隊長の凱旋(前篇)
古都の大門を三輌の馬車がくぐる。
御者台に白い花をあしらってあるのは、新婚の花嫁のために仕立てられた馬であるという印だ。
新婚夫婦を乗せた馬車は、古都の大門をその日一番に通行する特権が与えられている。この特権は強力で、貴族であっても司祭であっても先に通ることはできないのだ。
特権を享受したいと思う夫婦は多く、大門の前には新婚夫婦のための宿が軒を連ねている。
幌なしの馬車には家財道具が満載され、朝の陽気の中を誇らしげに進んでいた。馬も立派な体躯で、金がかかっている。
普通の夫婦なら馬車一輌で済ますところを三輌も用立てたのは、よほど新郎が新婦に惚れ込んでいるのだろうと道行く人が囁き合う。
その様子に、馬車の上のベルトホルトは鼻が高い。
門出を祝いに駆けつけた人々に迎えられるのは、古都衛兵隊の鬼の中隊長ベルトホルトその人だ。
港町から迎え入れた新妻のヘルミーナと共に、古都に凱旋したのである。
既に新居も決まり、順風満々の新婚生活が始まるはずであった。
「……それで、新婚早々どうしてずっと居酒屋に?」
古都に帰って来た翌日、ベルトホルトは新妻ヘルミーナを連れて居酒屋ノブに来ていた。
新婚ほやほやの夫婦にお茶を出しながら、シノブの目は笑っていない。
結婚の挨拶に訪れた二人をタイショーとシノブ、それにエーファが祝福したのは午前中のことだ。
三人とも自分のことのように祝ってくれた。その雰囲気が妙になって来たのは新婚二人がいつまでたっても帰らないからだということは、ベルトホルト自身もよく分かっている。
エーファも朝から通わねばならないほど多忙な状況に少し気が立っているということもあるだろう。先日から居酒屋ノブは凄まじい忙しさだということはベルトホルトも耳にはしていた。
だが、ベルトホルトの方にも帰れない事情がある。
「うん、実はさ、シノブちゃん、とっても言い難いんだけど」
「なんですか、ベルトホルトさん。少々のことでは驚きませんよ」
「実は、うちの嫁さんをちょっとの間、この店に置いて欲しいんだ」
「へっ?」
ベルトホルトの横で赤くなってもじもじしているヘルミーナが、頷く。
エーファより少し年上のヘルミーナは亜麻色の髪を持つ大人しい少女で、あまり自己主張は激しくない。
「実はな、うちの嫁の実家は北の港町でも一番の烏賊漁師なんだが」
「ええ、それは前に聞きました」
「親父さん、っていうのがちょっとだけ子煩悩なところがあってな。新婚家庭には立派な家財道具が必要だろうってことで用意してくれたんだよ」
「いいお義父さんじゃないですか」
「うん。とてもいいお義父さんだとオレも思う。馬車三輌分もの家具を用意してくれるなんて、なかなかできることじゃない。ところがここで一つ大きな問題が発生したわけだ」
「問題?」
「オレとヘルミーナの新居は既に決まっているんだが、前の住人の退去が終わっていないんで、引っ越すことができない」
引っ越しが手間取るというのはよくある話だ。
遠方の在所に引っ込むつもりにしていたらしいのだが、少し前に東王国へ急ぎで帰りたい僧侶が法外な値段で予約していた馬車を借りて行ってしまったらしい。
随分と慌てた様子だったというから、余程の事情があったのだろう。
「それは大変ですね」
「さらに、オレの元々暮らしていた官舎は、中隊長用だがそれほど広いもんじゃないんだ。男一人が寝起きするだけだからな」
「……ちょっと話の展開が読めてきました」
「家財道具を運んできた馬車は、北の港町に帰らにゃならん。馬借ギルドからの借り物だ。とは言っても家具を雨ざらしにするわけにもいかん。で、オレの官舎に三輌分の家財道具を無理矢理運び込んだ結果……」
「ヘルミーナさんが昼間いる場所が無くなった、と」
「そういうことなんだよな」
ベルトホルト自身、自分で説明していても呆れ果てるような顛末だ。
惚れた女房を迎え入れる家すら満足に用意できなかったのである。無理に詰めれば人一人くらい入れるかと思ったが、そんな隙間の一つもない。
「夜は宿屋を借りることにした。これは期日までに家を明け渡せなかった相手さんが負担してくれるということで話はついている。後の問題は、ヘルミーナの昼間の居所だけなんだ」
「それで、うちに」
「オレが付いていてやれれば一番いいんだが、そういう訳にもいかない。案の定オレがいない間、ハンスもニコラウスもみんな纏めて怠けてやがった。少々厳しく扱き上げてやれねばならんからな」
今日も早速ベルトホルト隊は古都の城壁の外を走らせていた。
