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旅人の帰還(前篇)

 粉雪の舞い散る中を、旅人は足早に進む。

 北風に急かされたように短い晩冬の陽は既に沈み、遥か西にほのかな名残を留めるだけだ。

 マグヌスはマントの襟を掻き合わせた。

 最後の丘を越えると、古都の城壁が見える。


 人々にもうすぐ閉門だと知らせる鐘の残響がまだ耳に残っていた。


「間に合えばいいが」


 脇を商人の馬車が慌てたように走り過ぎる。

 門が閉まっても冬に野営をさせられることは稀だ。


 何代か前の慈悲深い市参事会議長が冬の野営は忍びないと規制を緩和したお陰で、閉門した後も旅人が古都へ入ることは可能になった。

 但し、追加でかかる入市税の額は莫迦にならない。


 寒空の下に星明りだけを頼みに野営をするよりは銀貨を積んだ方が幾分ましだろうが、支払いはなるべく安く済ませたいのが人情というものだ。

 門番への余計な払いがなければ、その分だけ今夜の酒代を多く支払える。


 金髪に降り積む細かい雪を、手で払った。ついでに鼻の上の小さな眼鏡の曇りも拭っておく。

 朝の霜が溶け切らずにこの時分まで残った道を、マグヌスは黙々と歩いた。

 考えるのは、今晩何を食べるかだ。


 古都へ戻るのも久方ぶりだった。

 家族からは何通も帰って来いという便りが来ていたのだが、やりはじめた仕事を途中で投げ出す気にもなれず、何となく日延べをしている内にこんな季節になってしまったのだ。


 無難に、〈四翼の獅子〉亭だろうか。

 いやいや、〈飛ぶ車輪〉亭の肉料理も捨てがたい。

〈花園の熊〉亭は店を仕舞ったと風の噂に耳にしたから、候補からは外す。

 豆のスープが名物の店を覗いてもいいが、今日は少し贅沢がしたい。


 やはり、〈四翼の獅子〉亭だろう。

〈獅子の四十八皿〉が完成したという話は本当なのだろうか。

 口の中に、大リュービクの料理の味が広がる。


 あれも食べたい、これも食べたい。ああしかしそうなると腹一杯になってしまうぞ。

 空想するだけで思わず出そうになる涎を拭い、マグヌスは先を急いだ。

 古都の城壁、そして門が見える。

 楽しみな夕餉も、もうすぐだ。




 結果から言えば、期待は裏切られた。


 従業員に風邪が流行ったとかで、〈四翼の獅子〉亭は臨時休業中だったのだ。

 マグヌスは肩を落とした。

 せっかく口が〈四翼の獅子〉亭の口になっていたというのに。


 やれやれと思いながら、第二候補の〈飛ぶ車輪〉亭を目指そうとして、ふと足を止める。

 考えてみればこれはいい機会だ。

 古都は歴史が長いだけあって、飲み屋街に厚みがある。

 マグヌスも人後に落ちない酒飲みで多くの店でエールのジョッキを干した口だが、とはいえ暫く古都を離れていたのだ。


 それに旅に出る前にも色々と多忙にしていたから、実を言えば新しい店についてはとんと知識がない。馴染みの店に顔を出すのもいいものだが、新規開拓するのも、また一興。

 これだから酒飲みという趣味は興趣が尽きない。


 家路を急ぐ人、客を引く酒場の店員、飲み歩く酔人の間を縫うようにして、マグヌスは歩く。

 記憶と変わらぬ佇まいの店もあれば、代替わりしたのか雰囲気の変わった店もあった。

 こうして店とその客を眺めるのもまた、飲み歩きの楽しみだ。


 腰の水筒に自然と手が触れる。

 何日か前に川沿いの船宿で購った酒の入っていた革の水筒だ。

 船宿の亭主がなかなか気の利いた人物で、酒だけでなくチーズや干し肉などの肴も都合してくれたから、野宿で独酌するには不便はなかった。


 しかし、だ。

 マグヌスは自嘲の笑みを浮かべる。

 旅をする度に思うのだが、自分は余程、人が好きらしい。


 酒はある。

 肴も上等。

 手元には無聊を託つ物語の書物さえあってなお、酒場が恋しい。


 妙なものだと思いながら、店を探す。

 大通りを行き当たれば横丁へ。横丁から顔を覗かせて気になればその通りへ。

 自由気ままに歩くのは、物見遊山のようで楽しい。


 そんなことを考えていると、鼻歌が出る。

 鼻歌といっても玄人はだしで、ちょっとした吟遊詩人並には歌えると自負していた。

 粉雪もいつの間にか止み、そろそろ店を決めようかと思ったところで、マグヌスの視線に一軒の居酒屋が飛び込んでくる。


「居酒屋ノブ、か」


 異国情緒溢れる店構えの居酒屋については、マグヌスも当然、耳にしていた。

 実を言えば、何度か誘われたことさえある。

 誘われたと言っても、店からではない。店の常連である、マグヌスの家族からだ。

 何となく仕事を理由に断ってきたが、これも一つの節目かも知れない。


 マグヌスはそれほど敬虔な方ではない。

 それでも、〈四翼の獅子〉亭が仕舞っていたことと、ふらふらと歩いていたら〈馬丁宿〉通りで居酒屋ノブを見つけたことには、なんとなく運命じみたものを感じていた。


「ま、入るだけ入ってみるか」


 性に合わなければ別の店を探せばいい。

 それに、料理も酒もいいという話だ。

 呼ばれても来なかった理由はマグヌスの側にしかない。


 意を決して、マグヌスは居酒屋ノブのガラス戸を引き開けた。


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