双月ソバとあたたかい雪(後編)
絞り出したエーファの声に、タイショーが、シノブが、ハンスが、リオンティーヌが振り向く。
「エーファちゃん、いくらなんでも無理だよ」
ハンスが慌てるのも、エーファにはよく分かった。
まだ茹でられていないソバは、結構な量がある。
今日打ったソバはアイゼンガルド商会を経由してグロッフェンという領地から仕入れたソバ粉を使ってタイショーとハンスが打ったものだ。
一人では食べきれそうにないが、責任はエーファにあった。
エーファが頼まなければ、タイショーもソバをこんなに打とうとしなかっただろう。
「はじめて使う蕎麦粉だったから、調合も試行錯誤だったし、俺が悪いんだよ」
そう言いながらも、タイショーの視線は打ったソバから離れない。
エーファはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
浮かれていた自分が、恥ずかしい。
双月ソバは確かに美味しい。けれどもお客さんはまだそれを知らないのだから、注文が殺到するはずがない。
少し考えれば分かることだ。
思わず涙がこぼれそうになるが、唇を噛み締めた。
「やっぱり、私が食べます」
きっぱりと宣言するエーファに、客席のお客たちもなんだなんだと首を伸ばして窺っている。
「ね、大将。あれなら作れるんじゃない?」
それまで腕を組んで考えていたシノブが、手を叩いた。
「あれ?」
「ほら、小田原の伊勢さんの」
おお、と合点した様子で、さっそくタイショーが動きはじめる。
何が起こっているのか分からず、エーファにはただ見守ることしかできなかった。
「ハンス、酢を取ってくれ」
はい、とハンスもきびきびと動く。
「タイショー、私も何か……」
「じゃあ、エーファちゃんは巻き簾と海苔を用意して」
はい、と返事するよりも早く、身体が動いた。
いつもは皿洗いと給仕をしているが、何を指示されても大丈夫なように道具や材料の保管場所はちゃんと把握している。もちろん、マキスもノリもどこにあるかは分かっていた。
ソバを茹でるくつくつという音が耳に心地よい。
いったい、何を作るのだろうか。
シノブはウナギ弁当に使う弁当箱の用意をはじめている。
「今から作るのは、蕎麦寿司っていうの」
元々シノブやタイショーの故郷の料理ではないというが、以前お客さんに頼まれて作ったことがあるのだそうだ。
茹で上がったソバを笊に上げ、スシ酢とメンツユで味を調えていく。
甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐった。
一本摘まんでタイショーとシノブが味を見る。
この段階ではどんな料理に仕上がるのか、エーファには全く想像がつかない。
マキスに広げた海苔の上にソバを広げ、細く切った具材を並べる。
それをくるりと巻いて、ぐっと押し固めたかと思うと、するするとマキスが解かれた。
「わぁ!」
包丁で輪切りにしていくと、同じ断面が現れる。
客席のリュービクは興味津々でタイショーの一挙手一投足を見つめている。
自分の知らない調理技術を少しも見逃すつもりはないようだ。
タイショーはそのまま流れるような手際で、ウスアゲを開いていく。
油抜きをしたウスアゲを見て、エーファもピンときた。イナリズシだ。
あれだけ余っていたソバが、瞬く間に違う料理へと生まれ変わっていく。
前に吟遊詩人のクローヴィンケルがタイショーの料理を「魔法だ」と評したことがあるが、今、エーファの目の前で起こっていることは、正に魔法としか言いようがない。
「はい、食べてみて」
マキスで巻いたソバズシの端っこを、タイショーがエーファに手渡す。
パクリ。
口の中でほろり、とソバが解ける。
ソバの香り、スシズの香り、メンツユの香り。
色々な香りがふわりとエーファの鼻を通り過ぎていく。
「美味しいです!」
「おい、それはオレたちも食べられるのか?」
身を乗り出して尋ねるリュービクに、シノブがにこりと微笑んだ。
「はい、こちらの蕎麦寿司は皆さんのお土産としてご用意しております」
おお、という歓声が客席から上がった。
若い従業員は屋根裏や寮に住まわせている〈四翼の獅子〉亭だが、世帯を持った従業員や年嵩の料理人は店の外に自分の家を持っている。
自分たちだけが居酒屋ノブでの宴でいい思いをして、家族に持って帰る物がないというのは少し後ろめたい者もいたらしい。
弁当箱に手際よくソバズシのノリマキとイナリズシが詰められていく。
もちろん、イナリズシはカミダナにお供えするのを忘れない。
そのままの流れで宴はお開きになり、〈四翼の獅子〉亭の面々が三々五々退店していく。
たっぷり飲んで食べて腹もくちくなったらしく、皆満足そうだ。
宴の後にお土産があるというのも珍しいので、そのことを話している。
リュービクは〈四翼の獅子〉亭でもお土産が出せないか考えているらしい。
酔客たちにお土産の弁当を手渡しながら、エーファはタイショーに礼を言った。
「本当に、ありがとうございます」
「え、なにかあったかい」
どうやらタイショーは、ソバが余ったことをエーファの責任として考えるつもりはないようだ。
「いえ、なんでもないです。でも、ありがとうございます」
変なエーファちゃん、とシノブがくすくす笑う。
冬だというのに、どうしてこんなに胸が温かいのだろうか。
「あ、そうだ」
リオンティーヌが紐で結んだ弁当箱を二つ、ひょいと運んでくる。
「これ、エーファの分。弟さんと妹さんに持って帰るんだろう?」
ああ。
さっきはせっかく我慢したのに。
涙を拭いながら、はい、とエーファは返事をした。
「どうしたの、エーファちゃん! どこかぶつけた?」
シノブとタイショーが慌てる。
その様子がなんだかおかしくて、エーファは思いっきり笑った。
ふわふわと温かな雪が降りはじめている。