怠けの代償というよりは、短期間で鍛え直したいという思いからだ。
北方の領邦が独立を企てているという噂は港町にも流れていた。古都がいつ何かに巻き込まれてもいいように、ベルトホルトには備える義務がある。
「タイショー、どうします?」
「俺はそれで構わないけど、奥さんはそれでいいのかい?」
タイショーに声を掛けられて、ヘルミーナは慌てて頷く。どうやら飾ってあった置物の船に興味津々だったようだ。
どういう作りなのか、大きめの瓶の中に帆船の模型が丸々入っている。居酒屋ノブは調度も奇妙なものが多い。
「は、はい。よろしくお願いします! 簡単なお手伝いしかできませんけど」
立ち上がってお辞儀をするヘルミーナの言葉に、タイショーがまな板から顔を上げる。
「手伝い? ベルトホルトさん、奥さんの手を借りてもいいのかい?」
「そりゃもちろん、ただで置いて貰おうとは思ってないよ。ヘルミーナともよく話し合ったことだ。心配なのは逆にノブに手伝いが要るかってことの方なんだが……」
「それについては心配ない。今は猫の手でも借りたい」
タイショーが断定するように言うと、シノブとエーファもつられたように頷く。よほど人手が足りていないようだ。
「朝っぱらからエーファちゃんまで出張ってるところを見ると余程忙しいらしいな。一体、ノブに何があったんだ?」
尋ねるベルトホルトにタイショーは一際大きな溜め息を吐いてみせた。
「……ウナギだよ」
今から捌こうとしていたウナギを、タイショーがまな板から持ち上げる。尻尾が動いているところを見ると、まだ生きているのだろう。
さすがに漁師の娘、ヘルミーナはそれを見ても少しも動じない。
「ウナギなんかどうするんだ? 居酒屋のメニューにゼリー寄せかなにかを載せるのか」
「まぁ、口で説明するより食べて貰った方が早いな」
そう言ってタイショーが出してきたのは、何かの切り身を焼いた物だ。
濃い飴色と茶色の中間のようなタレの香りが食欲をそそる。
これがウナギだというのだろうが、ゼリー寄せを想像していたベルトホルトには少々意外な形だった。
それともう一つ、ノブの定番メニューであるだし巻玉子によく似たものも皿に乗っている。こちらは中にウナギを巻いているようだ。
同じものがヘルミーナの前にも置かれる。
「頂いてもよろしいですか?」
一言断わってから、ヘルミーナが木匙を使う。
口に含んだ瞬間、いつもは儚げに細められている目が大きく見開かれた。
「ベ、ベルトホルトさん!」
「ど、どうしたヘルミーナ?」
「凄いです! このウナギ、凄く美味しいです!」
匙を持っていない方の手をぱたぱたと振りながらヘルミーナが美味しさを訴える。どことなく犬のようだ。
「こっちのだし巻玉子も美味そうだな」
「うまきって言うんだ。鰻を巻いてあるから、うまき」
「へぇ」
半分に木匙で割って口に運ぶ。
ふわり、とろりとベルトホルトの口の中に幸せが拡がる。
これは確かに美味い。美味いというよりも、美味すぎる。
「……なるほど、こりゃノブも忙しくなるはずだな」
「ベルトホルトさんもそう思うか?」
「そりゃそうだ。これなら確かに何度でも食べたくなる」
そして恐らく、この味を真似するのは難しいだろう。
ウナギ自体は運河にうようよ泳いでいるし、市場で買うにしても捨て値同然だ。だが、タレの味や焼き方はノブならではのはずだ。
「今じゃ夜に店を開けても鰻のお客さんばかりなんですよね」
寂しそうに呟くシノブにタイショーが頷く。
「お陰で居酒屋なのか鰻屋なのか分からなくなってきた」
「そんなに繁盛してるなら結構なことじゃないか」
「そうは言っても酒を飲みに来る客もいるんだ。肴の仕込みがあるから忙しさは倍以上だな。客に出せなかった分は下拵えしても無駄になるし」
繁盛するにもいろいろと問題はあるのだ。武辺者のベルトホルトにしてみれば客が来れば客が来るほど店は儲かりそうに思えるが、そういうものでもないらしい。
「何より、折角うちに飲みきたお客さんがお店に入れないのがね」
「ノブってあまり広くありませんからね」
シノブとエーファが嘆いてみせる。
確かにカウンターに六席とテーブル二つでは受け入れられる客にも限りがあるのはどうしようもない。
これは確かに人手がいる。
そう思ってヘルミーナの方を見ると、うまきを味わっていたらしく、頬を抑えてうっとりと微笑んでいた。
「ヘルミーナ、そういうわけだからここを手伝ってくれ」
「えっ、あっ、はい」
聞いていたのかいなかったのか、木匙を咥えたままヘルミーナが頷く。
「私、一つ思い付いたことがあるんですけど……」