茶碗蒸し占い、再び(全)
古都は、以前よりも賑やかになった。
冬に訪れたからこそ、エンリコ・ベラルディーノはより強く感じる。
窓のから見える石畳の道を行き交う人々の数は以前よりも確実に増え、何よりも顔が明るい。民の笑顔はその街を計る最も優れた秤である。
大司教に仕えるエンリコにとって、古都というのは必ずしもよい思い出のある街ではない。悪しき企みに危うく手を貸すところだった。
それでも再びここを訪れたのは、個人的な感情など問題にならないほどに重要な任務があるからだ。
「お待たせしました」
向かいの席に腰を下ろしたのは、司祭のトマス。古都の教会で最も優秀な聖職者だという評判は帝国のみならず、東王国や聖王国にまで聞こえてくるほどの逸材だ。
「お忙しい中、お時間を頂きありがとうございます」
「いえいえ、大司教猊下からの使者とあれば、何を置いても優先すべきでしょう」
涼し気な表情で応じるトマス司祭の秀麗な要望に、同性であるエンリコでさえ、一瞬息を呑む。 都市間の交通が少なくなる冬の時期の急な来客であるエンリコにも、嫌な顔一つしない。女性の信徒からの絶大な支持を誇るというのも無理からぬことだろう。
いや、見た目だけの人気ではなかろうとエンリコは内心でトマスを見直した。
部屋はまだ、暖まり切っていない。エンリコが訪れたから、暖炉の熾火に薪をくべたことが窺える。つまりトマスはこの執務室を冷涼というには寒過ぎる気温のままで使っている、ということだ。
清貧と言うは易いが、実行は難しい。大司教に尽き従って多くの“有徳”とされる聖職者の真の姿を見てきたエンリコとしては、トマスの在り様に感服せざるを得なかった。
「それで、本日のご用件は?」
手ずから淹れた白湯の椀をエンリコに手渡しながら、トマスが尋ねる。
「これです」
懐から取り出した書信を恭しく手渡すと、「拝見」と小さく呟いてトマスは牛皮紙の巻物に視線を落とした。読み進める内に、その形のいい眉が戸惑ったように歪み、長い睫毛が揺れる。
「これは……人探し、ということですか?」
ええ、とエンリコは少し申し訳なさを込めて答えた。
大司教からの書信には、ある人物を探す依頼が記されている。信頼できる部下とされるエンリコも内容を把握しているから、敢えて封蝋は捺されていない。
「彫刻家の弟子、ということですが」
「はい。聖王国にその名を轟かせる、高名な彫刻家であり、画家でもある方の弟子です」
「その弟子を、どうして猊下が?」
表情から窺えるのは、誰かの落とし胤か何かなのだろうかという疑念だ。無理もない。人探しなど、大司教がわざわざ携わるようなことではないからだ。
「……お恥ずかしい話ですが」
東王国南部のとある大聖堂に巨額の寄附があった。〈幼王〉ユーグの即位記念としての王室からの寄附だ。大きくともその巨体に見合った支出のある教会は懐具合の悪いところも多いから、この寄附は大変にありがたく、その感謝の印として、高名な彫刻家にして画家の筆になる壁画を新たに依頼し、それを〈幼王〉の名で広く知らしめる、ということにしたのだ。
ところが。
即位から数年が経ち、姉である王女摂政宮が帝国に嫁すことで政治の実権を〈幼王〉が握るようになっても、絵が完成しない。
宗教関係にはおおらかな面のある東王国だが、さすがに「いつ頃完成するのか?」という問い合わせが入るようになった。
