鼠と竜のゲーム(参)
◇
「生活、か」
アルヌは顎に手を当てる。
〈鼠の騎士〉の悪名に恥じない、嫌な一手だ。
生活が破壊されると聞いて、理性的でいられる人間はいない。
賭けてもいいが、ゲオルクは運河が人々の生活を破壊するかどうかなど気にしていないはずだ。
生活を破壊すると主張することが、人々の耳目を集められるという策だろう。
その策が効果的だということは、アルヌも認めざるを得ない。
居酒屋ノブで酒を酌み交わしている客たちも、興味津々という様子でこちらを窺っている。
「悠久の大河のもたらす恵みは、魚や貝、工芸品の材料となる植物だけではありません。行き交う舟をもてなす舟宿は民草の大切な収入源です」
よく通る声でゲオルクが演説を続けるのを、アルヌはじっと見つめた。
自分自身が吟遊詩人を目指して旅をして見たこと、弟のマグヌスが視察してきた北部の暮らしが脳裏にありありと浮かんだ。
大河の畔に暮らす人々は、ゲオルクの言うようにその恩恵に浴しながら生計を立てている。
「民が餓えれば、そこから税を得る貴族も同様です」
身振り手振りを大きくしながら、ゲオルクは続けた。
アルヌに話しているのではない。周りにいる聴衆に語りかけている。
「大河沿いの領地を治める貴族たちは、正に帝国の藩屏として日夜、研鑽を積んでいます。大河を遡上してくる北方の夷狄を退けることが課せられた役割だからです」
その通りだ。
北方三領邦も、大河沿いに領地を有する大小の貴族たちも、北から竜視耽々と帝国の沃土を狙う侵掠者や匪賊を撃退することを帝国から期待されている。
「民は耕すもの、僧は祈るもの、騎士は戦うもの。騎士たちが万全の状態であれば、如何に北方の夷狄といえども、鎧袖一触。しかし……」
ゲオルクが大げさにかぶりを振り、悲しげな表情を浮かべて嘆息した。
運河が通れば、民への税を通じて貴族の現金収入が減る。そうなれば、帝国北方の守りが手薄になるとでも言いたいのだろう。
欺瞞だ。
運河が通れば舟宿の経営が苦しくなる、というのは事実だろうが、そこから貴族に上がる税など高が知れている。
本当に減る貴族の収入は河賊からのものであり、当然ながら、犯罪だ。
犯罪に手を染められなくなるから帝国に対しての騎士の誓いを果たせなくなる、というのなら、そんな誓いなど即刻破棄してしまえ、とアルヌは思う。
演説を聞きながら、アルヌは段々と腹が立ってきた。
ゲオルクは綺麗事しか言わない。
その綺麗事が、民草や騎士のためになるのなら傾聴の価値もあるだろうが、これは違う。
はじめに口にした「生活のため」という言葉が少しでも本物であったなら、アルヌもゲオルクの演説を終いまで聞いたかもしれない。
だが、話の内容は別のところへ移ってしまった。
ここから、〈鼠の騎士〉お得意の強請りがはじまるのだろう。
それを待つほど、アルヌは優しくない。
運河浚渫の妨害を企てているのがゲオルクだという噂を耳にしてから、アルヌは〈鼠の騎士〉について徹底的に調べさせた。
自力救済の騎士、ゲオルク・フォン・ウンターベルリヒンゲン。
冬の間ということもあり調査には限界があったもののそれでも呆れるほどの伝説がアルヌの下に届けられた。
彼は誰も信じないし、誰も頼らない。
ゲオルクにとって、他者とは奪うための相手でしかなかった。
例えば土地の所有権で揉め事が起きたとき、ほとんど全ての人は仲裁を求めて裁判を起こす。
裁判を取り仕切るのは、その一帯を統治する領主や、時には帝国そのものだ。
徴税と裁判は統治の最も重要な部分であり、木の根のようなもの。根が細ければ大樹がどれだけ繁っても、その栄華は短く、虚しい。
