ジョウヤナベの夜(後篇)
天国のような地獄を、抜け出す勇気。
目の前で小麦を練っているハンスのことをリオンティーヌが密かに尊敬しているのは、そこだ。
ベルトホルトの話を聞く限り、衛兵隊で勤め続けていてもハンスは一廉の人間として頭角を表していたに違いない。
世間知に富んだニコラウスと組めば、衛兵中隊長と言わず、連隊長代理にもなれたはずだ。
連隊長には貴族しかなれないが、その代理を預かる人間には平民が就くこともある。
帝国直轄都市である古都では連隊長代理をはじめとした管理職は平民にも門戸を開いているようだから、決してあり得ない話ではない。
傭兵の経験のあるリオンティーヌから見ても、ハンスはいい連隊長代理になっただろうと思う。
その道を知ってか知らずしてか、蹴った。
決断をリオンティーヌは愛する。
果断であることは、デュ・ルーヴの家風だ。
昔、東王国の南部が異教徒に襲われた時も、王を僭称する不忠の輩が叛乱をそそのかした時も、デュ・ルーヴの祖先は果断に決断し、名を残してきた。
傭兵という道を選んだのも、デュ・ルーヴの末裔だからという思いがあったからだ。
決断をしたハンスと、何も決められないリオンティーヌ。
毎日同じ道だけ馬車を牽く馬は、果たして幸せなのだろうか。
武名を轟かせるという夢は、露と消えた。
いや、そもそもその夢は自分のものだったのだろうか。考えはじめると、分からなくなる。
傭兵になる夢のために、家を飛び出したのか。
家を飛び出したかったから、傭兵になるという夢を抱いたフリをしたのか。
ちょうど煮えたホウレンソウを一口。
豚肉の旨味が沁みていい按配だ。
ハンスが下茹でをしてくれたので青臭さもなく、食べやすい。
雪に閉ざされた季節に青い菜を食べるのは、帝国の庶民にとっては贅沢なことのようだ。
戦場で焚火を囲んだ傭兵たちはそんなことをこぼしながら、薄い粥を啜っていた。
ここで豚肉を一口。
追いかけるようにして、アツカンをキュッと呷る。
じんわりと身体に滋味が広がっていく。
今宵の酒は、ジョウキゲンという銘柄だ。
熱燗にすると、堪らなく、美味い。
くぅっと声が漏れそうになるのを我慢したのは、ハンスが目の前で料理をしているからだ。
何となく、恥じらいのようなものを感じる。
次の一杯は、チビリチビリと。
ハンスの手を見る。
麺棒で生地を伸ばす手は、剣を持つ者に特有の険が鳴りを潜め、料理人のそれに近付きつつあるようにリオンティーヌには見えた。
鍋が煮え過ぎないように様子を見ながら、コナベダテに箸を伸ばす。
しみじみと、美味い。
丸く形を整えた生地に、ハンスが肉を練った種を包んでいく。
「新作かい?」
タイショーたちがギョウザと呼ぶ料理にしては、少し皮が熱いような気がする。
「ちょっと面白い工夫を考えたんだ」
背を伸ばしてカウンターの中をひょいと覗いてみると、種以外にも何かを皮に包んでいた。
「煮凝り(ジュルツ)?」
肉を煮込んだ汁を冷ましてやると、煮凝りができる。
ノブではときどき酒の肴としてオトーシで出てくるが、味わい深くて密かな人気だ。
ギョーザに入れるとどうなるのか、味の想像がつかない。
「焼いている内に煮凝り(ジュルツ)が溶けて、中でスープ(ズッペ)にならないかなって」
わくわくとした表情で説明するハンスに、リオンティーヌは思わず笑みがこぼれた。
成功するか失敗するかは分からないが、何事にも物怖じせずに挑戦する姿は見ていて楽しい。
頬杖を突いて、ハンスが種を包んでいくのを見る。
自分も何かにこうやって一途になれるだろうか。
「さ、どうなるかな……」
ギョウザと同じ要領で、ハンスが煮凝り入りの新作料理を焼いていく。
