双月ソバとあたたかい雪(前編)
「そこでパトリツィアが言う訳だ。“考える前に捕まえろ”ってね」
今日のリュービクは上機嫌だ。
同じ話をしているのを、エーファはもう三回も聞いている。
いや、上機嫌なのはリュービクだけではなかった。
今日は〈四翼の獅子〉亭のパトリツィアとシモンの婚約の内祝いなのだ。
〈四翼の獅子〉亭の店員なのだからそちらでやればよいという気もするのだが、そこはそれ。
仕事に貪欲な〈四翼の獅子〉亭の店員たちに、他の店の料理を思う存分味わわせてやろうというリュービクの粋な計らいなのだという。
「こっちはポテトサラダとアンカケユドーフを!」
「ダシマキタマゴをお願いします」
せっかくの機会だと料理人たちは色々な料理を矢継ぎ早に注文するし、給仕の店員たちは日頃の憂さを晴らすように酒と肴を腹に詰め込む仕事に余念がない。
祝いの宴ということもあって、みんな幸せそうに舌鼓を打っている。
さすがに全員は入らないので交替だし、普段のお客さんを断っているわけでもないから、いつもよりもとっても忙しい。
常連の中にもパトリツィアとシモンのことを知っている人は少なくない。
いつになったら二人はくっつくのかとやきもきしていた人もいたというから、皆、周りのことをよく見ているものだと感心する。
お客はみんな二人の婚約を喜んでいて、杯を干すのもいつもより速かった。
もちろん、いつも通りナポリタンを食べているゲーアノートのような客もいるが。
「シノブちゃん、こっちにトリアエズナマ!」
「はい!」
「リオンティーヌさん、こっちにはワカドリノカラアゲとハンスのアレを二人前!」
「はいよ! それとアブラアゲお待ち! って、これはどこのテーブルだ?」
会話も弾んで料理の注文が後を絶たないから、厨房も給仕もきりきり舞いだ。
こういう時こそ、自分がしっかりしないと。
小さな拳を握りしめ、エーファは密かに闘志を燃やす。
「エーファちゃん、この丼もお願いね」
「はい、任せて下さい!」
エーファにとって今の戦場は、洗い場だ。とにかく洗うものが多いから少しも休む間がない。
それでも、エーファは返ってきたドンブリを洗いながら、思わずふにゃりと笑ってしまう。
このドンブリは、双月ソバに使ったドンブリだ。
双月ソバというのは最近新しく居酒屋ノブの品書きに加わった料理で、麺の入ったスープに卵が二つ、並んで浮かんでいる。
実はこの料理の名付け親は、エーファなのだ。
元々ソバをお店に出す時、浮かべる卵は一つきりだった。
タイショーやシノブの故郷では、これをツキミソバというらしい。
あちらの世界では、月が一つしかないと聞いたときにはエーファも驚いたものだった。
だが、ここは古都だ。
月が二つないというのは風情に欠ける。
そういうわけでエーファの発案によって卵は二つになり、名前も双月ソバとなった。
「なんとなく縁起のいい料理だよなぁ」
肉屋のフランクがそう言いながら、見よう見まねでハシを使いながらソバを手繰る。
満月二つのソバは縁起がいいということで、少しずつ話題が広まっているそうだ。
発案者として、いや、発明者としてのエーファも、鼻が高い。
家では双月ソバの話を日に七回もして、アードルフとアンゲリカには呆れられてしまった。
ハンスの考えた料理にはまだまだ勝てないが、ひょっとするといつかは双月ソバが大人気料理になる日が来るかもしれない。
そうなると、いやいや、そんなことはないのだが、そうなると、ちょっと嬉しい。
「エーファちゃん、このジョッキもお願い!」
「はい、すぐ洗います!」
思わず考え事に没頭してしまった。
皿を洗いながら、店内をしっかりと観察する。
お酒を注文する人が多そうならジョッキや酒杯を、料理を注文する人が多そうなら料理皿を先に洗ってしまわなければならない。
これが、意外に大切なのだ。
自分で給仕をしていて気付いたことなのだが、お客さんの機嫌は一瞬で変わってしまう。
少し給仕が遅れる、少し味付けが濃い、逆に薄い。
料理や酒を運ぶ順番に拘りのある人もいる。
怒り出す人はいないが、できることなら気持ちよく飲み食いして欲しい。
それだけのことで食事を楽しんでもらえなくなるということは、とても悲しいことだ。
タイショーもシノブも、可能な限りお客さんに店での時間を楽しんで貰うことを考えている。
エーファもそのためにできることをするのだ。
自分に出来ることは、給仕をできるだけ完璧に近づけること。
ジョッキやお皿が足りないと、お客さんに完全な状態での給仕ができない。だからエーファは、洗う順番にも気を配るのだ。
そういう些細なことを、誰に教わるでもなく、エーファは気を付けながら働いている。
自分がお客なら、自分が給仕なら、どう動いて欲しいか。
この働き方に気付いてくれる人は誰もいないだろうが、それはエーファにとって、どうでもいいことだった。
居酒屋ノブの一員として働いている。任された洗い場をしっかりと守り、その結果として店に来てくれたお客さんたちが料理とお酒を楽しめるということが、大切なのだ。
ゆくゆくは双月ソバのようにエーファの考えた料理でもっとお客さんが喜んでくれれば……
そんなことを考えながら皿を洗っていると、タイショーがぽつりと呟いた。
「……しまったな」
「何か足りない?」
買い出しに行こっか、とシノブが尋ねる。
「あ、いや……」
タイショーが後ろ頭を掻いた。
「実は、蕎麦が余っちゃいそうなんだよ」
申し訳なさそうに詫びるタイショーの言葉が、エーファの胸に刺さった。
ソバをたくさん用意するように頼んだのは、他ならぬエーファだからだ。
以前のタイショーはいい素材を見るとついつい仕入れ過ぎてしまう悪癖があった。最近は改善しようとシノブとエーファで帳面を見るようになって、鳴りを潜めている。
だというのに、よりにもよって、自分のせいで。
双月ソバは絶対に売れる。間違いない。
だってこんなに美味しいんですよ?
足りなくなってからソバを打つことはできないから、たくさん打ちましょう。
そうお願いしたのを思い出して、胃の腑が重くなった。
客席を見ると、宴もたけなわ。
もうみんな存分に飲み食いをして、お腹がぽこりと膨らんでいる。
ここで更に汁物を食べてもらうというのは、難しそうだ。
「すまない、俺の責任だ」
「……食べます」