だから領主も帝国も、裁判を仇やおろそかには扱わなかった。
その土地で起きたことはその土地を統べる者が裁く。
裁く権利があるということが統治の根拠だからだ。
ゲオルクは、それを容易く無視する。
誰かに怪我を負わされれば、相手の身包みを剥いで放り出す。
誰かが自分の土地を侵犯すれば、徒党を組んで館を攻め、賠償を求めて取り囲む。
誰かが服に葡萄酒をこぼしたというだけで、その賠償を求めて高価な服の代金を毟り取る。
更に悪質なのは、揉め事の発端が本当にあったかどうかは関係ないということだ。
アルヌの調べた限り、ゲオルクの関わった事件のほとんどは、難癖に過ぎない。
正規の裁判を起こせば、全て退けられただろう。
だが、〈鼠の騎士〉はそんな些細なことには構わない。
奪うために嘘を吐き、奪うために策略を巡らせ、奪うために人を嘲る。
かつて帝国が弱々しく、まだ統治が行き届かなかった時代であれば、人々は自分のことを自分で守らねばならなかっただろう。ゲオルクのような在り方をする人間もいたかもしれない。
しかし、今は違う。
帝国は〈黄金の三頭竜〉の紋章を掲げる帝室によって統治されているのだ。
〈鼠の騎士〉が手を染めていることは、単なる危険な火遊びではなく、〈黄金の三頭竜〉に対する重大な挑発であり、挑戦だった。
運河浚渫の件で大義のない反対派貴族を糾合して小銭を巻き上げようというゲオルクの企みに、アルヌは鐚の銅貨一枚、払う気がない。
温くなったラガーの残りを一気に呷る。
苦みが、アルヌの気を引き締めた。
「なるほど、ゲオルク・フォン・ウンターベルリヒンゲン。君の言いたいことは分かった」
気持ちよく演説していたのを途中で遮られ、ゲオルクの表情に一瞬だけ怒気が浮かぶが、すぐに消えた。抑制の効いた煽動者だ。
だが、相手が悪い。アルヌは大諸侯であり、つまりは生まれる前からの政治家なのだ。
「つまりゲオルク、貴公は畏れ多くも帝国を脅迫しているのだな?」
アルヌの反撃を受けて、ゲオルクの顔に朱が走った。
「決して、そういうわけでは……」
「帝国騎士の尽忠を軽んじ、諸侯の誇りと矜持とを甘く見て、運河が通れば槍働きができなくなるから通さないでくれ、などと言うのは騎士の風上にも置けない」
思わぬ反撃だったのだろう。ゲオルクの表情が目に見えて歪んだ。
訴えが正当なものであれば、アルヌとしてはその想いを聞き届けないではない。
だが、徒に帝国を脅すような言辞を弄して小銭をせしめようというのであれば、見過ごすことはできない。
フォン・ウンターベルリヒンゲンの旗は、〈群鼠〉。
サクヌッセンブルクの〈大鯨〉は帝国の〈竜〉の同盟者であり、臣下である。
〈鼠〉が〈竜〉にゲーム(シュピール)を仕掛けるのであれば、〈竜〉の側に立つ。
まして、ゲームを仕掛ける振りをして〈竜〉に敵対するのであれば、叩き潰すまでだ。
視線で射殺そうとするかのようなゲオルクを余所に、アルヌはテーブル席で静かに夕餉を愉しんでいる夫婦に目配せをした。
まだ新婚と思しき夫婦の夫の方がアルヌに小さく頷きを返す。
もしゲオルクにもう少し注意力があれば、その男性の横顔が、帝国大金貨に鋳込まれている顔とよく似ていることに気が付いたかもしれない。
「……本来であればまだ秘事であるが」
アルヌは居住まいを正して重々しく宣言する。
「運河浚渫の計画は既に皇帝陛下のお耳に入っている。陛下は帝国北方の諸問題について、大きな関心を抱いておられる」
皇帝陛下、という言葉にゲオルクの表情が俄に青ざめた。相手が諸侯であればどうとでもなると思っていたのだろうか。侯爵も舐められたものだ。
