アスパラとチーズの豚肉巻きと一枚の素描(全)
「乾杯!」
三つのジョッキが打ち鳴らされる。
二つは高々と掲げられ、一つはおずおずと。
居酒屋ノブの一角。
酒卓を囲んでいるのは、三人の男たちだ。
一人はアルヌ・スネッフェルス。サクヌッセンブルク侯爵家の当主である。
いま一人はロンバウト・ビッセリンク。ビッセリンク商会総帥の長男にして大幹部だ。
そして、もう一人。
最後の一つを持つフーゴは、自分が何故この席に座っているのかが分からずにいた。
年季の明けたばかりの硝子職人の混じる席ではないのは間違いない。
それが証拠に、先ほどから二人の交わす会話の内容は市井の職人風情が聞き知っていい内容ではなかった。
「アルヌ様、先日の〈猪〉子爵征伐、お疲れ様です」
「ここでは様は付けなくていい。それと、征伐ではないぞ。あくまでも〈ディーグ狩り〉だ」
ええ、そうでした、とロンバウトが意味深な笑みを浮かべる。
少し前に、サクヌッセンブルク侯爵の軍と近隣の都市や中小領主が合同でディーグの穴持たずを狩ったという話がフーゴも聞き知っていた。
そしてそれが建前に過ぎない、という話も。
古都を流れる大河は、海に通じている。それなのに水運がそれほど活発でない理由は、河の途中でいくつもの領主が河川通行税を銘々に徴収しているからだ。
皇帝陛下がそれを止めるように言ったが、反対する領主がいた。
ディーグ狩りというのは、その貴族たちを黙らせるための脅しのようなもの、というのがフーゴの理解するところだった。
遅れて入ってきた女秘書のベネディクタが何かを商会大幹部の耳に囁きかけた。
「こちらの方も順調です。河川通行税の徴収継続を強行しようとしていた中小領主の抱き込みは順調に進み、残りは頑固な男爵数名を残すばかりです」
脅すばかりでは、交渉というものは上手くいかない。
皇帝陛下からの命令と、サクヌッセンブルク侯爵をはじめとする皇帝派の脅し、そしてビッセリンク商会による利益の提供。
この三つが組み合わさって、河川通行税の徴収を継続しようという領主はあっという間に数を減らしている、ということらしい。
フーゴは何も口を挟まなかった。
オトーシとして出されたサワラの炙りを食べながら、フーゴはまるで関心のない振りをする。こういう話にうっかり口を挟んでもいいことは何もない。何より、実際に興味がないのだ。
こんな酒席に参加して胃の痛い思いをするなら、硝子やレンズのことを考えていたい。
それにしても、難しい話をしている時のロンバウトはまるで昔話に出てくる悪徳商人のように悪顔になる。もしもフーゴの作った眼鏡がなければ、もっと悪人面になっていたのではないか。
長い付き合いで商人としての矜持のある人だと分かっているだけに、その落差が少し面白い。
今度、レンズと蔓の形を工夫して、表情の和らいで見える眼鏡でも研究してみようか。
脂の乗ったサワラは、美味い。
炙ったことで水気が飛んで、味が濃厚になっている、という気がする。
厨房に目を遣ると、弟のハンスが脇目も振らずに調理に集中していた。いいことだ。
フーゴに料理人の良し悪しは分からないが、ああいう目をした職人は、大成する。
目と言えば。
上着の隠しを、服の上からフーゴはそっと確かめる。
中に入っているのは、レオナルトが鳥を描いた素描だ。
はじめに見た時の感想は、「恐ろしい」だった。
フーゴに絵画の素養はない。それでも、何気なく渡されたその素描が恐ろしいまでの精緻さを持つことは理解できる。
努力の人であるフーゴには、それが天賦の才と、下支えする努力の賜物であることが分かった。
ジョッキのラガーに口を付けながら、頭の中では色々なことが渦巻いている。
才能のこと。
硝子のこと。
レオナルトのこと。
ハンスのこと。
父親のこと。
そして自分自身のこと。
硝子と向き合っている時は、いい。何も考えずに、無心でいられる。
炉で硝子を溶かす間、あるいは硝子の形を整える間、そしてレンズを研磨する間。その時間は、頭の中に煩いほどに響き渡る雑音を、無視することができた。
自分はどうしたいのだろうか。
右の掌を見つめ、開いて、閉じてみる。
ラガーの後味が、苦い。
「お待たせ! 今日のオススメだよ!」
リオンティーヌがいつも通りにしなやかな身のこなしで運んできた皿には、何やら揚げ物が乗っている。ラガーと合いそうだ。
密談に花を咲かせていた二人の視線が、揚げ物に釘付けになる。
「こっちの長いのは……私の好きなアスパラガス?」
ロンバウトが箸を伸ばし、齧りつく。
「おぉ!」