上手く成功すればいいのだが。
ジョウヤナベのホウレンソウをもむもむと食べながら、挑戦の行方をじっと見守る。
ある程度火が通ったところで、お湯を加えて蒸し焼きに。
じゅわっと沸き起こる湯気を蓋で閉じ込めると、じゅうじゅうと心地よい音が響いてくる。
目の前で料理が出来上がっていくというのは、いつ見てもいいものだ。
「……そろそろかな」
蓋を取り、ハンスがギョウザを取り出そうとする。
「あっ」
悲痛な声。
覗き込むと、皮が破れて汁がこぼれてしまっていた。
「あちゃあ」
まぁこういうこともあるだろう。
慰めの言葉をかけようとして、リオンティーヌの視線はハンスの横顔に釘付けになった。
悔しそうな、それでいて決して諦めないという強い意思の籠った表情。
「皮をもっと厚く……いや、それよりも何か返し方を工夫すれば……」
すぐに次の方法を真摯に考える。
このひたむきな姿勢は、親譲りなのか、天稟なのか。それともハンス自身が生きていく中で身に付けたものなのか。
得難い才能だなとしみじみ思う。
ハンスの横顔を肴に、アツカンを一杯。
「どれ、ちょっと見せてみなよ」
失敗を嘆くハンスに声を掛け、もう一度フライパンを覗く。
ひょい。
皮の破れたギョウザを口に放り込んだ。
溶けた煮凝りはハンスの見立て通り、熱いスープになったのだろう。
まだ少し残っていた温かい汁気が口の中でじゅわりと広がった。
「うーん」
「ど、どうかな?」
不安そうにリオンティーヌの顔色を窺うハンスに、にやりと微笑みかける。
「これにはトリアエズナマだね。こないだ舐めさせてもらったショウコウシュもいい」
味のことを言われると思っていたのか、なぁんだとハンスがほっと安堵の息を吐いた。
もう一つギョウザを取って、ジョウヤナベに放り込んでみる。
これもまた、いい味だ。
ちょっとゴマをかけるとよいかもしれない。
「皮を厚くしたら、スープに浮かべてもいいかもしれないね」
「ああ、元はそういう料理なんだ」
「へぇ、そうなのかい?」
ハンスが身振り手振りを交えて、昔語りをはじめる。
その話を肴に飲むと、不思議なほどにアツカンが進んだ。
一度食べ終えた料理の汁が、煮凝りになる。
その煮凝りもまた、新しい料理として命を授けることができるというのなら。
空の盃に、アツカンを改めて注ぐ。
スープにギョウザを浮かべて、どうやって酒に合う料理にするか。スープにはショウガが合うのではないか。あまり腹に溜まると売上が落ちてしまうかもしれない、とハンスは想像を巡らせるのに忙しそうだ。
ふと、ハンスが店を持ったら、自分はどうしようかと考える。
ハンスが店長兼料理人。
その隣には、女給仕としてリオンティーヌ。
いやいや、と首を振る。
そんな風にハンスを見ているつもりはないし、ハンスの方が迷惑に違いない。
迷惑には違いないが、確かめた訳ではないと思い直す。確かめるくらいならいいのではないか。
居酒屋というのは人手が要るし、ハンスの気に入る店員が見つかるまでの臨時店員というのも、ないではない。
思い切って、素知らぬ顔をして従業員になるという手もある。それも決断ひとつだ。
デュ・ルーヴの家は果断を愛するのではなかったか。
いずれにしても、まだ先のことだ。
今はただ、この天国のような時間を楽しもう。
今年の古都は雪が多い。
大雪で通りから人通りの絶えた日こそほとんどなかったが、積もるほどに降った日は両手指では足りなかった。
カウンターから振り向いて引き戸を通して通りを見ると、まだ雪が残っている。
雪は、どこから降るのだろうか。
きっと、天国の少し下から降るのだろう。
真っ白に降り積む雪を見ると、まだ春は遠そうだ。