「だが!」
〈鼠の騎士〉が口を挟んだ。
その表情には憤怒と縋り付くような色が綯い交ぜになっている。
「皇帝陛下が介入なさるのであれば、貴族や民が苦しむことをお許しになるはずがない」
「もちろんだ」
アルヌは鷹揚に頷いて見せた。
「寛大な皇帝陛下は民や貴族が困窮することを望んでおられない」
ここでアルヌは一拍置く。
「苦しむべきではない民や貴族の中には、当然、古都とその周辺の住民も含まれる」
戦鎚で頭を殴られたように、ゲオルクの表情が歪んだ。
そもそも、運河を浚渫しようという話の根本は何か。
古都の人々が河賊や大河沿岸貴族の不当な通行税によって、本来得られるはずの利益を得られない状態が続いていたからだ。
そして、古都は帝国直轄都市である。
統治は市参事会によって取り仕切られているが、定義の上では帝国を領主として戴いている。
皇帝がこの件について仲裁に乗り出すことは、法の上から見ても、極めて正当だ。
「それでも、もし運河が通れば、悠久の大河の恵みを受けて暮らしている貴族たちの生活は……」
苦し紛れの反撃だった。
ついに建前でも民という言葉を使わなくなったのは、哀れですらある。
「一つ聞きたい。貴公の言う、生活とはなんだ?」
アルヌの問いに、ゲオルクはすぐに答えなかった。
訝しげにアルヌの瞳を覗き込む視線は憎しみの焔を宿し、煌々と燃えている。
少しでも議論を延ばし、起死回生の糸口を探そうという気配を既に隠そうともしていない。
「全てです」
「全て、とは」
「生まれてから死ぬまでの、全て。住むこと、着ること、食べることの全てです」
詐欺まがいのことまで駆使して人から奪うことで生きている人間だけあって、口が達者だ。
「アルヌ様もご存じでしょう? 貴族の生活の内実は、苦しい。民からクルミ油を搾るように徴税しても得られるものは無限ではない。貴族としての体面を保つために必要な付き合いは多く、冠婚葬祭の全てに降り積む雪ほどの金穀が出ていくことになるのです」
ゲオルクの言っていることは間違いではない。
貴族の生活には金がかかる。借財を抱えていない貴族など、ほとんどいないだろう。
付き合いの多い大貴族になればなるほど、その傾向は強い。
誕生祝い、洗礼祝い、元服祝いに堅信礼祝いと指折り数えれば限りがなかった。
一陽来復の度に挨拶の品を送り合うのだから、その費えが神学的な数字になるのも無理はない。
加えて貴族には武備も必要だ。
限られた収入と増え続ける支出。
しかし、それを何とかするのが、貴族の才覚というものだろう。
先々代のサクヌッセンブルク侯爵である大伯父の蕩尽した莫大な財の埋め合わせに人生の過半を費やした父を見ているだけに、アルヌの目には、知らず知らずの内に憐憫の情が混じった。
もちろん、河賊に手を染めるなどは言語道断であるが。
「貴族といえども!」
口角泡を飛ばす勢いで、ゲオルクは訴える。
最早、聴衆のことを意識した弁論の態をなしていない。
「貴族といえども、生活があるのです。戦うことが本義の貴族とはいえども、その本心では家族と囲む食卓の団欒を愛していないはずがない!」
「嘘よ」
か細く、しかしはっきりとした言葉が〈鼠の騎士〉を遮った。
居酒屋の入り口、引き戸の近くに、少女が一人立っている。
少女の後ろに控えているのは、徴税請負人のゲーアノートと薬師のイングリドだ。
「お父さんは、私と一緒にご飯を食べようとしないじゃない」
その一言に、ゲオルクは項垂れた。
心の中の何かが、真っ二つに折れたのだろう。
アルヌには、そういう風に見えた。




