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幸せの先の贅沢(後篇)

 ニクドーフに、アツカン。


 どちらもホルストの耳に馴染みのない肴と酒だ。

 シノブによると、アツカンはタツリキという酒を温めているらしい。


 しっかりと煮込まれた肉と、白い何か(・・)

 見たことのない料理に一瞬怯みそうになるが、そんな気持ちは芳しい香りに掻き消された。

 煮込み料理(アイントプフ)は、温かさが命。

 木匙で白いトーフとやらを崩し、口へ放り込む。


「ほふっ、ほふっ」


 なんだ、これは。

 熱い、美味い、熱い。

 口の中でほろりと崩れるトーフそのものにはほとんど味がなかった。


 だが、それがいい。

 濃い味のスープでしっかりと煮込まれているから、この淡泊さが実によく合っている。


 そこへアツカンをキュッ。

 口の中へじゅわりと強い酒精と芳醇な香りがふわっと広がる。


 なんだ、これは。

 先ほどまでの寒さはどこへやら。身体の中からポカポカと温かさが広がる。


 そこへ、すかさず肉。

 よく煮込まれた肉は、噛むほどに滋味が染み出てくる。

 噛み締める奥歯が喜んでいるとでも言えばいいのだろうか。


 トーフの程よい柔らかさと、煮込まれた肉のしっかりとした美味さ。

 この組み合わせが、実に堪らない。


 フロフキダイコンとは煮込んでいるスープ(ズッペ)が違うのも工夫なのだろう。

 淡白な味わいのトーフにはニクドーフの濃い汁が何ともよく合っている。

 トーフ、アツカン、肉、トーフ、アツカン、肉……


 幸せの連鎖が止まらない。

 いつの間にか額に滲んだ汗を、腕で拭いながらニクドーフを頬張る。

 温かさがご馳走だと思ったが、今胸に宿るこの幸せは、なんだ。


 温かいだけでなく、美味しいだけでなく、全てがここにある。

 寒さもひもじさもすっかり吹き飛んで、今はただただこの匙を動かし続けたい。




「ふぅ」


 ニクドーフを食べ終えて、空になった皿へ木匙を置く。

 幸せの残響を味わいながら、ホルストはあばらの浮いた腹を撫でた。

 こういう食事ができるなら、古都まで出てきて日雇い仕事をするのも悪くない。

 幸せそのものの表情を浮かべるホルストの顔を見て、隣に座る銀髪の女性がニヤリと微笑んだ。


「この寒い冬に温かいってのは、幸せだろう?」

「幸せですね。これ以上の幸せはない」


 故郷のヴァイスシュタットも冬はひどく冷え込む街だった。

 内陸だから余計に冷え込むのだと古老が教えてくれたが、ホルストには仕組みが分からない。

 よく分からないなりに、老人の家を修理して隙間風を入り難くしてやったり、貧しい家には薪を運んでやったりと、懐かしい思い出がよみがえってくる。


「……その幸せの先、見てみたいとは思わないかい?」


 幸せの先?

 何のことだろうか。

 イングリドと名乗った銀髪の女性の隣で、弟子らしい女の子が袖を引いている。

 ひょっとして、何か恐ろしい禁呪か何かがあるのだろうか。


 ホルストは思わず、唾を飲んだ。

 思ったよりも酒が回っている。

 普段よりも気が大きくなっている自分を感じながら、ホルストは答えた。


「……見てみたいね」


 いったい何を見せてくれるというのか。

 返事は、嫣然とした微笑み。

 一瞬、ホルストにはイングリドが魔女か何かのように見えた。


「シノブちゃん。例のアレを、こちらのお客さんにも」


 かしこまりました、と頭を下げ、シノブが何かを用意する。

 何が出てくるのかとホルストは想像を巡らせた。


 温かいものは食べた。

 酒も飲んだ。

 冬に居酒屋で堪能できる幸せにこれ以上のものがあるだろうか。

 ほんの少しだけ待って、シノブが皿を運んできた。


「お待たせいたしました。バニラのアイスクリームです」


 硝子の丸皿には、雪のように白い塊が一つ。


「……冷たい?」

「ああ、そうだよ」


 目を丸くするホルストに、イングリドはにんまりと笑う。


「おいおい、温かいものを食べて幸せになった後に、冷たいものなんて……」

「そう、最高の贅沢だろう?」


 問われて、はたと考えた。

 寒い冬には温かいものを求める。

 暑い夏には逆に冷たいものが欲しくなるのが道理だ。

 しかし、寒い冬に温かいところで冷たいものを食べるとすると……


「冒瀆的だな……」


 だろう? とイングリドは視線だけで応える。

 ホルストは木匙でアイスクリームを削ろうとした。


 しかし、固い。

 木匙では歯が立たないな、と隣を見ると、イングリドは銀の匙でアイスクリームを食べている。


「すみません、こちらにもあのスプーンを」


 はい、お待ちください、と応えると、シノブはすぐにスプーンを持って来てくれた。

 これなら削りやすい。

 漸く一口分の大きさを取り出して、


 ぱくり。


 ホルストの口の中が、甘い天国になった。

 冷たくて甘く、幸せな味。

 フロフキダイコンとニクドーフによって少し火傷した口の中を、アイスクリームの冷たい甘みがなめらかに冷やしてくれる。


 なんという贅沢だろう。

 なんという幸福だろう。

 寒さに震えて居酒屋に入ったのに、今はこの冷たさに幸せを感じている。


 アイスクリームのように蕩ける笑みを浮かべるホルストを見て、イングリドもシノブもエーファもタイショーという料理人も、満足げだ。

 ここは、ただ美味い酒と肴を用意するだけでなく、幸せを味わわせる店なのだろう。


 きっと、また来よう。

 思ったよりも割安の支払いを終え、ホルストは店を出る。

 いつの間にか氷雨は上がり、双月が古都の道を照らしていた。


 明日からもしっかりと働こう。

 店を訪れる前には感じることのなかった確かな活力を、ホルストは腹の底に感じていた。


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