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異世界居酒屋「のぶ」  作者: 蝉川夏哉/逢坂十七年蝉


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獅子とかつ丼(全)

 たっぷりの油に滑り込ませるように豚肉が投じられると、一気に鍋が騒がしくなった。

 じゅわじゅわと激しく泡立つ油はそれだけで食欲を刺激する。


「やはり油だな、油。後はパンコが決め手か」


 カウンター席で腕組みをしながらとんかつが揚がるのを見ているのは、リュービク。古都でもっとも有名な〈四翼の獅子〉亭の総料理長だ。


「あの、リュービクさん、これは私たちのまかないで……」


 昼過ぎの居酒屋のぶにはしのぶとエーファ、そしてハンスがいる。昼営業が終わり、今は休憩時間だ。信之は買い物に出ており、リオンティーヌは散歩がてら身体を動かしに行った。


「リュービクじゃない。ここではリューさんだ」


 最早ここにいる全員が正体を知っているのに、とエーファとハンスが顔を見合わせて微妙な笑みを浮かべる。少し前までのリュービクはひどいスランプに陥っていて、そこから立ち直るまでに随分と時間がかかった。


 立ち直れたことに居酒屋のぶがどの程度寄与しているのかしのぶには分からない。だが、常連のリューさんとしてこの店にやってきたことが何かの助けになったようだ、という雰囲気はあった。

 今では〈四翼の獅子〉亭の総料理長として厨房で腕を振るっているリュービクだが、どういうわけか時々こうやって居酒屋のぶに顔を出す。敵情視察という風でもない。


 老舗料亭の娘であるしのぶには、少しだけリュービクの気持ちが理解できる。〈四翼の獅子〉亭の看板は、リュービクがどれだけ優れた料理人であったとしても重いものに違いない。居酒屋のぶで常連のリューさんとして座っている時だけは、束の間、荷を肩から下ろすことができる。いや、下ろしたことにしている。その切り替えと息抜きが、きっと今のリュービクには必要なのだろう。


「〈金柳の小舟〉のせいでトンカツが豪く人気だっていうじゃないか」


 聞いてもいないのにリュービクが今日の偵察の理由を説明しはじめた。

 古都三大水運ギルドの一角、〈金柳の小舟〉で今、とんかつが空前の話題なのだという。(ハイ)という名前の新しい幹部の一人が、組織改革の褒美としてラインホルトに食べさせて貰った凄い料理と評判なのだそうだ。


 とんかつは以前、しのぶがブランターノ男爵にカツサンドを振舞ったので存在自体は知られていたが、シュニッツェルとは違うシュニッツェルより分厚い肉料理ということで、いつも腹を空かせている水運ギルドの肉体労働系人足たちの垂涎の的となっているらしい。


ロース(リュッケン)の部分を使うところまで同じなのに、何が違うのか気になってな」

「それなら営業時間に来て注文すればいいのに……」


 エーファに言われるとさすがのリュービクも苦笑いするしかない。


「ま、リューさんも最近は色々忙しいんだよ。大人ってのはつらいもんさ」


 肩を竦めて見せるリュービクだが、忙しいのは間違いないだろう。

 しのぶにも分かるほど、古都の人口は増えている。


 ヴィッセリンク商会が古都を商圏に組み込んだことも大きいそうだが、一番の変化はやはり運河だ。これまで無数の関所や通行税によって移動するだけでもかなりの金銭を支払う必要があったのが、皇帝の政策によって一気に負担が軽くなったのだ。


 実際に船の往来も徐々に増えつつあるようだし、恩恵に与かろうという耳聡い商人や職人の一団は既に古都の物件を物色している。城壁外の農地を高値で買って店や邸宅を建てようという動きも盛んになっているらしい。


 お陰で建材を運ぶ舟で水運ギルドは大忙しだ。〈金柳の小舟〉の(ハイ)の改革案に負けないようにと〈鳥娘(ハルピュイア)の舟唄〉や〈水竜の鱗〉も改善に乗り出している。特に〈鳥娘の舟唄〉のニコラウスは改革案を広く人足や出入りの業者から賞金付きで募集するという手法を採用した。これはかなりの好評を博しており、玉石混淆だが色々な改善案が〈鳥娘の舟唄〉に集まっているという。


