帝国河川勅令(後篇)
「もうやっていますか?」
そうこうしている間に、夜の営業時間になった。
引き戸からひょっこりと顔を覗かせたのは、ヘンリエッタだ。
「お邪魔します」
後ろから父親のゲオルクが続く。
「いらっしゃいませ!」
「……らっしゃい」
誘拐犯からの要求に従い、ゲオルクはあれ以来、昼と夜、ヘンリエッタを連れてのぶに欠かさず食事に訪れていた。はじめこそぎこちなかった親子の会話も最近では少し弾むようになり、親子未満から漸く普通の親子といった風情になりつつある。
「ウンターベルリヒンゲンさん、こんにちは」
マグヌスが声をかけると、ゲオルクは恐縮したような笑みを浮かべた。
「こんにちは。魚、美味しそうですね」
二人分の注文をしながらテーブルに腰を下ろすゲオルクは、疲れているがどこか晴れやかな顔をしている。聞けばこれまで迷惑を掛けた人たちに、ずっとお詫び行脚をしているのだという。
快く許してくれる人もあれば、心ない言葉を投げかける人も当然いる。
しのぶは知らなかったのだが、〈鼠の騎士〉と言えばこの辺りでは眉を顰めない人はいないほどだったというから、相当の悪人だったのだろう。
よく見ると、殴られでもしたのか、頬が少し腫れていた。
「大丈夫かい?」
リオンティーヌが濡れ手ぬぐいを渡すと、ゲオルクは一瞬、驚いたような表情をし、神妙な顔で礼を言う。
「ありがとうございます。殴られただけで済む話ではないですから、仕方ありません」
それにしても、とゲオルクは続けた。
「奪わなくても誰かから何か助力を貰える、というのはいいものですね」
横で聞いていたヘンリエッタが、満足げに頷く。
「お父さんにはこの調子で、善いお父さんになって貰うんだから」
はははと苦笑しながら、ゲオルクが頭を掻いた。
「娘はこう簡単に言いますが、人間というのはなかなかどうして、一朝一夕に変われるものではないですね」
「そんなもんですか」と食事を終えたマグヌスが少し遠い目をする。
「そんなもんですよ」と答えるゲオルクも、視線はヘンリエッタを向いているが、どこか遠くを見つめているようだ。
「そうですかね」と口を挟んだのは、食後に湯冷ましを飲み終えたラインホルトだった。
「変わることは難しく見えても、変わろうとすることはできますよ」
だってほら、誰もが絶対に解決できないと思っていた大河の通行税の問題も、何かを変えようとしたから変わったじゃないですか、と続ける。
ゲオルクとマグヌスが顔を見合わせ、破顔した。
運河の浚渫は中止され、形の上では古都は何も変わっていない。
それでも大河の通行税はなくなり、河賊の問題も解決の糸口が見えた。
大切なのは、変えようとする意志なのだろう。
「お待たせしました。ホッケの開き定食、二人前です」
しのぶが定食を運ぶと、ヘンリエッタが目を輝かせた。
今晩のホッケは肉厚で脂も乗っていて、しかも大きい。大人の二の腕ほどもある。
「これは立派な……」
醤油を掛けた大根おろしを一緒に食べると美味しいですよと助言すると、素直に二人とも従う。
網で焼いたホッケは余分な脂が落ち、きつね色の身を皿の上に横たえていた。
しっとりパリっと焼き上げた表面は艶やかで、箸を入れるのがもったいないほどだ。
イングリドの家にいる間に少しだけ箸の使い方を覚えたヘンリエッタがホッケの身を解すのを、ゲオルクも見様見真似で同じようにする。
ぱりっ
傍で見ている側も嬉しくなるような焼き加減のホッケに、箸が入った。
不慣れながらも、娘と同じように、ゲオルクが魚を口に運ぶ。
「……美味い」
そこからは、もう止まらなかった。
ホッケの頭を指で押さえ、ぎこちない箸捌きで身を剥がしていく。
力加減を誤ったのか、身が崩れるが、気にしない。ホッケは、それでも美味しいのだ。
ホッケを食べ、白米を食べ、味噌汁を飲む。
「美味い。美味いなぁ」
その様子を見ながら定食に箸を付けるヘンリエッタは、どこか嬉しそうだ。
あまりに美味そうにゲオルクが食べるので、見ていたラインホルトとマグヌスが生唾を飲む。
確かに、このホッケは実に美味しそうだ。
最近は市場へ行っても大きなホッケには手が出ないと溢す信之が、久しぶりに自信を持って仕入れてきた逸品だった。
「あの……」とマグヌスが注文の手を挙げようとしたところで、ゲオルクがそれに気が付く。
「もしよろしければ、分けませんか。このホッケという魚、随分と大きいので」
「いいんですか?」と尋ねるマグヌスに、ゲオルクが少し照れくさそうに頷いた。
「ええ、是非」
エーファがすぐに取り皿と箸を持って行く。
大ぶり過ぎてもてあまし気味だったヘンリエッタのホッケも、綺麗に身が分けられた。
魚を食べれば、話題は自然と海へ向かう。
「通行税がなくなれば、北の港から干物を仕入れても利益が出るようになります」
日本酒を注文しながら、ラインホルトがホッケに舌鼓を打つ。
それはいいですね、と相槌を打つマグヌスも日本酒に興味津々だ。
以前、ラインホルトが生きたままのタコを仕入れて古都の人々を驚かせたことがあったが、これからはますます色々な海産物が市場を賑わすことになるに違いない。
ヘンリエッタは大根の味噌汁がよほど気に入ったのか、おかわりを所望した。
店内に、和気藹々とした空気が流れている。
「お父さん、明日はお肉が食べたい。鶏のお肉!」
「ははは。というわけで、タイショー。明日は肉料理を注文することになりそうです」
「分かりました」
予告されたのだから、信之もきっと腕によりを掛けて料理をするに違いない。
エーファが信之の袖を引っ張り、仕入れすぎないで下さいね、と釘を刺す。
はじめて会ったときには一言も口をきかなかったヘンリエッタも、随分と明るくなった。
目に見えない変化と、目に見える変化。
もうすぐ、長かった古都の冬も明ける。
雪と、それ以外の何かが溶け、春がやって来るのだ。




