一枚の羊皮紙(前篇)
鐘の音が、三つ。
それを聞いてゴドハルトは飛び起きた。
今日もまたギルドの執務室で机に突っ伏して寝ていたらしい。
大きな机の上には書きかけの手紙とインク壺、羽根ペンに封蝋用の蝋が整然と並べられている。
決済を待つ書類の山からは目を背け、ゴドハルトは眠気を覚ますために両頬を叩いた。
窓の外は、まだ薄暗い。
この時間に鐘が鳴らされるのは珍しいことだった。
水運ギルド〈水竜の鱗〉名物、ギルドマスターベル。
部下では判断できないことが起こった時、就寝中だろうと何だろうと、ゴドハルトを呼ぶ鐘だ。
一つなら、ゆっくりでもよい。
二つなら、それなりに急ぎの用事。
三つ鳴らせば、緊急事態だ。
上着を引っ掴んで、ゴドハルトは執務室から矢のように飛び出した。
ちょうど、階下から秘書を任せている壮年の男が上って来るところだ。
「ゴドハルト様、お休みのところ恐れ入ります」
「挨拶はいい。何があった」
「はい、実は当館の前にシルバーマン銀行の馬車が停まりまして」
むぅ、とゴドハルトは唸った。
銀行がこんな早朝に馬車を寄越すというのは、普通のことではない。
脳裏を過ったのは、事業拡大のために借りた金のことだった。
担保の価値はギルドと銀行との双方で確認したはずだが、何らかの事情で銀行側が貸し剥がしをしようと考える可能性はある。
銀行と徴税請負人と秋の天気は信用ならない。
口の中で悪罵を噛み殺しながら、ゴドハルトは上着に袖を通しながら階段を下りた。
報告の通り、館の前に馬車が停まっている。
そして、そこには見知った顔が一つ。
確かにこれは鐘三つだ。こんな状況を「就寝中」と放置していたのなら、ギルドマスターの座を放逐されても、文句は言えない。
「おはようございます、ゴドハルトさん。起こしてしまいましたか」
「おはよう、ラインホルトさん。随分とお早い来訪だな」
銀行の馬車と共にギルドを訪れたのは、〈金柳の小舟〉のラインホルトだった。
「いったい、こんな朝早くに何のようかね」
ラインホルトの後ろで馬車から貨幣の詰まった革袋を慎重に荷下ろしする銀行の行員を見ながらゴドハルトは尋ねる。
少なくとも金の取り立ての類いではないらしい。喜ばしい兆候だった。
シルバーマン銀行の馬車から刻印入りの革袋が下ろされるのと、積み込まれるのでは、今晩飲むラガーの味が随分と変わってくる。
「実は、買い取りたいものがありまして」
「性急なことだな、ラインホルトさん。普通大きな取引は、商談がすっかりできあがってから金を準備するものだよ」
「ええ。ですが、商談の材料として、実際に金を積んでみせるのも一つの策かと思いまして」
ゴドハルトは大きく頷いた。
目の前に貨幣の詰まった革袋を積まれて、商談を断ることのできる人間はあまりいない。
「それで、〈水竜の鱗〉から何を買い取ろうというのかね?」
ラインホルトの表情から柔和な笑みが消え、真剣なものとなる。
「実は、羊皮紙を一枚買い取りたいのです」