王家との関係は教会にとって繊細な問題だ。特に相手からの寄附に対しての約束が履行されないという状況は外聞がよくない。先代の〈英雄王〉の時代には関係がひどく悪化していたところからの、雪解けの季節。〈幼王〉はともかく、周辺には教会に対して複雑な感情を抱いている廷臣もいるという話だから、徒や疎かにすることはできない、というのは東王国教会関係者にとっての共通認識である。
ここで何か問題を起こせば、後々の関係にしこりを残しかねない。
慌てた教会は彫刻家に問い合わせたのだが……
「実は既に随分前から、画筆は弟子が執っていた、と?」
「表向きは合作、ということにする場合もあるようですが、実はほとんどの作品において、弟子の果たした役割の方が大きいのだと懺悔したのです」
ああ、とトマスが眉の根を揉んだ。
「その弟子が、行方を眩ませたわけですか」
「壁画を描く教会のある東王国南部と地縁血縁の濃い聖王国を探ったのですが、手がかりに乏しく……弱り果てたその教会の司教が聖界俗界の縁を頼りに八方手を尽くして探しているという次第です」
「それはそれは……さぞかしお疲れでしょう」
「いえ。これも仕事ですから」
かく言うエンリコも古都を訪う前に既に東王国北部から帝国西部にかけて、多くの都市の聖職者に弟子探しの依頼をしてきた。寒い冬のことだ。疲労がないわけではない。まして、より寒さの厳しくなる北への旅路だった。篤い信仰心がなければ、適当な理由を付けて途中の都市で春までの期間をやり過ごしていただろう。恐らく、大司教からの書信を携えた他の聖職者はそうしているのではないか、という予感がある。
「ところで、お食事は如何しましょう? こちらで用意することもできますが?」
親切なトマスの提案を、エンリコは即座に断った。
「いえ、ご心配には及びません。食事については当てがありますので、寝床だけお貸し頂ければ」
無理をしてでも冬の雪路を古都まで歩いてきた理由。それは、この街にあの店があるからだ。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
温かい声と雰囲気に迎えられ、久方ぶりにエンリコは居酒屋ノブへ足を踏み入れた。懐かしい、という気持ちが湧き上がることに新鮮な驚きを感じる。この店を訪れたことはほんの数回しかないというのに、不思議なものだ。
以前よりも店員の増えた店内は冬だというのに賑やかで、多くの客が酒と肴に舌鼓を打っている。
カウンター席に腰を落ち着けながら、視界の端で異教の神威の宿った小さな祭壇を確認するが、今日はこちらへ敵意を向けてはいないようだ。むしろ、また何をしに来たのかと探るような、面白がるような気配を感じる。
「ご注文は?」
身のこなしも軽やかな金髪の女性給仕に尋ねられ、どう答えたものかとエンリコは逡巡した。
本当はこの店で食べたい料理は決まっている。以前、プディング占いに使用したあの料理だ。
なめらかな舌触りと芳醇な旨味。
晩秋から冬にかけての厳しい旅に耐えられたのも、あの料理を思えばこそ。
けれども、どう切り出したものだろうか。
ダミアンを巡るあの事件は店の者にとっては思い出したくないものであろうし、敢えてその名前を出すのは……
そんなことを考えていると、別の卓から皿を下げながら黒髪の女給仕が声をかけてきた。
「今日も茶碗蒸しになさいますか? 前回のものとは少し具材が違うのですが。それとも別の料理の方に致しましょうか?」
憶えていたのか?
