中隊長欠勤事件(後篇)
「お久しぶりです!」
エーファが嬉しそうにヘルミーナの手を引き、カウンター席へと誘う。
「あら、ニコラウスさんに、ヒエロニムスさん、それにイーゴンさんまで。いつも夫がお世話になっております」
ヘルミーナは目敏くテーブル席のイーゴンたちを見つけて、軽く会釈をした。
まさか衛兵全員の顔を憶えているのだろうか。大したものだ。
「なぁ、ヘルミーナさん、ちょっと聞きたいんだけどさ」
ヘルミーナが席に腰を下ろすや否や、リオンティーヌがオシボリを手渡しながら尋ねる。
「はい? 何かありましたか?」
「〈鬼〉の旦那……じゃない、ベルトホルト中隊長は大丈夫なのかい?」
「大丈夫、というと……?」
訝し気な表情のヘルミーナに事情を説明するため、サワラのシオヤキでレーシュをやっていたニコラウスが背もたれに手をかけて向き直った。
「いえね、中隊長が最近、訓練を休むことがあるって話で」
「ああ!」と合点がいったようにヘルミーナが手を叩く。
「でも、お休みの届け出は聯隊長の方に提出していると聞いていましたけど……」
イーゴンはヒエロニムスの顔を見た。衛兵隊の事務を預かるヒエロニムスは溜め息を吐きながら首を小さく横に振る。つまり、聯隊長からは何も聞かされていないということだ。
馬面の聯隊長は古都衛兵隊の司令官ということになっているが、訓練に顔を出すのは年に数度あればよい方。人望もなければ事務能力の低いという人物で、家柄と組織遊泳術で今の地位にいるという存在だ。
イーゴンとヒエロニムスの表情から察したのか、ヘルミーナが申し訳なさそうに頭を下げた。
「ちゃんと部下の方たちにも連絡がいっていると思っていたのですけれど……休みを頂いている日は、夫は家で子育てをしているんです」
子育て、と聞いて、リオンティーヌが目に見えて安堵の表情を浮かべる。
体調不良で欠勤していたわけではなかったのだ。
「お子さんが二人いらっしゃると、お忙しいでしょうね。中隊長も手伝いとは」
「手伝いだなんて、とんでもない!」
ヒエロニムスが賛嘆の声を上げると、ヘルミーナが思わぬ否定をする。
「え、手伝いをするために休んでるんじゃないですか?」
思わず包丁を動かす手を止めて、ハンスが聞き返した。
「ハンス、手」
「あ、はい!」
すかさずタイショーに注意されるのを見ると、なんだか面白い。
「夫の名誉のためにもはっきりと言っておきますが、ベルトホルトは、子育ての手伝いをしているわけじゃなくて、我が家の子育ての主力です」
ヘルミーナがはっきりと宣言するのを聞いて、そこにいた全員が「主力」と呟く。
「確か中隊長は子育てに二人、お手伝いさんを雇ってましたよね」
事情通のニコラウスが指摘すると、ヘルミーナが頷いた。
「双子だったので、もう一人増やしてもらって、今は三人に来てもらっています」
おぉ、と声を漏らしたのはヒエロニムスだ。
衛兵隊の会計と人事を担当しているから、即座にベルトホルト中隊長の給料から人を三人雇うのがどの程度の負担かを計算したのだろう。
「じゃ、じゃあなにかい?〈鬼〉のベルトホルトが、赤ん坊をあやしているってことかい?」
「ええ、襁褓を替えるのも、乳母顔負けの上手さなんですよ」
シノブもタイショーも感心しているが、いちばん驚いているのはなんといっても、エーファだ。
「赤ちゃんの世話なんて一人でも大変なのに、それを二人同時に……凄いです!」
イーゴンには下に弟妹がいないのでよく分からないのだが、よほど大変なのだろう。
「ええ、自慢の夫です」
上司の妻にそう言われると、惚気でも惚気に聞こえないから不思議だ。
「それで今日は、ベルトホルトが私に育児の休みをくれたんです」
嬉しそうなヘルミーナに、「焦って損したよ」と苦笑しながらリオンティーヌがオトーシのタコとワカメの酢の物を出す。
「それでヘルミーナさん、今日は何を食べていきます?」