薄く切った豚肉でアスパラガスとチーズを巻いて揚げたもののようだ。
「ではこちらは?」
ジョッキの中をラガーではなく湯冷ましで満たしているアルヌが後に続く。
「……タケノコか!」
こちらはタケノコとチーズ、オオバを同じく薄くスライスした豚肉で挟んで揚げたものだ。
フーゴもまずはアスパラガスの方から口に運ぶ。
ザクリ。
表面の衣はカラッと揚がっていながら、中のアスパラガスのシャッキリとした歯触りが実に心地よい。チーズが味わいにコクを与えているのも、素晴らしかった。
噛みしめると、アスパラガスの春の香りが口の中に広がる。豚肉、アスパラガス、チーズの三者が調和して、喧嘩しない。
そこへラガーで追いかけると、口の中がさっぱりとした苦みで洗い流されていく。
続いてタケノコの方へ、と食指を動かしたところで、ロンバウトに話の水を向けられた。
「話を戻しますと、それで、このフーゴさんの登場というわけです」
「え、あ、はい。どうも」
まずい。全く話を聞いていなかった。
フーゴには稀に、いやしばしばこういうことがある。
集中している時も、逆に放心している時も、人の話を聞き逃してしまうのだ。
「フーゴさんのレンズが素晴らしいのは分かるが、輸出の目玉になるかな?」
なるほど、輸出の話か。
ロンバウトと彼の秘書であるベネディクタから聞いたことがある。
河川通行税がなくなれば大河を通じた取引が可能になり、帝国の海沿いだけでなく、他の国からも商会が船でやって来る、という話だ。
その時に、古都に売るものがなければ儲け損なう。
ロンバウトは岩塩とフーゴのレンズに大きな期待を寄せているようだ。
確かにフーゴとしてもロンバウトと取引している眼鏡はいい出来だと思う。
いずれ商売が大きくなる時に備えて、工房の徒弟たちにもレンズの研磨を教えているし、中にはそこそこの出来のものを作れるようになった職人もいた。
だが、本当にレンズがそこまでの人気商品になるのだろうか?
フーゴには、そこのところがいまいちよく分からない。ロンバウトはフーゴの腕を買ってくれているが、いつか見捨てられてしまうのではないか、という漠然とした不安もある。
アルヌはタケノコの方が気に入ったようで、豪快に齧りながらフーゴの方を値踏みするように見つめてきた。
身の竦むような、とはこういうことをいうのだろうか。
俯くフーゴには、卓の表面の木目をきょどきょどとした目で追うことしかできない。
「この眼鏡」
ロンバウトが、自分の付けている眼鏡を外し、アルヌに手渡す。
「聖王国の支店長がたまたまこちらに来る機会があったので検分させましたが、あちらの研磨技術でもここまでのものはほとんどない、ということです」
褒められている、のか。
聖王国と言えば、レンズ研磨の本場だ。というよりも、そこ以外ではほとんどやっていない。
その本場のものと較べて遜色ないどころか、ほとんどないとまで言われているとなると。
いやいや、とフーゴは心の中で頭をもたげかけていた喜びを打ち消した。
こういう場合は忖度や世辞というのがある。言葉をそのまま受け取るべきではない。
アルヌは眼鏡をしばらく矯めつ眇めつしていたが、感心したように「ほうっ」と一息こぼすと、勧めるように皿をフーゴの方へ押し出した。
「食が進んでいないみたいじゃないか。どんどん食べてくれ。心配しなくていい。支払いならこのロンバウトが払ってくれるから。精々、二人で困らせてやろう」
「私の財布はちょっとやそっとでは痩せ細りませんよ」
冗句と共に再び、乾杯とジョッキが打ち鳴らされた。
フーゴも慌てて二人に倣う。
どうやら、今の乾杯で密談は終わったようだ。僅かばかり緊迫していた雰囲気が弛緩し、和やかな空気が流れる。
漸く、フーゴも落ち着いてタケノコの方に箸をつけた。
こちらも、美味い。
どちらの方が美味いかと尋ねられれば答えに窮するが、挟まれたオオバが実にいい仕事をしている。そしてこれもまた、ラガーによく合うのだ。
ロンバウトがラガーのお代わりを注文するのに合わせて、フーゴももう一杯追加する。
「ところで、宴の支度はどうですか?」
眼鏡を掛け直しながらロンバウトが尋ねた。
宴、というのはサクヌッセンブルク侯爵家の結婚披露宴のことだ。かなりの規模になるらしいというのは、噂話に興味のないフーゴの耳にも入ってきていた。
「私も妻も、ついでに財務顧問も、質素でいいと言っているのだが……こればかりは見栄と権威の問題だからなぁ。なかなかの出費になりそうだ」
若干恨みがましい視線を向けるアルヌに、ロンバウトが実に商人らしい笑みを浮かべる。
