〈鮫〉とトンカツ(前篇)
「直接お話しするのは久しぶりですね。どうぞ楽にしてください」
ラインホルトに勧められるまま、〈鮫〉はテーブル席に腰を下ろした。
昼営業の終わった時間、ノブの店内には他の客の姿はなく、〈鮫〉とラインホルト以外には掃除をしているシノブとエーファ、それにタイショーとハンスが夜の仕込みをしているだけだ。
〈鮫〉が項垂れているのは、申し訳なさからだった。
古都の水運を牛耳る三つの水運ギルドの中でも最古の一つ、〈金柳の小舟〉。その新しい飯場の責任者として選ばれたのが、〈鮫〉だ。
綽名が〈鮫〉という物騒極まりないものになっているのも故なきことではない。若い頃は荒れていたし、人を傷つけてしまったこともある。それでも生き方を見直して、真っ直ぐにやってきた。ギルドマスターであるラインホルトはその点を評価してか、多くの候補者の中から〈鮫〉を飯場頭に推してくれたのだ。
恩に報いなければならない。
そう思って、がむしゃらに働いた。不眠不休とまではいわない。だが、それに近いことはした。部下にも、取引相手にも、厳しく当たったかもしれない。無茶をしていたという自覚はある。けれども、まさかギルドマスター直々に呼び出されるほどだとは思わなかった。
叱責、されるのだろう。
噛みしめた奥歯が、軋む音を立てる。
不思議なことに、言い訳の言葉は全く浮かんでこなかった。心の中に在るのは、ただ申し訳ないという気持ちのみ。せっかく信任してくれたのに、期待に応えることができなかったのだ、という忸怩たる想いだけが川波のうねりように〈鮫〉の心をかき乱し続けている。
「シノブさん、よろしく」
「はーい」
ラインホルトが声をかけると、シノブがよく冷えたラガーのジョッキを二つ運んできた。
「まずは、お疲れ様」
「お疲れ様です」
美味いはずのラガーの味がしない。
お疲れ様、という言葉が〈鮫〉の心臓に鋭い牙を突き立てる。やはりこれで終わりなのだろうか。飯場頭を馘にするまえに、労いの食事会を設けてくれた。そう考えると、ラインホルトの気遣わしい笑顔に前にもまして感謝の情が芽生える。
「……すみませんでした」
「えっ」
謝罪に言葉に返ってきたのは、ラインホルトの戸惑いだった。
「え、今日は飯場頭を解職するという話で呼び出されたのでは……?」
「いやいやいや、とんでもない。どうしてそんなことを!」
「私が張り切って飯場のやり方を変えていることに対して、反発が出ているのは知っています」
嗚呼、とラインホルトが右手で髪をくしゃくしゃとやる。ひょっとして何か思い違いをしていたのだろうか。
「〈鮫〉、君はよくやってくれています。本当に感謝しているんです。これには裏も表もありません」
両の掌を見せて、ラインホルトははっきりと宣言する。
「確かに君が飯場を改革するために古いやり方を変えたことに反対している者もいます。でも、全員の意見が一致するまで待っていられるほど今の古都はのんびりした状況じゃないことは私が一番分かっています。心配しなくていい。ちゃんと見ていますから」
その瞬間、〈鮫〉は自分でもよく分からないほどの安堵の感情に襲われ、大きく息を吐いた。
「本当ですか」
「本当も本当です。こんなことで嘘を吐く理由がありません。今日は労いの為に呼んだんですから」
てっきり人前で叱責しないために、客のいない時間の居酒屋に呼ばれたのだと思っていたから、これには面食らった。
「でも、自分には褒められるようなことは……」
「何を言っているんですか……」
まだ年若いギルドマスターは指折り〈鮫〉の功績を挙げはじめる。
「まずは荷受倉庫の管理方法の変更と統一。文字の読めないものでも分かるように看板を作ったのがよかったです。それから荷揚げ列の整理。横入りを無くしたことに反発した古株がいたようですが、全体的に皆納得しています。事故も減るでしょうしね」
「……ありがとうございます」
自分ではそれほど大したことをしたと思っていない。艀主をやっていた頃から不便だと感じていた部分や、飯場に集う人足たちから聞き取りをして出た問題点を改めただけだ。それなのにこれだけ褒めてもらえるというのは、なんだか面映ゆい。
「そして何より、先導舟の導入! 事前にどんな荷物を積んだ船が入港するかを知らせる舟を〈金柳の小舟〉がはじめたことで入港も荷受も円滑になって、荷主にも人足にも大好評だ。本当にすごいことですよ、これは」
先導舟は確かにいい案だったと思う。古都に入港しようとする船を見つけると小舟で近づき、下ろす荷物の種類や量を聞き取って荷受に連絡する。何がどれだけ下ろされるか分かっていれば段取りはしやすいし、手間を減らすこともできる。商人の中には先導舟の連絡を受けて先に馬車や荷車を荷受に寄越す者も現れた。時間は金で買えない。小さなことに見えて、その積み重ねは大きい。
「〈水竜の鱗〉も〈鳥娘の舟唄〉も慌てて真似しましたが、先んじてうちが始められたことの意義は大きいです。本当にありがとうございます」
こんな風に他人から激賞されると、誇らしいという気持ちと同時に恥ずかしさが押し寄せてくる。慣れていないのだ。
「自分は、やれることをやっているだけです」
「それができるというのが素晴らしいことなんですよ」
〈鮫〉の手をラインホルトが感極まったように握りしめるが、一瞬で我に返ったかのように解いて空咳で誤魔化す。
古都三大水運ギルドの中でも風下に立たされることの少なくない〈金柳の小舟〉だ。他のギルドに先んじて先導舟の仕組みを作ることができたのがよほど嬉しいのだろう。
「そういうわけで、今日は私の奢りです」
とは言えまだギルドの運営が厳しいので、〈鮫〉さん一人ですがと笑って付け加える。
そう言えば先ほどから、カラカラと小気味のいい揚げ音が聞こえていた。褒美に奢ってくれるというから、何か美味しいものなのだろう。ザクッザクッと切り分ける音までが美味そうに聞こえる。
何を食べさせてくれるのか尋ねようとした時、ちょうど折よくエーファが料理を運んできた。
「トンカツです」