〆のにゅうめん
「疲れたー」
店に入ってすぐに大きく伸びをするしのぶを信之は微笑ましく眺めた。
漸く春らしくなってきた古都。店を閉めての絵画見物にサクヌッセンブルク侯爵の屋敷まで馬車で出かけた帰りだ。
朝まだ陽の昇り切らない内に出発したのだが、あちらで色々としている内に、帰ればもう夕暮れになっている。
仕事を休んで出かける、というのはここでは大変なことなのだと改めて信之は学んだ。
〈馬丁宿〉通りという場所に店を構えながら、信之もしのぶも、馬車に乗ったことがなかった。
ノスタルジーを感じさせる乗り物だが、乗り心地はお世辞にもいいとは言えない。
この世界では王侯貴族であってもこれと大して変わらない馬車に乗って移動しているのだと思うと、なんだか不思議な気分になる。
「絵、凄かったですね!」
エーファはよほど感動したのだろう。馬車の中からずっと、同じことを繰り返していた。
そもそも聖堂以外の絵画や壁画が一般庶民に解放されるということ自体が稀だという。
折角だから、とエーファやハンス、リオンティーヌも連れて観に行ったのは正解だった。あれだけの絵画は日本の美術館でもなかなか見られるものではない。
「それにしても随分と混んでいたねぇ」
リオンティーヌが髪を掻き上げながらぼやくのは、交通渋滞の事だった。
古都に出入りする城門が、太市の時のように混雑していたのだ。
「船が来たからね」
そう、船がきた。
河川通行税の撤廃によって海からの船が入港しはじめ、古都は今、大きな喜びに満ちている。
従来も内陸、それも近隣からのの舟便はあったが、海からの荷物に人々は沸き立っていた。
「みんな忙しいんだろうな」
信之が呟くと、ハンスが曖昧な笑みを浮かべた。
昨日ニコラウスと飲みに行くと言っていたから、きっと愚痴を聞かされたのだろう。
信之のような門外漢でも、手続きの煩雑さや混乱が目に浮かぶようだ。
入港、関税、密入国。この時代には検疫はまだあまり重視されないのだろうか。
お仕着せに着替えたハンスがまかないの準備をしながら、船着き場の様子を語って聞かせる。
問題になっているのは、お互いの手続きの不慣れさだ。
手順の周知もギリギリだったし、相手は古都のやり方をまだ知らない。
何と言っても、海を航行する船員は命がけの職業だ。
荒くれ者も混じっているというから、衛兵隊は随分と忙しいという。
常連のイーゴンを引き連れてベルトホルトは日夜船着き場を見回っているそうで、ニコラウスにも臨時で衛兵隊に戻ってくれないかという要請が来たそうだ。
〈鳥娘の舟唄〉での秘書の方の仕事も途方もなく忙しいというから、ニコラウスは一も二もなく断ったという。
来る人がいれば、行く人もいる。
船便が来たことで、古都を通じて遠方へと旅立とうという人も少なくない。
近隣の遍歴商人はより珍しい商材を求めて大海原へ漕ぎ出そうとしているし、劇団や、食い詰めた人も船に乗り込もうと交渉しているそうだ。
「レオナルトさん、今頃どこにいるんですかね?」
「あー……」
エーファの問い掛けに、しのぶは人差し指で頬を掻いた。
絵描きのレオナルト。
侯爵家の披露宴の絵画をあれだけ見事な筆致で描き上げた彼は、絵を完成させた後にこの土地を去った。と、されている。
筆を走らせている間から、「次は我が家に」という依頼が絶えなかったというが、その全てを丁重に断った。
噂によると、箱一杯の金貨を提示されてなお、首を縦に振らなかったそうだ。
大したものだ、と思う。
レオナルトにとっての関心事は、商業的な成功ではないのかもしれない。
姿をくらました流浪の画家レオナルトであるが……
「レオナルトさんなら、実はまだうちの二階にいますよ」
厨房から顔を覗かせたハンスがエーファに教えてやる。
「えー‼」
エーファが驚きの声を上げたので、事情を知っていた四人が堪え切れずに噴き出した。
旅に出ようという決意を固めていたらしいのだが、どうしてもフーゴの鼻を明かしてやりたいと古都に残るのを決めたのだという。
当のフーゴの方は切磋琢磨できる相手ができたことに喜びこそすれ、まったく気にしていないというから、まるで片思いである。
「さ、まかないができましたよ」
ハンスが運んできたのは、にゅうめんだ。
温かく茹でた素麺がかきたま汁に入っている。
「あー、これはありがたいな」と信之が椀を受け取ると、
「披露宴からこっち、脂っこいものも多かったですからね」と苦笑した。
披露宴で揚げ物が振る舞われたから、注文が殺到したのだ。
「つるつるしておいしいですねぇ」とエーファの貌が綻ぶ。
「これなら二日酔いの朝にももってこいだな」とリオンティーヌが太鼓判を押す。
うららかな春の日が、暮れていく。
海からの舟が入って来ても、新しいお客がやって来ても、きっとこの平和な日々が、この先も続いていくのだ。