シノブに聞かれると、待っていましたとばかりにヘルミーナの笑顔が輝いた。
「しばらくお邪魔していなかったから、色々食べたくて食べたくて……」
「じゃあ、一人前より少しずつにして、いろいろ食べられるようにお出ししましょうか」
タイショーの提案に、
「いいんですか……?」とヘルミーナは強縮してみせるが、満更でもなさそうだ。
もちろん、とタイショーが請け合うと、ヘルミーナが注文をはじめる。
「まずはサシミとミソシルを。焼き魚か煮魚のよさそうなところも。それからワカドリのカラアゲにキュウリのイッポンヅケ……あと、ポテトサラダも食べたいですね……もしできるならタキコミゴハンと、噂になっていたハンスさんのペリメニと……」
「はい。ひとまず、刺身の盛り合わせと味噌汁に若鶏の唐揚げと、きゅうりの一本漬け。鰆が綺麗なのでこちらを焼き魚に。ポテトサラダとハンスのペリメニですね。炊き込みご飯は少々お時間を頂きます」
五月雨式の注文をシノブが事も無げに復唱してみせる。
「はい、それでお願いします」
厨房に注文が通ると、タイショーとハンスがすぐに動きはじめた。
一挙手一投足が洗練されていて、いつ見ても気魄が籠っている。道こそ違えど、修練の先でしか辿り着けない動きだということは、イーゴンにも分かった。
「それにしても、奥さんに休みをやるなんて、〈鬼〉の旦那もやるじゃないか」
リオンティーヌの言葉に、ハンスも調理の手を止めずにうんうん、と頷く。
確かに、なかなかできることではない。
「こういうところは見習わないとなぁ」とニコラウスがしみじみと呟くと、すかさずエーファに、
「ニコラウスさんも奥さんを貰う予定があるんですか?」と指摘され、ドギマギとしている。
田舎で猟師をやっている親の元を離れて古都に出てきたときには強くなることにしか関心がなかったイーゴンだが、今ではこの光景を微笑ましいと思えるようになった。
こういう何気ない日々を守るという意味でも、衛兵という仕事は大切なのだ、と思う。
「さ、料理がどんどん出るよ!」
調理の終わった料理から、リオンティーヌがカウンターへ運んできた。
「これこれ!」
新鮮なサシミを食べて、ヘルミーナが身悶えせんばかりに喜んでいる。
普段、家で育児に追われていれば、こういう場は確かに貴重なのだろうな、ということはイーゴンにも分かった。
「どんどん召し上がってくださいね」とシノブも嬉しそうだ。
ヘルミーナが全てを平らげる頃には、夜はとっぷり暮れていた。
「そろそろ夫が迎えに来るはずなので」と席を立つヘルミーナは、満足そうだ。
支払われた銀貨を見て、エーファが驚きの声を上げた。
「ヘルミーナさん、これじゃ貰い過ぎです」
たっぷりの銀貨からいくらか返そうとするエーファに、ヘルミーナがにっこりと微笑む。
「あの人が次に持ち帰りの料理を買いに来た時に、ラガーでも一杯飲ませてあげてください」
あの夫にして、この妻あり。
いい夫婦だ。
「では、ありがたく頂戴します」とタイショーとシノブが頭を下げる。
ヘルミーナが店を辞去するために手を掛けた瞬間、硝子戸が外から引き開けられた。
「迎えに来たぞ、ヘルミーナ!」
偶然なのだろうか。それとも、ここまでくれば必然なのかもしれない。
迎えに来たベルトホルトは、前と後ろにそれぞれ子供を抱えている。
「お、なんだ。イーゴンにヒエロニムスだけじゃなくて、ニコラウスまでいたのか。うちの嫁さんに何か変なことは言ってないだろうな?」
そんなことするわけないじゃないですか、とニコラウスが慌てて見せた。この辺りの駆け引きも信頼関係からくるものなのだろうか。
二人の去った居酒屋ノブで、イーゴンはしみじみと呟く。
「……嫁さん、か」
「なんだ、イーゴン。嫁取りでもはじめるのか?」
ふざけたように尋ねるヒエロニムスに、イーゴンは何も答えなかった。
守るものが増えるのも、いいことなのかもしれない。
そんなことを考えながら呷るラガーは、いつもより少し苦い気がした。