エンリコは不意を衝かれた想いで女給仕の顔を見る。だが、その表情には嫌なもの感じさせない。
まさかとは思うが、単純にこれまで訪れた全ての客とその注文を記憶しているとでもいうのだろうか。
いやいやまさか、とエンリコは小さく頭を振った。そんなことができる人間がいるとは思われないし、たまたまであろう。
「ああ、ではチャワンムシを貰います」
提案されたからそれに応じた、という風を装っているが、内心では小躍りしたい気分だった。これを食べるためにここに来たのに、もしちょっとした自尊心と羞恥心のせいで食べられなかったとしたら、悔やんでも悔やみきれない。
シノブ、という名前の黒髪の女性給仕はすぐに酒ではなく湯冷ましを持ってくる。本当に憶えているのだろうか。いやいや、まさか。
オトーシとして出された鶏とダイコンの塩煮を食べていると、すぐに赤髪の少女がチャワンムシを運んできた。
「お待たせしました。チャワンムシです」
おお、と漏らした声に、讃嘆の色が混じる。蓋を取ると、幾夜となく夢に見たチャワンムシのなめらかな柔肌が眼前に現れた。
エンリコは瞑目すると、口中に神への祈りを唱えはじめる。プディング占いならぬ、チャワンムシ占いだ。
実を言えば、この占いを試すのは久しぶりだった。
こうすることでエンリコは神と対話することができる。もちろん、占いに頼り過ぎてはならない。最終的に人は努力によって運命を切り拓くべきだ。さはさりながら、時には神に背中を押してもらいたいこともある。そのための占いだ。
大司教に仕えていると占いに頼りたくなる場面は少なくないが、最近のエンリコはなるべく占いに頼らぬようにやってきた。
それがここに来て占いを試してみようという気分になったは、まったくの偶然だ。気が向いた、という程度のことに過ぎない。
「畏み畏みお伺い奉ります。神よ……教会が探している画家、レオナルトの行方をお教えください」
そう念じながら、木匙をチャワンムシの中に差し入れる。
具材を見つめる。
「これは……ソーセージ?」
口に含むと、美味い。パリッとした食感を追うように中から肉汁が溢れてくる。
「ええ、チャワンムシに入れても美味しいかなと思いまして」
厨房の中から新人らしい料理人が声をかけてきた。
「はい。とても美味ですね」
口でそう答えながら、エンリコの頭は別のことを考えていた。
ソーセージと言えば、帝国の名産品だ。これまで教会はレオナルトの捜索で聖王国北部と東王国南部に軸足を置き、重点的に調べさせている。だが、これが全くの誤りで、彼が帝国にいるのだとすれば……?
そんなことがあるだろうか。普通の人間は巡礼の旅や遍歴職人の修業以外では自分の生まれた土地を離れることは稀だ。農村に至っては、教会の鐘の聞こえる範囲から生涯一歩も外に出ないという人生もあり得る。
そんな中で、目的もなく聖王国から帝国まで画家が、それも弟子に過ぎない身分の画家が旅をするというのは、エンリコの理解の範疇を越えていた。
小さく深呼吸をして、再び確認のために聖句を唱えて木匙を突き入れる。
「馬鈴薯……」
ホクホクとした馬鈴薯は口の中でほろりと崩れ、優しい甘みが口の中に広がった。これも美味い。
いや、それよりも大切なことは、これが馬鈴薯だということだ。
馬鈴薯と言えば帝国。帝国と言えば馬鈴薯。
つまり、レオナルトは帝国にいる、ということになる。
だとすれば、今までの調査はまるで見当違いのところに注力していた、ということになってしまう。
エンリコは残りのチャワンムシを急いでゆっくりと丁寧に素早く味わいながら、どうするべきか考えた。
まず、大司教猊下に連絡すべきだ。占いの結果、と正直に伝えるべきだろう。だが、周囲の聖職者たちには「似た人物の目撃情報がある」とでもした方が効果的かもしれない。
虚偽は大罪であるが、これは方便である。
「いらっしゃいませ!」
「らっしゃい!」
立ち上がろうとしたところで、新たな二人連れの客が入って来た。硝子職人風の若者と、その連れのようだが、顔はよく見えない。急いでいるからそんな余裕もなかった。
肩がぶつかりそうになったので軽く詫びながら手早く支払いを追えると、エンリコは教会への道を足早に進む。
闇雲に探すしかなかった人探しにも、漸く光明が見えた。
占いは、やはり嘘を吐かない。あとは人が正しい方法で努力すればいいのだ。
エンリコ・ベラルディーノを照らす双月の光は、今宵もどこまでも優しかった。




