吟遊詩人の夜(前篇)
柔らかな月明かりが夜道を照らしている。
日に日に春めく古都の一角。
家路を往く人々がふと足を止めたのは、穏やかな歌声が耳に届いたからだ。
旅情を詠う古歌は朗々として、ついつい聞き惚れてしまう。
小ぶりなリュートで弾き語るのは、マグヌスだ。
歌は、帝国北方を視察のために旅する日々で収集したものだった。
古来より、旅をするのに助かるとされる特技がある。
料理、散髪、歌舞音曲に鋳掛けと大工。
秀でた技はどこへ行っても重宝されるものだ。一宿一飯に与ることもできれば、路銀の足しを得られることもある。
それだけではない。
来訪者の少ない僻遠の地に住まう人たちは、自然と余所者に警戒心を抱くものだ。貴族が視察に訪れたと馬上から告げれば、口を噤む人も少なくない。
マグヌスは警戒心を悪いことだと思わないが、村々に暮らす人々のありのままの姿を知る上では厄介なことだ。時には石や弓を構えての歓迎を受けることもある。
その点、吟遊詩人は歓迎された。
帝国北部の冬は長い。
暖炉の傍で夜毎に語られる話の種に限りはないが、人は新しい話に飢えるものだ。
そんなときにふらりと吟遊詩人が訪れれば、大いに歓迎される。乏しい中から酒食が振る舞われ、歌と演奏の見返りに村の素朴な話が差し出された。
神話もあり、妖精譚もあり、四季折々の風土の話もあり、当然ながら政治の話もある。
マグヌスは吟遊詩人に身をやつして、サクヌッセンブルクより北の地を歩いた。
兄であるアルヌは休暇としてマグヌスを旅に出させたつもりだったようだ。
だが、マグヌス自身は仕事として物を見、聞き、触り、嗅ぎ、そして食べた。
考えていたよりも、それは楽しい経験だったと言わざるを得ない。旅をはじめてすぐに、自分がこの旅程をひどく愉しんでいることにマグヌスは気が付いたのだ。
はっきりと言ってしまえば、書類に囲まれて仕事をしているよりも、旅から旅に身を置きながら歌う生活の方が、性に合っているとさえ思った。
そんなことを言い出せなかったのは、兄が吟遊詩人の道を捨てたことを知っているからだ。
マグヌス・スネッフェルスにとって、兄の存在は大きい。
恐らくアルヌが考えているよりも、マグヌスは遙かに兄のことを慕っている。
旅をするときに吟遊詩人を装うことを決めたのも、単純に兄への憧れからだ。
アルヌが吟遊詩人を目指していた姿を格好いいと思っていなければ、小さな炉を担いで鋳掛けの真似事をしながらでも旅をした方が、いくらか楽だっただろう。
穴の空いた鍋を修繕し、錆びた鎌を研ぎ、ちょっとした金属製品を商う鋳掛け屋の方が、聞ける話の幅は広がったに違いない。
けれどもマグヌスは吟遊詩人を演じることを選んだ。
演じながら、自分が本物の吟遊詩人であるように錯覚しはじめるほどに、没入した。
実際に、マグヌスは歌が上手い。
歌舞音曲から武芸百般、絵画に詩歌まで手を広げた大伯父の芸事の才覚を色濃く受け継いだのはマグヌスの方だった。
リュートを爪弾きながら思い返しても、不思議な旅だったと思う。
吟遊詩人を演じる貴族が次第に使命を忘れ、吟遊詩人に成り果てていく物語。
それ自体が吟遊詩人の歌になりそうな題材だ。
しかし、そんな詩想ももう終わりにしなければならない。
運河浚渫の中止は、サクヌッセンブルク侯爵家にとっても重大事だ。
兄は今になって慌てて人材を探しているようだが、易々と集まるものではない。
マグヌスも昼夜兼行で仕事に追われ、走り回る有様だ。
食事を摂る暇さえなく、倒れかけたところを居酒屋に助けられたことさえある。
そんな風に多忙を極めるマグヌスが今、リュートで人々を愉しませているのは、義理の姉であるオーサのお陰だった。
何事にも目の届く義姉は、マグヌスに仕事が集中していることを憂い、強制的に一両日の休みを与えたのだ。
正直なところ、ありがたかった。
このまま書類の山に埋もれていては、いつか大きな失敗をしでかしかねない。
仕事は嫌いではないが、限度というものがある。
息抜きをしようと思い立ったマグヌスが手にしていたのが、リュートだったというわけだ。
もう少し演奏したら、何か美味いものを食べに行こう。
先日の居酒屋にお礼もかねて食事に行って、何か腹に溜まるものでも食べれば、気分も変わるに違いない。そして明日は一日を寝床で無意味に使い潰すという贅沢を愉しんでから、激務の現実へ帰還するのだ。
そんなことを考えながら演奏をし終えると、疎らに拍手が起こった。
柄になく、嬉しい。
「いい演奏だった」
声をかけてきたのは、一人の老吟遊詩人だ。
「どうかね、一杯」とジョッキを掲げる仕草をしてみせる。
「お付き合いさせて頂きます」
偶然にも、老吟遊詩人の向かったのは、あの居酒屋だった。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
不思議と暖かい店内には心地よい喧噪が満ち、活気に溢れている。
マグヌスは老吟遊詩人と並んでカウンターに腰を落ち着けた。
よほど慣れているのか、流れるように二人分のラガーと料理を注文している。
「お帰りさない、クローヴィンケルさん」
店員のシノブが吟遊詩人にオシボリを手渡した。
「ああ、今回の旅は稔りあるものになったよ」
クローヴィンケル。
その名前には憶えがあった。兄の書棚に立派な詩集が収まっていたはずだ。
確か、兄が師事しようとして断られ、結果として侯爵の位を襲爵する切っ掛けになった人物でもある。つまり、マグヌスとサクヌッセンブルク侯爵家にとっての恩人だ。
「お二人はお知り合いだったんですか?」
オトーシを並べながらエーファが尋ねると、クローヴィンケルが髭をしごきながら頷く。
「吟遊詩人は全員が知り合いだ。昔からそういうことになっている」
「あ、いや、私は」
マグヌスが慌てて否定しようとすると、クローヴィンケルは片目を瞑ってジョッキを掲げた。
「プロージット!」
「ぷ、プロージット!」