薄であることに違いはない。
申し訳ない気持ちでヨハン=グスタフは店員の顔色を窺った。しかしそこには想像したような困った表情はない。
「臭くなくて辛くなくて酸っぱくなくて苦くなくて固くなくてパンでも芋でもお粥でも卵でもシチューでもない美味しいものでございますね。少々お待ち下さい」
弾むような声で確認し、料理人にそっくりそのまま伝える。料理人の方も黙って頷くだけだ。一体、何を出そうというのだろうか。
こう見えても、ヒルデガルドは子爵家の令嬢であり、継承者だ。あまり妙なものを食べさせられても困る。早くに親を亡くしてからは叔父であるヨハン=グスタフが親代わりになってきたということもあり、少し甘やかしてきたところはある。捻くれた姪を、ヨハン=グスタフは実の娘のように可愛がっていた。だからこそ、無事に、健康に送り出してやろうという想いが強い。
無理難題に答えられないことばかりを心配し、まさかすんなりと通ると思っていなかった自分の不明を恥じる。まさか“料理が出てくる”ことが心配の種になろうとは思いもよらなかった。
女店員が手慣れた様子でヨハン=グスタフとヒルデガルドの前に鉄製の箱を用意する。いや、これはただの箱ではない。どうやら小型の炉を持ち運びできるようにしたものらしい。こんな工夫をどこの鍛冶屋が思い付いたのだろうか。出来ることなら、自領に招きたいくらいだ。
「あい、火が点きますからね、危ないですよー」
そう言いながら店員が箱のつまみを回すと、ぼっという音と共に青白い炎が灯る。これは素晴らしい。その火の上に、陶製の鍋が載せられる。なるほど、客の目の前で調理をする、という趣向なのだろう。寒い日にこの配慮は心憎い。どれだけ美味な料理も、席に運ぶまでに冷えてしまっては味が落ちる。出来立てを味わう、というのは実は貴族こそ滅多に出来ない贅沢なのだ。
鍋の中には、何やら緑色の皮のようなものが沈められている。恐らくは、海藻だ。これが臭くなくて辛くなくて酸っぱくなくて苦くなくて固くなくてパンでも芋でもお粥でも卵でもシチューでもない美味しいものだと言うのだろうか。
ヒルデガルドの方を見ると、鍋の中でくつくつと煮える湯に期待の眼差しを向けている。それもそうだ。乳母日傘で育てられたヒルデガルドは、こんなに近くで湯の沸くところなど見たことがないに違いない。風呂でさえ、火傷してはならないということで汲み置いた湯を盥に使うほどの過保護ぶりだったのだから。
店員が鍋の中に、何か白い塊をゆっくりと滑らせて入れる。四角い。こんなものは、今まで見たことがない。これこそが、その料理なのだろう。
ヨハン=グスタフも、ヒルデガルドも、店員も、料理人も喋らない。
くつくつ、という白い塊の煮える音だけが、店内を満たしていく。