 しのぶにとっては古都に居酒屋のぶが繋がった初期からの常連であるニコラウスが、いつの間にか時の人として古都で注目を浴びているのが嬉しいような誇らしいような不思議な気分だ。


「いいか、ハンス。シュニッツェルは少ない油でも手早く料理できるように肉を薄く叩くのが肝心だ。この時に肉の筋を切るのを忘れないようにな。トンカツはその点、揚げ油をたっぷり使うことで問題を解決している。異なる手法によって似た料理であっても、違った食感が……」


 ザクッ

 瞑目し、指を立てて滔々とシュニッツェルととんかつについて教示するリュービクの言葉を、美味しい音が遮った。


「なにっ、トンカツは切ってから提供するのか?」


 ロースかつを食べやすい大きさに切り分けるハンスに尋ねるリュービク。


「ナイフとフォークでお出しすることもできますけど、うちは居酒屋なので」


 それもそうか、とリュービクが腕を組んでむぅと不満げな声を漏らす。とんかつをシュニッツェルのように盛り付ける皿を想像していたに違いない。肩透かしを食ったようにハンスの手元を見つめ……


「おい、ちょっと待て。今から付け合わせのスープ(ズッペ)を作るのは手際が悪いぞ」


 柄付きの浅鍋に火をかけ、水や料理酒、みりんに醤油、出汁と砂糖を温めて玉ねぎを煮はじめたのを、付け合わせのスープと思ったようだ。


「あ、これはスープ(ズッペ)ではありません」


 そう断ってから、ハンスは浅鍋にとんかつを躍らせた。甘辛いかつとじの香りがふわりと店に広がる。お腹の空く匂いだ。


「なっ!?」


 驚くリュービクを尻目に、手早くとんかつを卵でとじていく。


「ト、トンカツを……煮る?」


 あらかじめ白米を盛り付けておいた丼に浅鍋の中身を移すと、彩りに三つ葉を散らした。


「カツ丼のできあがりです」


 ハンスの宣言にしのぶとエーファがパチパチと拍手をする。

 リュービクはまだ、茫然としたままだ。


「トンカツを、煮る……卵と……それを(ライス)の上に……」


 理解が追い付いていないのか、リュービクの目が泳いでいる。それもそうだ。知っている料理に似ていると思っていたのが、急に全く違う調理をされれば面食らうに違い。しのぶがカリフォルニアロールをはじめて見た時の驚きに近いだろうか。いや、揚げ物を煮ているのだから、その衝撃は更に大きいかもしれない。