「ええ。随分と儲けさせて貰っている、と報告を受けております」
これは商売に疎いフーゴにも分かった。披露宴に必要な諸々の物を、ビッセリンク商会が用意している、ということだ。
アルヌはそれを値引きしろ、と言い、ロンバウトは受け流した。
自分にはついていけない世界だな、とフーゴは思った。
独立して工房を構えるにせよ、父の跡を継ぐにせよ、商売向きのことは誰か信用できる人を雇って任せてしまった方がいいかもしれない。
「ただ一つ、困ったことがあってなぁ」
「ほう」
アルヌのぼやきに、ロンバウトは鋭敏に反応した。
更に商機を探そうというのか、それとも単なる関心か。
フーゴは我関せず、とアスパラガスの方をもう一つ自分の取り皿に取り分ける。
「実は、絵なんだ」
「ああ、披露宴の」
二人の間では話が通じているようだが、フーゴにはよく分からない。
訝し気な表情を浮かべないように必死に堪えていると、ベネディクタが察して説明してくれる。
「サクヌッセンブルク侯爵家のような家格の高い王侯貴族の結婚披露宴には腕のいい画家を招いて絵画で残すのが通例なのです」
この慣例は意外に重要で、大諸侯としては欠くべからざるほどのものらしい。錚々たる参列者がいるのに、絵の一枚も残せないとあっては、大恥になると聞かされて、フーゴは驚いた。
たった絵の一枚で恥だの外聞だの、そんな大層な話になるとは。貴族の生活がどんなものかは分からないが、あちらはあちらで苦労が多そうだ。
サクヌッセンブルク侯爵家も抜かりなく画家を招聘していたというのだが。
「腕はいいが高齢で、腰を痛めて来られなくなった、ということだ」
「それは難儀ですね……代わりの手配は?」
「有名どころは生憎と誰も彼も予定が詰まっていて、帝国の北部まで出向いてくれそうにない」
それは困りましたね、とロンバウトも眉根を寄せる。
絵かぁ、とアスパラガスを齧りながら、フーゴは他人事のように聞いていた。
自分にできることは何もないよなぁと思いつつ、それでも困っている人の助けにはなりたいという気持ちだけは心の中でうずうずしている。
そんな時、ふと思い出して上着の隠しから羊皮紙を取り出した。
特に何か意味があってのことではない。
絵の話をしているから、出してみようという安直な思い付きだ。
アルヌとロンバウト、それにベネディクタはフーゴが何を取り出したのかと興味津々な様子で、羊皮紙を覗き込んでくる。
「……これは」
「フーゴさん、ちょっとお借りしても?」
取り出した瞬間に、失敗したと思ったのだが、意外にも三人の反応は呆れでも批難の眼差しでもなかった。
請われるままに、フーゴはロンバウトに鳥の素描を手渡す。
「うーむ」
「どうだ?」
羊皮紙を見つめるロンバウトに、アルヌが前のめりに尋ねた。
「本人の筆ではないかもしれませんが、聖王国の有名な彫刻家と似ていますね……彼の弟子筋ではないでしょうか」
ロンバウトの挙げた彫刻家の名前をフーゴは耳にしたことがなかった。だが、その名前を聞いて、アルヌとベネディクタの目が見開かれたのは、はっきりと感じる。
「フーゴさん、この絵をどこで手に入れた?」
両肩に手を置き、揺さぶらんばかりに訊いてくるロンバウトに、フーゴは面食らった。
「え、えっと、友達に貰って」
「その友達は今、古都にいますか?」
今度はベネディクタだ。
レオナルトの名前を出して、迷惑にならないだろうか。
でも、アルヌが困っていることを解決できる可能性があるのなら、と頭の中で思考がぐるぐると回って、いい考えが思いつかない。
どうすればいいのか。
「あ」
フーゴの口を突いて、驚きの声が漏れた。
アルヌとロンバウト、ベネディクタが何事かと身構える。
「彼です。彼がこの絵の作者です」
まさしくその時、レオナルトがひょろりと背の高い長身で硝子戸を潜った。
集まる視線に気づいたのか、自分の顔を指さして、不思議そうな顔をしている。
ベネディクタが慌ててアルヌとロンバウトに視線を送ると、二人は大きく頷いた。
「突然すみません。失礼ですが、こちらの素描をお描きになったのは、貴方ですか?」
女秘書が丁寧な口調で尋ねると、レオナルトの表情は一瞬驚き、それから照れが混じり、続いて真面目なものへと目まぐるしく変化した。
「ええ、そうですが」
上流階級の人間に対する慇懃な態度でレオナルトは答える。
「実は貴方の腕を見込んで、お願いがありまして」
哀願の色さえ感じさせる声音に、レオナルトは腕を組み、一瞬考え込む表情を見せた。
「……絵を描け、というなら、条件があります」