 ハンスは次のカツもザクザクと切りながら浅鍋でつゆを温める。手際がいい。エーファの分で要領を掴んだのか、今度は鍋を同時に二つ温めている。


「エーファちゃん、温かい内に食べちゃって」

「いいんですか?」

「どうぞどうぞ」


 はじめに食べる遠慮を表情で表しながら、エーファが木匙でかつ丼を掬った。


 ぱくり。

 ぱくりぱくり。

 ぱくりぱくりぱくり。


 感想を言う暇もなく、一心不乱に木匙を動かす。最近めっきりとお姉さんになってきたエーファだが、こういうふと瞬間に見せる子供っぽさは微笑ましい。

 その様子を必死に見ているのは、もちろんリュービク。エーファが何も言わないので、どんな味なのか想像を巡らせながら凝視している様は真剣そのものだ。




「できました」


 丼を二つ、ハンスが運んでくる。一つは箸、一つは木匙だ。

 見つめるリュービクの視線には鬼気すら感じられる。


「なぁ、シノブ」

「はい」

「一般的に、まかない料理は客には提供しないものだな?」

「はい」

「だが仮に、とても仲のいい常連がどうしても、どうしても(・・・・・)食べたいと言ったとする」

「はい?」

「しかも適切な、いや、結構な金額の謝礼を支払うとも言っている。それでも、食べさせるつもりはないか?」


「はい」


 しのぶのきっぱりとした返答に、リュービクは一瞬愕然とし、力なく項垂れた。

 憔悴し切った顔からは血の気が失せ、まるでこの世から全ての希望が失われてしまったかのような表情を浮かべている。


「冗談ですよ。どうか召し上がってください」

「ほ、本当か! 嘘じゃないよな!」


 瞬間、リュービクの双眸が喜色に輝いた。嬉しさを抑えることができず、笑み崩れる。

 ちょっとした悪戯のつもりだったのに、冗談でも拒絶してしまって悪いことをしたとしのぶが反省するするほどの喜びようだ。


「そういうわけだからハンス、もう一つお願いしてもいい?」


 手を合わせてお願いすると、やれやれといった風にハンスは応じる。


「はい。最初からそのつもりでしたよ」


 口では億劫そうだが、態度にはそんな様子はない。今は一回でも多く新しい料理を試せるのが嬉しいようだ。

 木匙の方のかつ丼を前にして、リュービクは手をこすり合わせた。考えてみればハンスも丼物を食べる時は箸を使うから、はじめからリュービクに出すと分かっていたのだろう。こういう呼吸一つでも、ハンスの成長ぶりが伺える。


「……では」


 震える手でリュービクがかつ丼を掬った。

 それを横目に見ながら、しのぶもかつ丼に箸を付ける。まずはロースかつから。

 うん、美味しい。分厚く噛み応えのあるかつをやわらかな玉子が包み込み、甘辛いつゆをしっかりと吸った衣と絶妙な調和を醸し出している。そこに追いかけるようにごはんをぱくり。つゆがほどよく垂れた白米は本当に美味しい。


「……美味い」


 古都の人は美味しいものを食べたときに驚きを大きく表すことが多いが、今日のリュービクの反応は静かだ。しかし、深い。


「トンカツを煮る。ここまではいい。しかし卵とじて白米に乗せることでここまでの違った美味さを引き出すことができるというのは……全くの予想外だ」


 ゆっくりと口に運び、咀嚼し、嚥下し、何かを確かめるようにまた匙を動かす。この人は本当に美味しそうに食べるのだな、としのぶは感心した。澱みない一連の所作は修行する僧侶の祈りにも似て、清廉な印象を見る者に与える。料理人の中には他人の料理を食べる時、分析が先に立ち過ぎて味を楽しむことを忘れてしまう人もいるが、リュービクにはその気配はない。


 食べる。食べる。食べる。

 次第に匙を動かす速さが増し、祈りが崩れる。美味さに分析が引きずられ、かつ丼に屈する。けれどもそれが決して見苦しくない。あたかも、獅子が獲物を食らうが如くに、かつ丼を平らげていく。


「……美味かった」


 脇目も振らずに食べ終えて、リュービクが満足の吐息を漏らした。

 ちょうど同じく食べ終えたしのぶが微笑むと、リュービクも満足げに微笑みを返す。


「素晴らしい料理だ。侯爵閣下の婚姻お披露目の宴席に出してもいいほどだ」


 侯爵閣下というのは、アルヌのことだ。貴族や聖職者、有力者を招いての宴席を近い内に行うことになっているという。着飾った新郎新婦の肖像画を描くという話で、古都の住民の間でも話題になっていた。


「あ、いや、かつ丼を宴席で出すのは……」

「どうしてだ? これほど美味しい料理だ。私の方からイーサク卿に伝えてもいいが……」

「かつ丼は私の故郷では庶民の味というか、宴席の料理には相応しくないというか……」

「そうだろうか。どのような出自の一皿であっても、優れているのなら他国の宴席を飾ることができる。素晴らしいことだと思わないか?」


 流石は〈四翼の獅子〉亭の総料理長。口も達者だ。このままではアルヌの披露宴にかつ丼が並ぶことになりかねない。それは悪いことではないのかもしれないが、何となく罪悪感が……

 煩悶としながらリュービクの顔を見ると、口元に悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。


「あー!」

「冗談冗談。さっきカツドンをすんなり食べさせてくれなかった意趣返しかな」


 それを言われるとしのぶとしては言い返せない。リュービクとしのぶのやり取りを見て、エーファとハンスが笑い声を上げる。


「ん? 何がおかしいんだ?」


 ちょうど返ってきた信之が裏口から顔を覗かせ、怪訝な表情を浮かべた。


「いや、大将! これは違って!」


 それから夜営業までの間、しのぶは信之への説明と弁明に忙殺されることになるのであった。

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― 新着の感想 ―
[一言] まかないを食べさせちゃった説明??
[一言] まかないを食べられずに絶望するリューさん… なぜかシワシワピカチュウの顔を想像したww
[一言] 獅子とカツ丼は、やはり合う
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